使徒13:30~31ーしかし、神はこの方を死者の中からよみがえらせたのです。
イエスは幾日にもわたり、ご自分といっしょにガリラヤからエルサレムに上った人たちに、現れました。きょう、その人たちがこの民に対してイエスの証人となっています。
一世紀の人々、特に復活の主イエスに出会った弟子たちは『イエスの証人』になりました。
そのことは、イエスご自身も預言されています。
使徒1:8ーしかし、聖霊があなたがたの上に臨まれるとき、あなたがたは力を受けます。そして、エルサレム、ユダヤとサマリヤの全土、および地の果てにまで、わたしの証人となります。
*聖霊があなたがたの上に臨まれるとき…彼らは『イエスの証人』になりました。
聖霊が内住するまでは、イエスが死んだことに失望し、
ユダヤ人(パリサイ人たち)を恐れて、家に引きこもっていたり、
ヨハネ20:19ーその日、すなわち週の初めの日の夕方のことであった。弟子たちがいた所では、ユダヤ人を恐れて戸がしめてあったが、イエスが来られ、彼らの中に立って言われた。「平安があなたがたにあるように。」
復活の主イエスに出会って喜んだかと思いきや、次に主イエスが現われた時には霊を見ていると思い、驚き恐れ、取り乱し、
ルカ24:36~38ーこれらのことを話している間に、イエスご自身が彼らの真ん中に立たれた。
彼らは驚き恐れて、霊を見ているのだと思った。
すると、イエスは言われた。「なぜ取り乱しているのですか。どうして心に疑いを起こすのですか。
本当に『キリストの使徒』『キリストの弟子』と呼ぶには、弱々しい存在でした。
しかし、ヨハネの福音書を注意深く読むと、その書き方に変化があることに気づきます。
ヨハネの福音書20:19で、ユダヤ人たちを恐れて家に引きこもっていた弟子たちに、復活の主イエスが現われた20節以降です。
ヨハネ20:20ーこう言ってイエスは、その手とわき腹を彼らに示された。弟子たちは、主を見て喜んだ。
20節前半までは『イエス』と記されていますが、手と脇腹の傷跡を見た後半からは『イエス』ではなく、『主』に変わっています。
そして、神が第一のアダムを地のちりで造られたとき、その鼻からいのちの息を吹き込まれたように、
創世記2:7ー神である主は土地のちりで人を形造り、その鼻にいのちの息を吹き込まれた。そこで人は生きものとなった。
主イエスが再び、ご自分を『神の御子、メシア』として信じる弟子たちに、息を吹きかけて、聖霊を受けるようにと命じておられます。
ヨハネ20:22ーそして、こう言われると、彼らに息を吹きかけて言われた。「聖霊を受けなさい。
その上で、イエスは弟子たちを世に遣わされたのです。
ヨハネ20:23ーあなたがたがだれかの罪を赦すなら、その人の罪は赦され、あなたがたがだれかの罪をそのまま残すなら、それはそのまま残ります。」
人類の祖であるアダムとエバが、エデンの園で神の命令を退け、サタンのことばを信じて善悪の木の実を食べた瞬間から霊的に死んだ者となった人間に、再び神の創造のときのように『霊的にも生きる者』となる『道』が開かれました。
実際に、もう一人の助け主としての聖霊が与えられたのは、御国の鍵を渡されたペテロの宣教によって、
①使徒2章で、ユダヤ人信者たちに
②使徒8章で、サマリヤ人(異邦人との混血)信者たちに
③使徒10章で、異邦人信者たちにと、
使徒1:8の『エルサレム、ユダヤとサマリヤの全土、および地の果てにまで、わたしの証人となります』という、イエスの預言どおりの出来事でした。
その結果、新たにキリストの弟子となった者たちは、『キリスト者』と呼ばれるようになったのです。
使徒11:26ー彼に会って、アンテオケに連れて来た。そして、まる一年の間、彼らは教会に集まり、大ぜいの人たちを教えた。弟子たちは、アンテオケで初めて、キリスト者と呼ばれるようになった。
