主イエスを信じる信仰だけで救われるのか?それとも、救いは「信仰+行ない」で、良い実を結ばなければクリスチャンであっても切り倒されて、火に投げ込まれるのか…?ひとつの聖句だけに注目すると、不安になってしまいます。文脈に沿って理解することの重要性をお裾分け♡
最近のバイスタで改めて感じたこと…聖書のみことばを文脈を無視して、ひとつひとつの聖句を取り出して語っても全体像はつかめない。どういう流れの中で語られたかの背景を理解することが大切です。
そして何よりもみことばをみことばで確認すること!
副読本はあくまでも参考としてのみに留めること!!
「私たちも良い実を結ばないと、切り倒されて火に投げ込まれるの?そういうメッセージを聞いたことがあるんだけど…」と訊かれました。これは、ルカ3:9のみことばからの質問です。
ルカ3:9には、確かにそう書いてありますが、これをそのままクリスチャンに適応するとどういうことになるのでしょう?
「良い実を結ばないと、切り倒されて火に投げ込まれる」と主張することは、《救い=信仰+行ない》ということになってしまいます。つまり、キリストの十字架のあがないだけでは不十分ということになるのです。この教えは、聖書的ではありません。
ヘブル9:12ーまた、やぎと子牛との血によってではなく、ご自分の血によって、ただ一度、まことの聖所にはいり、永遠のあがないを成し遂げられたのです。 …とあるように、ただ一度、十字架上で流されたご自身の血で、永遠のあがないを成し遂げられたのです。
では、ルカ3:9のみことばをどう理解したらよいのでしょう?
それは、文脈から理解することです。少なくともルカ3:2〜9くらいの範囲は読むべきです。
ルカ3:2ーアンナスとカヤパが大祭司であったころ、
ルカ3:3ーヨルダン川のほとりのすべての地方…ユダヤでの出来事であることは明白です。 ヨハネは誰に向かって罪が赦されるための悔い改めに基づくバプテスマを説いたのでしょう?
ルカ3:4~6ーイザヤ書40:3~4の引用ですが、イザヤは、どの民に向かって預言したのでしょう?
8節にその答えがあります。『われわれの先祖はアブラハムだ』と。アブラハムは「信仰の父」と呼ばれていますールカ16:24。
つまり、ユダヤ人に対してです。
荒野で叫ぶ者の声がする。ーバプテスマのヨハネのことです。「主を心にお迎えする準備をするように」と説いているのです。
ルカ3:5ー彼ら(cf 7節ー群衆)の心は、ある者は自己卑下し、ある者は高慢、またある者はひねくれていました。
主が心に来られると、必要以上の自己卑下は埋められて、自信過剰は低く謙遜にされ、ひねくれ者の心を平らに整えられるということです。主を心にお迎えする( 信じる)と、神のみ前に「私は愛されている」という平安が与えられ、神が造られた自分自身をそのまま受け入れられるようになるのです。
ルカ3:7ーバプテスマのヨハネは、神の契約の民としての自負が大きかったユダヤ人たちに警告しています。彼らは、歴史的記憶をたくさん宿し、誤った指導者たちによって導かれた人々でした。“まむしのすえたち”ー「サタンの子ら」と同じ意味。
バプテスマのヨハネは、ユダヤ人に向かって「まむしのすえたち」と呼びかけ、「神の契約の民だと言うのなら、悔い改めにふさわしい実を結べ」と言っているのです。「『契約の民ユダヤ人だから、神が滅ぼすわけがない』といって誇っていてはいけないと言っているのです。
神はこんな石ころ(異邦人)からでも、アブラハムの子孫(神を信じる者たち)をおこすことができるのだ。」と述べた後での9節のことばに繋がるのです。
つまり、ユダヤ人だからと甘んじてないで、ユダヤ人であっても信仰がなければ滅びるし、逆に異邦人であっても信仰者になることは可能だということです。
神を信じ、主の十字架のあがないを信じるクリスチャンが、良い実を結ばずに切り倒されて、火に投げ込まれるということはありません。なぜなら、クリスチャンには良い行ないがあらかじめ備えられています。
cf エペソ2:8~9…あなたがたはめぐみのゆえに、信仰によって救われたのです。それは自分自身から出たことではなく、神からの賜物です。行ないによるのではありません。だれも誇ることのないためです。
エペソ2:10ー私たちは神の作品であって、良い行ないをするためにキリスト・イエスにあって造られたのです。神は、私たちが良い行ないに歩むように、その良い行ないをもあらかじめ備えてくださったのです。 アーメン。
*文脈に沿って読み進めば自ずと正しい理解へと導かれます。それが御霊の働きです。cf ヨハネ16:13ーしかし、その方すなわち真理の御霊が来ると、あなたがたをすべての真理に導き入れます。御霊は自分から語るのではなく、聞くままを話し、またやがて起ころうとしていることをあなたがたに示すからです。
ぶつ切りで聖書を理解するのではなく、全体の文脈の中で神が何を伝えようとされているのかに、霊の目を開き、霊の耳を傾けましょう。神のみことばを実行することが、「神が備えてくださっている良い行ない」なのです。主の祝福がありますように。