神様は、聖書のみことばをユダヤ人に託されました。
彼らが何か特別優れていたわけでもなく、私たち異邦人が劣っていたわけでもなく、学校や会社で先生や上司から『何か特別な用事』を頼まれるようなものとしての『神様の選び』がそこにはあります。
それは、人間が作り出した偶像の神々ではなく、生きて働く真の神を礼拝する民を造るためでした。
出エジプト記3:18ー彼らはあなたの声に聞き従おう。あなたはイスラエルの長老たちといっしょにエジプトの王のところに行き、彼に『ヘブル人の神、主が私たちとお会いになりました。どうか今、私たちに荒野へ三日の道のりの旅をさせ、私たちの神、主にいけにえをささげさせてください』と言え。
*ヘブル人…川向こうから来た人々、の意。異邦人に対してイスラエルの民が自らを指して使う言葉。
*いけにえをささげる…礼拝する、の意。
出エジプト前の『十の災い』は、『エジプトの偶像の神々 VS 生きて働かれる真の神』であり、偶像の神々は無力であることを証明しました。
神は『真の神を礼拝する民』として、イスラエルにみことばを託されました。
イスラエルには、おきてとさばきを告げられる。
主は、どんな国々にも、
このようには、なさらなかった。
さばきについて彼らは知っていない。ハレルヤ。
ローマ3:1~2ーでは、ユダヤ人のすぐれたところは、いったい何ですか。割礼にどんな益があるのですか。
それは、あらゆる点から見て、大いにあります。第一に、彼らは神のいろいろなおことばをゆだねられています。
神様は、ご自分のご計画を遂行するのに、ユダヤ人を選ばれたのです。聖書には、クリスチャンを指して『霊的イスラエル』というみことばも概念もありません。一貫して『イスラエル』と『異邦人』を分けて表記されています。
みことばを託した『ユダヤ人』とそのユダヤ人からみことばを聞くことになる『異邦人』とに分けられ、『教会』はイエス・キリストを信じる『ユダヤ人信者』と『異邦人信者』が共に『新しいひとりの人=キリストの花嫁』として建て上げられるものです。
ですから、聖書は時々『異邦人』を不信者の代表として記しているのです。
エペソ2:11~12ーですから、思い出してください。あなたがたは、以前は肉において異邦人でした。すなわち、肉において人のてによる、いわゆる割礼を持つ者からは、無割礼の人々と呼ばれる者であって、
そのころのあなたがたは、キリストから離れ、イスラエルの国から除外され、約束の契約については他国人であり、この世にあって望みもなく、神のない人たちでした。
*割礼を持つ者…『割礼』はアブラハム契約のしるしで、ユダヤ人男子が生後八日目に受けるように律法で定められています。異邦人は『アブラハム契約』の対象外なので、割礼は受ける必要がありませんでした。ですから『無割礼の者』とは、異邦人を指す言葉です。
イエス様を『救い主』として信じるまでは、みな『不信者』なのです。信じてはいないのですから…。『未信者』という表現は、日本語独特のものであり、この先救われるかもしれないという希望的観測です。聖書的には “Believer=信者” 、もしくは “Non-believer=不信者” となります。
【不信者の特徴】
①キリストから離れている。
②イスラエルの国から除外されている。
③約束の契約(アブラハム契約)については他国人である。
④この世にあって望みがない人。
⑤神のない人。
…私たちも主イエスを信じるまでは、このような特徴を持つ人々の一人だったのです。
なぜ『ユダヤ人』がそんなに重要なのでしょうか?
