『救いの確信』を持っている信仰か、否か…。
みことばに根ざした揺るがない信仰なのか、海の荒波/風に揺れる葦のように上下左右に揺れる信仰なのか…。
これらはみことばの理解度にかかっています。
聖書のみことばを『神のことば』として確かに信じ、受け入れ、理解を深めていくことが大切ですね。
1ヨハネ5:1ーイエスがキリストであると信じる者はだれでも、神によって生まれたのです。生んでくださった方を愛する者はだれでも、その方によって生まれた者をも愛します。
『救い』は、いつの時代も『神の恵みにより、信仰を通して』与えられます。信じる内容は、各時代に神様がどこまでを明らかに啓示されていたかによりますが、この救いの原則は変わりません。
エペソ2:8~9ーあなたがたは、恵みのゆえに、信仰によって救われたのです。それは、自分自身から出たことではなく、神からの賜物です。
行いによるのではありません。だれも誇らないためです。
教会時代の現在は、『イエスがキリストである』と信じる者は『だれでも』神によって生まれた『神の子ども』にしていただける時代です。
ヨハネ1:12~13ーしかし、この方を受け入れた人々、すなわち、その名を信じた人々には、神の子どもとされる特権をお与えになった。
この人々は、血によってではなく、肉の欲求や人の意欲によってでもなく、ただ、神によって生まれたのである。
ローマ10:9~10ーなぜなら、もしあなたの口でイエスを主と告白し、あなたの心で神はイエスを死者の中からよみがえらせてくださったと信じるなら、あなたは救われるからです。
人は心に信じて義と認められ、口で告白して救われるのです。
そして、本当にイエスをキリストだと信じた者は、キリストの十字架の愛に応答しようとみことばに聞き従い、『兄弟愛』を実践するようになります。それが『良い行い』となって表れるのです。行いによって救われるのではなく、救われている信仰を持っていることを証明するのが『行い』なのです。
1ヨハネ5:2ー私たちが神を愛してその命令を守るなら、そのことによって、私たちが神の子どもたちを愛していることがわかります。
*神を愛してその命令を守るなら…神の命令は聖書に書かれていますから、聖書を読まずに、また読んでも意味を理解せずに、『自分の考えで、自分が良いと思ったこと』を行うのは、実は高慢であり不信仰です。
ヨハネ14:21ーわたしの戒めを保ち、それを守る人は、わたしを愛する人です。わたしを愛する人はわたしの父に愛され、わたしもその人を愛し、わたし自身を彼に現します。
1ヨハネ5:3ー神を愛するとは、神の命令を守ることです。その命令は重荷とはなりません。
*神の命令を守ること…著者ヨハネは、福音書でも書簡でも繰り返し『神の命令を守る』ように勧めています。信者にとって神の命令を守ることは、『重荷』とはなりません。
マタイ11:30ーわたしのくびきは負いやすく、わたしの荷は軽いからです。
私たちはよく少し前の28節ーすべて、疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。ーの聖句を好んで使います。
しかし、自分の重荷、悩みを主の元に持って行くだけで良いとは、聖書は言ってはいないのです。自分の重荷を主に委ねたら、『主のくびきを負う』必要があるのです。
そのことを忘れないようにしたいものですね。
なぜなら、神のみことばに従う人は罪から解放されて『自由』になるからです。
ヨハネ8:32ーそして、あなたがたは真理を知り、真理はあなたがたを自由にします。
1ヨハネ5:4ーなぜなら、神によって生まれた者はみな、世に勝つからです。私たちの信仰、これこそ、世に打ち勝った勝利です。
*世…神の価値観、神のみことばの教えに敵対するすべての力。空中の支配者であるサタンの価値観。
エペソ2:2ーそのころは、それらの罪の中にあってこの世の流れに従い、空中の権威を持つ支配者として今も不従順の子らの中に働いている霊に従って、歩んでいました。
*世に勝つ…ギリシャ語:世に勝ち続けて、の意。継続的な勝利。
*世に勝った勝利…すでに『世に勝った』ことが確定。主イエスを信じる信仰によって、私たちも日々勝ち続けることができるのです。そのために必要なのは、みことばの剣です。サタンからの攻撃に対し、エペソ書6章にある神の武具七つのうち、私たちが攻撃に使える武器は『みことばの剣』だけです。あとの六つは、サタンの攻撃から身を守る防御用です。
1ヨハネ5:5ー世に勝つ者とはだれでしょう。イエスを神の御子と信じる者ではありませんか。
*世に勝つ者…イエスが世に勝ったので、そのイエスを『神の子、キリストです』と信じる信者も世に勝つことができるのです。
1ヨハネ5:6ーこのイエス・キリストは、水と血とによって来られた方です。ただ水によってだけでなく、水と血とによって来られたのです。そして、あかしをする方は御霊です。御霊は真理だからです。