それに抵抗したのが、第二神殿を大改修したヘロデ大王の曾孫ヘロデ・アグリッパⅡ世です。 ヘロデ・アグリッパⅡ世はパウロを審問した時に、次のように言っています。
使徒26:28ーするとアグリッパはパウロに、「あなたは、わずかなことばで、私をキリスト者にしようとしている」と言った。
〜余談ですが、紛らわしいのでちょっと整理しておきましょう〜
イエス様の初臨時は、異邦人であるエドム人(アブラハム-イサク-エソウの子孫)であるヘロデがイスラエルの王となっていた時代でした。
• ヘロデ大王ー『ユダヤ人の王』として誕生された幼子イエスを殺そうとして、ベツレヘムとその周辺の二歳以下の男児を殺害。
• 息子のヘロデ・アンテパスーバプテスマのヨハネを斬首
• 孫のヘロデ・アグリッパー使徒ヤコブを剣で殺害
• 曾孫のヘロデ・アグリッパⅡ世ーパウロを審問
イエスは『油注がれた者=メシア/キリスト』であり、十字架の贖いと復活を信じて『キリストの弟子』となった者たちは『キリスト者』と呼ばれるようになりました。
そのキリスト・イエスは、ご自分と父なる神の関係をこう言われました。
ヨハネ10:30ーわたしと父とは一つです。
神もまた、御子を信じて『神の子ども』とされた者たちが『わたしの名で呼ばれる』と預言されています。
イザヤ43:7ーわたしの名で呼ばれるすべての者は、 わたしの栄光のために、わたしがこれを創造し、 これを形造り、これを造った。
私たちが現在知ることのできる『神の御名』とは、キリスト・イエスの御名の他にはありません。
使徒4:10~12ー皆さんも、またイスラエルのすべての人々も、よく知ってください。この人が直って、あなたがたの前に立っているのは、あなたがたが十字架につけ、神が死者の中からよみがえらせたナザレ人イエス・キリストの御名によるのです。 『あなたがた家を建てる者たちに捨てられた石が、礎の石となった』というのはこの方のことです。 この方以外には、だれによっても救いはありません。天の下でこの御名のほかに、私たちが救われるべき名は人に与えられていないからです。」
その御名を受けて私たちは今、キリストの十字架の贖いと復活という『キリストの福音』を宣べ伝える者として、『キリスト者』と呼ばれるようになっているのです。
そのために、聖霊が与えられました。
ヨハネ15:26~27ーわたしが父のもとから遣わす助け主、すなわち父から出る真理の御霊が来るとき、その御霊がわたしについてあかしします。 あなたがたもあかしするのです。初めからわたしといっしょにいたからです。
1ヨハネ5:10~12ー神の御子を信じる者は、このあかしを自分の心の中に持っています。神を信じない者は、神を偽り者とするのです。神が御子についてあかしされたことを信じないからです。 そのあかしとは、神が私たちに永遠のいのちを与えられたということ、そしてこのいのちが御子のうちにあるということです。 御子を持つ者はいのちを持っており、神の御子を持たない者はいのちを持っていません。
ペテロは、キリストの十字架の贖いを強調して『キリストの苦難の証人』だと、自分のことを語っています。
1ペテロ5:1ーそこで、私は、あなたがたのうちの長老たちに、同じく長老のひとり、キリストの苦難の証人、また、やがて現れる栄光にあずかる者として、お勧めします。
ヨハネを除く十一使徒、パウロ、ステパノ、バルナバ、マルコ、イエスの異父弟ヤコブ…彼らはみな殉教の死を遂げています。
唯一、天寿を全うしたヨハネも迫害により、島流しの刑に処せられ、そこでキリストの啓示が与えられ黙示録を記しました。
現在はまだ迫害の時代ではありません。 なのに、何故、現在の『キリスト者』には力がないのでしょうか?