イエス様のことばの中にその答えがあります。
ヨハネ4:22ー救いはユダヤ人から出るのですから、私たちは知って礼拝していますが、あなたがたは知らないで礼拝しています。
イエス様は、イザヤ書の中から『メシア預言』を引用して、サマリヤ(ユダヤ人と異邦人の混血)の女性に答えられたのです。
イザヤ2:3ー多くの民が来ていう。
「さあ、主の山、ヤコブの神の家に上ろう。
主はご自分の道を、私たちに教えてくださる。
私たちはその小道を歩もう。」
それは、シオンからみおしえが出、
エルサレムから主のことばが出るからだ。
そして、イザヤのこの預言どおり、イエス様はユダヤ人の母マリヤからお生まれになりました。
パウロはユダヤ人でありながら『異邦人の使徒』として神に選ばれ、異邦人に福音を宣べ伝えました。
ガラテヤ1:1ー使徒となったパウロー私が使徒となったのは、人間から出たことではなく、また人間の手を通したことでもなく、イエス・キリストと、キリストを死者の中からよみがえらせた父なる神によったのですー
ガラテヤ2:8ーペテロにみわざをなして、割礼を受けた者への使徒となさった方が、私にもみわざをなして、異邦人への使徒としてくださったのです。
では、パウロは何を『異邦人』に伝えたのでしょうか?それは、1コリント人への手紙に記されています。コリントの教会は、ギリシャにある異邦人の教会です。
1コリント15:3~4ー私があなたがたに最もたいせつなこととして伝えたのは、私も受けたことであって、次のことです。キリストは、聖書の示すとおりに、私たちの罪のために死なれたこと、
また葬られたこと、また、聖書の示すとおりに、三日目によみがえられたこと、
これが【福音の三要素】と言われるもので、私たちクリスチャンが宣べ伝えるべき福音です。つまり、キリストは
①私たちの罪のために死なれたこと。
②葬られたこと。
③三日目によみがえられたこと。
パウロは、この福音の重要性を次のように述べています。
1コリント15:2ーどんな言葉でわたしが福音を告げ知らせたか、しっかり覚えていれば、あなたがたはこの福音によって救われます。さもないと、あなたがたが信じたこと自体が、無駄になってしまうでしょう。(新共同訳聖書)
この福音を受け入れられるか否かが、信者と不信者を分けるのです。
ローマ10:9~10ーなぜなら、もしあなたの口でイエスを主と告白し、あなたの心で神はイエスを死者の中からよみがえらせてくださったと信じるなら、あなたは救われるからです。
人は心に信じて義と認められ、口で告白して救われるのです。
心でこの福音を信じた者が、口で「イエスは主です」と告白する者が『クリスチャン』であり、『神の子ども』としての特権を受けるのです。
ヨハネ1:12ーしかし、この方を受け入れた人々、すなわち、その名を信じた人々には、神の子どもとされる特権をお与えになった。
では、パウロが宣べ伝えた福音とは異なることを宣べ伝えたらどうなるのでしょう?
ガラテヤ1:8ーしかし、私たちであろうと、天の御使いであろうと、もし私たちが宣べ伝えた福音に反することをあなたがたに宣べ伝えるなら、その者は呪われるべきです。
つまり、私たちが宣べ伝えるべき福音も、聞くべき福音も、パウロが1コリント15:3~4で宣べ伝えた福音と同じであるべきだということです。異なる福音を宣べ伝えていることでよく知られている異端は、三位一体を認めない『モルモン教』、キリストの全知全能なる神性を認めない『エホバの証人』、自らを真の祖父母と称する『統一教会』などがあります。パウロは、『異なる福音』を信じ受け入れる者は、その信仰が無駄になると言っています。つまり、聖書がいう『救い』を得ることができない、神様の御前には『不信者』とされてしまうのです。
ある人々は『良い行い』によって天国に入ろうとします。『天国』とは、神様が治められる御国のことであり、そこに入るには、統治者であられる神様が決められた方法でのみ入ることができるのです。その方法が『イエスを通して』なのです。
ヨハネ14:6ーイエスは彼に言われた。「わたしが道であり、真理であり、いのちなのです。わたしを通してでなければ、だれひとり父のみもとに来ることはありません。
イエスが『道』であり『真理』です。他に『真理』も『道』もないのです。
多くの人は「愛の神は、そんなに厳密に排他的なことを言うはずがない。」また「天国という頂上に行くには、一つの道だけでなく多くの道があり、どの道を通っても宗教は良いものだから、同じ天国(極楽)に到達できるはずだ。」と言って反発します。
しかし、イエスははっきりと宣言しておられます。
マタイ7:13~14ー狭い門から入りなさい。滅びに至る門は大きく、その道は広いからです。そして、そこから入っていく者が多いのです。
いのちに至る門は小さく、その道は狭く、それを見いだす者はまれです。
ヨハネ10:9ーわたしは門です。だれでも、わたしを通って入るなら、救われます。また安らかに出入りし、牧草を見つけます。
なぜ、イエスという『道』や『門』を通る必要があるのでしょう?