*水と血によって…多くの人がこの『水』をバプテスマの水だと勘違いして理解していますが、これは『神の子イエスが “人間” として来られたことを強調することばです。
水…人間の赤ちゃんが誕生するときに、母体からの潤滑油の役割をする『羊水』を意味します。(『羊水』と『羊』という漢字が使われていることに注目!イエス様は『神の小羊』として来られましたよね…)
血…肉体を持って来られたことを強調。
1ヨハネ5:7ーあかしするものが三つあります。
1ヨハネ5:8ー御霊と水と血です。この三つが一つとなるのです。
*御霊と水と血…5:6~8の『あかしするもの三つ』に関しては、こちらをご覧ください。
1ヨハネ5:9ーもし、私たちが人間のあかしを受け入れるなら、神のあかしはそれにまさるものです。御子についてあかしされたことが神のあかしだからです。
*人間のあかし…私たちは日常生活に於いて『◯◯さんがこう言ってた」とか「◯△牧師からこう聞いた」など、人から聞いた証言で成り立っています。子どもは親の言葉を信じ、親は子どもの言葉を信じ、友人や同僚のことばを信じて、信頼関係の上に成り立っています。そのように『人間のあかし』を受け入れるのであれば、人として来られた神の御子についての『神のあかし』は、尚更信頼に足るものなのです。聖書はそれをあかししている『神のことば』です。
ヨハネ20:31ーしかし、これらのことが書かれたのは、イエスが神の子キリストであることを、あなたがたが信じるため、また、信じて、イエスの御名によっていのちを得るためである。
1ヨハネ5:10ー神の御子を信じる者は、このあかしを自分の心の中に持っています。神を信じない者は、神を偽り者とするのです。神が御子についてあかしされたことを信じないからです。
*神を信じる者…『イエスが神の子キリストである』というあかしを心の中に持っている者。
*神を信じない者…『神はいない』とし、神を偽り者とする者。聖書はそのような人を『愚か者』と呼んでいます。
イザヤ53:1aー愚か者は心の中で「神はいない」と言っている。
1ヨハネ5:11ーそのあかしとは、神が私たちに永遠のいのちを与えられたということ、そしてこのいのちが御子のうちにあるということです。
*そのあかし…神が信者に永遠の命を与えられたということ。
ヨハネ3:16ー神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは、御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。
1ヨハネ5:12ー御子を持つ者はいのちを持っており、神の御子を持たない者はいのちを持っていません。
御子を信じる者には、聖霊の内住があります。それにより、信者は肉体だけでなく『霊的にも生きる者』となりました。この『霊的いのち』に将来、復活の栄光のからだが着せられて神の国に入れられることになります。
この『霊的いのち』を持たない不信者は、復活のからだは与えれますが、神の国には入れてもらえず『燃える火と硫黄の池』に送られ、そこで永遠に苦しむことになるのです。
たましいが肉体から離れた死後、どれほど深く真剣に悔い改めたとしても、もう神様には届きません。神様の忍耐は、その人が肉体的に生きている間だけです。そのことを説明しているたとえ話が、ルカ16章の『金持ちとラザロ』です。
肉体の死後に『セカンドチャンス』はありません!
1ヨハネ5:13ー私が神の御子の名を信じているあなたがたに対してこれらのことを書いたのは、あなたがたが永遠のいのちを持っていることを、あなたがたによくわからせるためです。
ヨハネは、ヨハネの福音書20:31に記したことと同じことを、ここでも繰り返し述べています。
*あなたがたが永遠のいのちを持っていることを、あなたがたによくわからせるため…当時の信者の中にも『救いの確信』がない人々がいたことがわかります。
1ヨハネ5:14ー何事でも神のみこころにかなう願いをするなら、神はその願いを聞いてくださるということ、これこそ神に対する私たちの確信です。
*願いを聞いてくださる…神に聞いてもらうには、『神のみこころにかなう願いをする』ことが必要です。神は信者のしもべではありませんから、信者の自分勝手な祈りがすべて聞かれるわけではありません。『神のみこころ』を知るためのツールも、聖書のみことばです。
1テサロニケ4:3~6aー神のみこころは、あなたがたが聖くなることです。あなたがたが不品行を避け、各自わきまえて、自分のからだを、聖く、また尊く保ち、神を知らない異邦人のように情欲におぼれず、また、このようなことで、兄弟を踏みつけたり、欺いたりしないことです。
神の子どもとして、私たちがこのような人になるように願うことは、必ず聞かれる願いです。
1ヨハネ5:15ー私たちの願う事を神が聞いてくださると知れば、神に願ったその事は、すでにかなえられたと知るのです。
