1コリント5:10ーそれは、世の中の不品行な者、貪欲な者、略奪する者、偶像を礼拝する者と全然交際しないようにという意味ではありません。
もしそうだとしたら、この世界から出て行かなければならないでしょう。
1コリント5:11ー私が書いたほんとうの意味は、もし、兄弟と呼ばれる者で、しかも不品行な者、貪欲な者、偶像を礼拝する者、人をそしるも者、酒に酔う者、略奪する者がいたなら、そのような者とつきあってはいけない、いっしょに食事をしてもいけない、ということです。
1コリント5:12ー外部の人たちをさばくことは、私のすべきことでしょうか。
あなたがたがさばくべき者は、内部の人たちではありませんか。
「あの人は救われている。」「この人は救われていない。」というのは、間違ったさばきです。それは、神様のみがおさばきになる領域だからです。
そういう意味で、聖書は「さばいてはいけません。」と言っているのです。
まだ、イエスを主であり、キリスト(救い主)と信じていない人たちのことを、「外部の人」とパウロは表現しています。
彼らと同じ社会で生活しながら、クリスチャンは「世の光」「地の塩」として聖い生活をすることを志し、キリストに似た者として、キリストの光栄を輝かせるように命じられています。
「内部の人」というのは、イエスを主であり、キリストと信じる者のことです。
キリストを主と信じる者が、外部の人と同じ基準で生活しているのなら、神の栄光を現わすことはできません。
ですから「内部の人をさばく」というのは、罪を罪だと教え、悔い改めに導くことを意味するのです。
神様の領域の「さばき」と「罪を罪だと教え、悔い改めに導くこと」とを混同してしまうと、耳に心地よい言葉、神の愛のみを説くこととなり、神の聖さや厳しさの側面が追いやられてしまうことになります。
肉の両親でさえ、子どもを愛するがゆえに善悪を教え、優しさの中にも厳しさがあるのです。
ましてや、父なる神様に愛と優しさがあるように、厳しさがあっても当然です。
ヘブル12:10ーなぜなら、肉の父親は、短い期間、自分が良いと思うままに私たちを懲らしめるのですが、霊の父は、私たちの益のため、私たちをご自分の聖さにあずからせようとして、懲らしめるのです。
どうかキリストにならう者として、みことばに親しみ、神の基準で物事の善悪を知る知識を得ることができますように。神の裁きの領域と、聖書が示す罪を罪と指摘して、悔い改めを促すことを混同しないようにお導きください。
すべての事を、主に在って、愛をもってできますように。
アーメン †