それは、イエスが私たちのためになさったことに理由があるからです。
どの宗教の創始者が、私たちのために死んで、よみがえってくださったでしょうか?どの宗教が『死』から解き放ってくれたでしょうか?
パウロの伝えた福音は、まさにそのことを教えているのです!…それは、神の御子イエス・キリストだけであると!!
聖書の『三位一体の神』様だけが、その道を説き示してくださったのです。
御父・御子・御霊なる神は、私たちを救い、天の御国に導くためにどんな働きをされているのでしょうか?
【御父の働き】
ヨハネ3:16~17ー神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは、御子を信じるものが、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。
神が御子を世に遣わされたのは、世をさばくためではなく、御子によって世が救われるためである。
ヨハネ6:44ーわたしを遣わした父が引き寄せられないかぎり、だれもわたしのことろに来ることはできません。わたしは終わりの日にその人をよみがえらせます。
【御子の働き】
ヨハネ10:11ーわたしは、良い牧者です。良い牧者は羊のためにいのちを捨てます。
ヨハネ10:15bーまた、わたしは羊のためにわたしのいのちを捨てます。
ヨハネ10:18ーだれも、わたしからいのちを取った者はいません。わたしが自分からいのちを捨てるのです。わたしには、それを捨てる権威があり、それをもう一度得る権威があります。わたしはこの命令をわたしの父から受けたのです。
ヨハネ10:28ーわたしは彼らに永遠のいのちを与えます。彼らは決して滅びることがなく、また、だれもわたしの手から彼らを奪い去るようなことはありません。
【御霊の働き】
ヨハネ16:8ーその方が来ると、罪について、義について、さばきについて、世にその誤りを認めさせます。
*世…サタンの価値観で生きている『この世』の人々に対する御霊の働き。不信者に対する働き。
ヨハネ14:26ーしかし、助け主、すなわち、父がわたしの名によってお遣わしになる聖霊は、あなたがたにすべてのことを教え、また、わたしがあなたがたに話したすべてのことを思い起こさせてくださいます。
*あなたがた…弟子たち。信者に対する働き。
1コリント12:3bー聖霊によるのでなければ、だれも、「イエスは主です」ということはできません。
*主…神を『主』と呼ぶことは、神の権威と主権を強調すること。
御父と御子のみわざの共通点に気付かれましたか?
御子と御霊のみわざの共通点にも気付かれましたか?