*私たちが願う事を神が聞いてくださる…これは聖書的に正しい教理です。ここに神に対する信頼と確信があります。それは必ず『神様の時』にかなえられるのです。アブラハムも約束の子イサクが与えられるまで25年待たされましたから、あと私たちに必要なのは『忍耐』です。
1ヨハネ5:16ーだれでも兄弟が死に至らない罪を犯しているのを見たなら、神に求めなさい。そうすれば神はその人のために、死に至らない罪を犯している人々に、いのちをお与えになります。死に至る罪があります。この罪については、願うようにとは言いません。
*兄弟が…この聖句は、様々な解釈がなされます。しかしまず、注目すべきは『兄弟が』と条件が付いている点です。『兄弟』という表現は、信者に対して使われるものであり、不信者に対しては使われません。一度、イエスを信じた者が救いを失うことはありませんから、ここで言う『死』とは肉体の死のことであって、『霊的死』のことではないということがわかります。そのことを踏まえた上で理解する必要があります。
*死に至らない罪…私たち信者が、日常生活において犯す罪と考えて良いでしょう。つまり肉の行いのことであり、律法によって身代わりとなるいけにえの動物が定められている罪のことです。
モーセの律法では、神に対する冒瀆罪、偶像崇拝罪、姦淫罪、両親に対する不敬罪、殺意のある殺人罪、安息日を守らない罪など、いくつかの罪に対する贖いの動物の規定がなく、罪を犯した本人が自らのいのちを持って償わなければならない罪がありました。
1コリント5:1~5では、不品行の罪に止まり続けたコリント教会の信者をパウロは除籍処分にし、
1コリント5:5ーこのような者をサタンに引き渡したのです。それは彼の肉が滅ぼされるためですが、それによって彼の霊が主の日に救われるためです。
と、肉体の死が早まる可能性を示唆しています。
しかし、『彼の霊は主の日に救われるため』と、一度救われた者のたましいの救いは失われることはない、ということもはっきりと記しています。
ガラテヤ5:19~21aー肉の行いは明白であって、次のようなものです。
不品行、汚れ、好色、偶像礼拝、魔術、敵意、争い、そねみ、党派心、分裂、分派、ねたみ、酩酊、遊興、そういった類のものです。
このような肉に属する信仰は、御国での報酬を失うのです。
1ヨハネ5:17ー不正はみな罪ですが、死に至らない罪があります。
*死に至らない罪…異端的教えに惑わされて兄弟(兄弟)たちの交わりから出ることがなければ、互いに戒め合い、とりなし合うことにより、悔い改めることが可能です。
1ヨハネ5:18ー神によって生まれた者はだれも罪を犯さないことを、私たちは知っています。神から生まれた方が彼を守っていてくださるので、悪い者は彼に触れることができないのです。
*神によって生まれる…神から。
聖霊の働きによる…1コリント12:3bー聖霊によるのでなければ、だれも、「イエスは主です」と言うことはできない。
御父が引き寄せてくださった結果…ヨハネ6:44aーわたしを遣わした父が引き寄せられないかぎり、だれもわたしのところに来ることはできません。
ある時点をスタートとする…神の招きに『信じます』と信仰による応答した時。
本当の救いを経験した者は、霊的未熟さのゆえに罪を犯しても、内住の聖霊の働きにより罪が示され、悔い改めへと導かれます。
ヨハネ14:26ーしかし、助け主、すなわち、父がわたしの名によってお遣わしになる聖霊は、あなたがたにすべてのことを教え、また、わたしがあなたがたに話したすべてのことを思い起こさせてくださいます。
ヨハネ16:8ーその方が来ると、罪について、義について、さばきについて、世にその誤りを認めさせます。
1ヨハネ5:19ー私たちは神からの者であり、世全体は悪い者の支配下にあることを知っています。
*神からの者…信者は『神の子ども』とされ、神に属する、神の家族の一員となりました。しかし、世全体は現在も悪い者=サタンの支配下に置かれています。
1ヨハネ5:20ーしかし、神の御子が来て、真実な方を知る理解力を私たちに与えてくださったことを知っています。それで私たちは、真実な方のうちに、すなわち御子イエス・キリストのうちにいるのです。この方こそ、まことの神、永遠のいのちです。
*御子イエス・キリストのうちにいる…神のみことばにとどまる、の意。みことばが心に蓄えられている状態を保つこと。それには、日々のデボーション、みことばの学びが必要不可欠です。
詩篇119:11ーあなたに罪を犯さないため、
私は、あなたのことばを心にたくわえました。
1ヨハネ5:21ー子どもたちよ。偶像を警戒しなさい。
*偶像を警戒しなさい…神の御子キリスト以外を第一にしたり、他のものを拝むことはすべて『偶像崇拝』となります。
どうか、すべての信者が常に主イエス・キリストを第一として、生活の優先順位を決められますように。