初代教会の弟子たちと同じように御霊の内住があるのなら、その伝道には力があり、御霊によってみことばの真理を理解し、罪の奴隷から解放されるはずです。
ローマ6:6ー私たちの古い人がキリストとともに十字架につけられたのは、罪のからだが滅びて、私たちがもはやこれからは罪の奴隷でなくなるためであることを、私たちは知っています。
ローマ6:11~12ーこのように、あなたがたも、自分は罪に対しては死んだ者であり、神に対してはキリスト・イエスにあって生きた者だと、思いなさい。 ですから、あなたがたの死ぬべきからだを罪の支配にゆだねて、その情欲に従ってはいけません。
1ヨハネ2:4~6ー神を知っていると言いながら、その命令を守らない者は、偽り者であり、真理はその人のうちにありません。 しかし、みことばを守っている者なら、その人のうちには、確かに神の愛が全うされているのです。それによって、私たちが神のうちにいることがわかります。 神のうちにとどまっていると言う者は、自分でもキリストが歩まれたように歩まなければなりません。
1ヨハネ2:27ーあなたがたの場合は、キリストから受けたそそぎの油があなたがたのうちにとどまっています。それで、だれからも教えを受ける必要がありません。彼の油がすべてのことについてあなたがたを教えるように、――その教えは真理であって偽りではありません――また、その油があなたがたに教えたとおりに、あなたがたはキリストのうちにとどまるのです。
*油…聖霊/御霊の内住。
神が私たちに『永遠のいのち』をお与えになるということは、キリストご自身が死に打ち勝って『復活』されたからです。キリスト教は『復活信仰』です。
キリストの復活を信じられないまま、年数だけ教会に通い、バプテスマを受けても御霊の内住は起こりません。
御霊の内住のない信仰では、携挙の恵みにあずかることはできません。
なぜなら、救いの条件となる『キリストの福音』のすべてを信じていないからです。
マタイ7:21~23ーわたしに向かって、『主よ、主よ』と言う者がみな天の御国に入るのではなく、天におられるわたしの父のみこころを行う者が入るのです。
その日には、大ぜいの者がわたしに言うでしょう。『主よ、主よ。私たちはあなたの名によって預言をし、あなたの名によって悪霊を追い出し、あなたの名によって奇蹟をたくさん行ったではありませんか。』
しかし、その時、わたしは彼らにこう宣告します。『わたしはあなたがたを全然知らない。不法をなす者ども。わたしから離れて行け。』
福音の三要素の最後『キリストの復活』を信じていなければ、どれほど熱心に信仰生活を送ったとしても、また『キリストの福音』以外を福音として宣べ伝えとしたなら、やはり『携挙』の恵みからは漏れてしまいます。
なぜなら、それは『ほかの福音』になってしまうからです。
異邦人信者である私たちが倣うべき信仰の先輩は、初代教会の使徒たちであって、キリスト教の諸会派を始めた人々ではありません。
SNSを見ていると、最近はキリストの教えよりも、その教えを解釈して教えた人のことばに重きを置いた書き込みが増えています。注意していないと、『従うべき教え』を間違えてしまいます。
もちろん、彼らは素晴らしい教え『も』残しているとは思いますが、人に従う前にみことばで確認することが大切です。
使徒5:29ーペテロをはじめ使徒たちは答えて言った。「人に従うより、神に従うべきです。
誰から、どのような教えを受けたとしても、『道』であるキリストから逸れないためには、必ず聖書のみことばで確認することです。
使徒17:11bー非常に熱心にみことばを聞き、はたしてそのとおりかどうかと毎日聖書を調べた。
そして、脚注を駆使して、みことばをみことばで確認することです。
何故なら、サタンもみことばを用いて誘惑してくるからです。
詩篇119:11ーあなたに罪を犯さないため、
私は、あなたのことばを心にたくわえました。
サタンからの誘惑に打ち勝つには、神の武具の中で唯一の攻撃用の武器である『みことばの剣』が必要です。
神の御子キリスト・イエスのことばである聖書のみことばを心に蓄えるには、ただ暗記するだけでなく、文脈ー誰が、誰に対して、どのような状況で語っているのかーをよく吟味しなくてはなりません。それにより、どのような誘惑が来たときにどのみことばで勝利できるか選択することが可能になってきますから…。
『クリスチャン』を名乗るなら、『キリストの福音』から一つも漏れることなく、しっかりとした信仰の土台の上に、『キリストの証人』としての信仰生活を建て上げていかれますように。
それは『信じたこと自体が、無駄になってしまう』ー1コリント15:2(新共同訳聖書)ことがないためにです。