なぜ、共通点があるのでしょう?それは、御父と御子と御霊が『神』としてひとつ…『三位一体』だからです。
ヨハネ10:30ーわたしと父とは一つです。
そればかりでなく、三位一体の神様は信じる者の心に住んでくださるのです。
ヨハネ14:16~17aーわたしは父にお願いします。そうすれば、父がもうひとりの助け主をあなたがたにお与えになります。その助け主がいつまでもあなたがたと、ともにおられるためにです。
その方は、真理の御霊です。
ヨハネ14:23ーイエスは彼に答えられた。「だれでもわたしを愛する人は、わたしのことばを守ります。そうすれば、私の父はその人を愛し、わたしたちはその人のところに来て、その人とともに住みます。
*わたしたち…御父と御子。
今世界を驚愕させているISISの人々が信じるイスラム教は、神のために信者がいのちを捨てます。
異端の教祖は、信者のために復活はしていません。まだ…。
しかし、聖書の神の御子は、信じる者の救いのために、自ら十字架でいのちを捨ててくださり、葬られました。そして、死に打ち勝って復活してくださいました。
このような神様は他にありません。だからこそ、『道であり、真理であり、いのちであるイエス以外に天の御国に行く方法はない』のです。
天の御国、救いは一方的な神の恵みです。
エペソ2:8~9ーあなたがたは、恵みのゆえに、信仰によって救われたのです。それは自分自身から出たことではなく、神からの賜物です。
行いによるのではありません。だれも誇ることのないためです。
この神の恵みに信仰によって応答した者だけが救われるのです。
人間側から見れば『キリストを信じる決心をした』ということになり、神様側から見れば『あなたを選んだ』ということになります。
それは、誰かがあなたに『福音』を伝え、影で祈りが積み重ねられており、その祈りに種が答えてくださった結果です。
ローマ10:17ーそのように、信仰は聞くことから始まり、聞くことは、キリストについてのみことばによるのです。
エホバの証人が伝えているのは『御国の良い便り』です。
モルモン教は、良い行いにより信者一人一人がやがて『神になる』ことを教えています。
異端はみな、『キリストについてのみことば』ではなく、他のものを宣べ伝えているのです。
では、イエスを主と信じ救われたら、それでいいのでしょうか?
神様の目的は『人類救済』だと考える人々は、救いがゴールだと思っています。そして、神は愛のお方なので、福音を聞く事なく亡くなった人々には、『死後にも救いのチャンスはある』と考えます。
しかし、聖書をよく読めば、そのようなことはどこにも書かれていないことは明らかです。むしろ、聖書はこのように言っています。
ローマ2:12ー律法なしに罪を犯した者はすべて、律法なしに滅び、律法の下にあって罪を犯した者はすべて、律法によって裁かれます。
*律法なし…異邦人。
*律法の下にあって…ユダヤ人。
ローマ2:13ーそれは、律法を聞く者が神の前に正しいのではなく、律法を行う者が正しいと認められるからです。
*律法を聞く者…ユダヤ人。彼らは『神の選びの民』ではあるけれど、それはユダヤ人として生まれた者は、無条件に救われるというものではありません。信仰があれば、神の命令である律法に聞き従いますから、『律法を守る』という行為によって信仰があることの証明になるわけです。しかし、律法は全部で613あり、一つでも違反すれば『律法の違反者』となるのです。なぜなら、律法を与えられた方が同じひとりの神だからです。聖書が『義人はひとりもいない』ーローマ3:10ーと言っているのは、律法全部を守れる人はひとりもいないからです。行いによって天の御国に入れる人はいません。
ローマ2:14ーー律法を持たない異邦人が、生まれつきのままで律法の命じる行いをする場合は、律法を持たなくても、自分自身が自分に対する律法なのです。
ローマ2:15ー彼らはこのようにして、律法の命じる行いが彼らの心に書かれていることを示しています。彼らの良心もいっしょになってあかしし、また、彼らの思いは互いに責め合ったり、また、弁明し合ったりしています。ー
*律法を持たない異邦人…神様は人間の心に『良心』を入れてくださいました。ノアの洪水(ノア契約)以降『人間の良心の時代』が続いています。異邦人の不信者の(罪の重軽を決める)裁きの基準は、各自の『良心』になります。
ローマ2:16ー私の福音によれば、神のさばきは、神がキリスト・イエスによって人々の隠れたことをさばかれる日に、行われるのです。
*神のさばき…終末に三つのさばきが行われます。ここでは、③の裁き。
①携挙(空中再臨)の時…キリストの御座の裁き。教会時代の信者の決算報告。
②地上再臨の時…羊と山羊の裁き。患難時代を生き延びた人々の裁き。
③千年王国の終わり…大いなる白い御座の裁き。アダム以降すべての時代の不信者の裁き。刑の重軽を決めるため。
救いの機会は、今の世で肉体が生きている間のみです。肉体の死(肉体と魂の分離)後には、救いのチャンスはありません。『煉獄』や『セカンドチャンス』という説は、聖書的ではありません。
神は不信者にはキリストを信じ、救われることを望まれ、すでに信じた者には、霊的に成長することを願っておられます。
エペソ4:12~13ーそれは、聖徒たちを整えて奉仕の働きをさせ、キリストのからだを建て上げるためであり、
ついに、私たちがみな、信仰の一致と神の御子に関する知識の一致とに達し、完全におとなになって、キリストの満ち満ちた身丈にまで達するためです。
救われたのだから、罪はすべて赦されたのだから、もうそれでいいと思っていたら、大きな勘違いです。確かに過去の罪も、今気付かずに犯している罪も、将来犯してしまうであろう罪も、キリストを信じた時点で主の御前で赦されています。
罪とは、『神の基準を満たしていないこと。足りないこと。』という意味です。
キリストにあって罪が赦されているというのは、その足りなさ、欠如をキリストの十字架が埋めてくださって、基準に達する者としてくださったということです。ですから、その感謝をもって、主に仕えていく必要があります。
信じるまでは、自分の欲に従い、罪の誘惑に対して “No!” と言えずに『罪の奴隷』として生きてきました。しかし、今は『罪の奴隷』から解放され、罪の誘惑に対して “No!” と言える『自由人』になりました。と同時に、キリストの命令に対しては “No!” と言えない『義の奴隷』になったということを覚えておくべきです。
ローマ6:18ー罪から解放されて、義の奴隷となったのです。
それは、自由意志によって主キリスト・イエスに従っていく人生です。
救いは『良い行い』によるのではありませんが、救われた者がキリストのことばに従っていくとき、それが『良い行い』となり、世にキリストを証ししたり、自分自身が主に属する者であることの証拠となるのです。ヤコブが書簡に記しているのは、まさにそのことです。
エペソ2:10ー私たちは神の作品であって、良い行いをするためにキリスト・イエスにあって造られたのです。神は、私たちが良い行いに歩むように、その良い行いをもあらかじめ備えてくださったのです。
ヨハネ14:15ーもしあなたがたがわたしを愛するなら、あなたがたはわたしの戒めを守るはずです。
ヨハネ14:21ーわたしの戒めを保ち、それを守る人は、わたしを愛する人です。わたしを愛する人は私の父に愛され、わたしもその人を愛し、わたし自身を彼に現します。
ヤコブ2:15~17ーもし、兄弟また姉妹のだれかが、着る物がなく、また、毎日の食べ物にもことかいているようなときに、
あなたがたのうちだれかが、その人たちに、「安心して生きなさい。暖かになり、十分に食べなさい」と言っても、もしからだに必要な物を与えないなら、何の役に立つでしょう。
それと同じように、信仰も、もし行いがなかったなら、それだけでは、死んだものです。
聖書が言う『良い行い』は、キリストのみことば、戒めを守り行った結果です。キリストの教えは多岐にわたります。ですから、聖書を読まなければ、読んでも理解しなければ『キリストの戒めを守る』ということはできません。
救われたと言いながら、聖書のみことばから離れた生活は、神に喜ばれる生き方ではありません。霊的成長には、みことばの乳、みことばのパンは必要不可欠です。
マタイ4:4ーイエスは答えて言われた。「『人はパンだけで生きるのではなく、神の口から出る一つ一つのことばによる。』と書いてある。」
Ⅱペテロ2:2aー生まれたばかりの乳飲み子のように、純粋な、みことばの乳を慕い求めなさい。
中でもよく知られているのが、『キリストの律法』『黄金律』『愛の律法』と言われるものです。
マタイ22:36~40ー「先生。律法の中で、たいせつな戒めはどれですか。」
そこで、イエスは彼に言われた。「『心を尽くし、思いを尽くし、知性を尽くして、あなたの神である主を愛せよ。』
これがたいせつな第一の戒めです。
『あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ』という第二の戒めも、それと同じようにたいせつです。
律法全体と預言者とが、この二つの戒めにかかっているのです。」
ヤコブの手紙の著者ヤコブの強調点もこの第二の戒めにあることがわかります。
目に見えない信仰は、行いによって証明されるのです。
しかしもし、行いのない信者がいたとしても、それ自体がその人が『初めから救われていない』とか『救いを失ってしまったのだ』とかは言えないのです。
一度得た『救い』を失うことはあるのか? 〜ヘブル6:1~8〜 - サザエのお裾分け
イエスの隣で十字架にかかった犯罪人の一人は、何の良い行いもしていないのに「あなたはきょう、わたしとともにパラダイスにいます。」とイエスに約束されました。
また、現代でも臨終の床で人生の最後の最後に主を信じて亡くなる方々もいます。
行いのない信仰は、神の御国を相続することはできないのでしょうか?
ガラテヤ5:19~21ー肉の行いは明白であって、次のようなものです。不品行、汚れ、好色、
偶像礼拝、魔術、敵意、争い、そねみ、憤り、党派心、分裂、分派、
妬み、酩酊、遊興、そういった類のものです。前にもあらかじめ言ったように、私は今もあなたがたにあらかじめ言っておきます。こんなことをしている者たちが神の国を相続することはありません。
マタイ5:20ーまことに、あなたがたに告げます。もしあなたがたの義が、律法学者やパリサイ人の義にまさるものでないなら、あなたがたは決して天の御国に、はいれません。
お気づきですか?
『神の国』『天の御国』は、旧約時代は『千年王国』を意味していました。私たちが今、思う御国は『永遠の天国』ですが、それはヨハネの黙示録の最後の2章まで隠されている奥義ですから、マタイもガラテヤも『千年王国』と理解すべきでしょう。そして、その相続は『アブラハム契約』の成就なのです。
*律法学者やパリサイ人にまさる義…彼らが追い求めていた『義』は、律法を守るという『行いによる義』でした。それに『まさる義』とは、メシアであるイエスを信じる『信仰による義』です。
マタイでは『天の御国(千年王国)にはいれない』と言っています。つまり、『千年王国にはいること』と『千年王国を相続すること』という違いがあり、イエスをメシア(キリスト)と信じる『信仰による義』によって『千年王国』にはいることができるのです。
しかし、信仰による行いが伴った忠実なしもべが『千年王国』を相続するのです。
だれがどのくらいの町を相続するか決まるのが、キリストの御座の裁きである信仰生活の決算報告でということになります。
一度、心でパウロが宣べ伝えた福音を信じ、口で「イエスは主です」と告白した者は、罪赦されて救われた者、信者、クリスチャン、キリスト者です。
キリストのみわざに対する感謝が増せば増すほど、愛による応答として、みことばに聞き従います。信仰生活には、みことば、祈り、応答としての行動が伴います。が、もし行いがなくても、祈りが足りなくても、みことばをあまり読まなくても、今の世で裁かられることはありません。キリストの御座の裁きで明らかにされます。御国での報酬としての相続は少なくなるかもしれませんが、御国にはいれないということは絶対にありません。
なぜなら、キリストは真実なお方ですから、気が変わったり、嘘をついたりすることはないからです。だから、平安のうちにみことばを学び、福音を伝え、喜んで主に仕えていけるのです。キリストを信じた者が、キリストに裏切られることは絶対にありません!
わたしはよみがえりです。いのちです。
わたしを信じる者は、死んでも生きるのです。