中風… 脳卒中の発作の後遺症として主に半身不随となる状態。中気。ちゅうぶ。(デジタル大辞泉)
マルコ2:1ーカペナウムにまた来られると、家におられることが知れ渡った…おそらくシモン・ペテロの家だと思われます。
cf マルコ1:21ーそれから、一行はカペナウムにはいった。そしてすぐに、イエスは安息日に会堂にはいって教えられた。
cf マルコ1:29ーイエスは会堂を出るとすぐに、ヤコブとヨハネ連れて、シモンとアンデレの家に入られた。
マルコ2:2ー戸口のところまで隙間もないほどに、多くの人々が集まったとありますが、実際自分のいる家がそのような状態になったら脅威を感じますよね?!
彼らは何のためにイエスのもとへやって来たのでしょう?そんな中でイエスは、何をしておられますか?
教会も『キリストのからだ』として聖書のみことばを真摯に、まっすぐに語るようになったら、人々が大ぜい集まって来る のではないかと思うのです。なんてたって、みことばに力があるのですから…!!
1コリント1:18ー十字架のことばは、滅びに至る人々には愚かであっても、救いを受ける私たちには、神の力です。
マルコ2:3ーそこにひとりの中風の人が連れて来られました。
その人はどのようにして連れて来られたのでしょう?私たちにもそこまでしてくれる『友人』がいるでしょうか?
イエスを信じる者には、もっと素晴しい愛を示してくれる『友人』がいることをご存じですか?
cf ヨハネ15:13~14ー人がその友のためにいのちを捨てるという、これより大きな愛はだれも持っていません。
わたしがあなたがたに命じることをあなたがたが行なうなら、あなたがたはわたしの友です。
*イエスは私たちの罪の身代わりとして、十字架の上で『いのちを捨てて』その愛を示してくださいました。
マルコ2:4ー屋根をはがし、穴をあけて、中風の人を寝かせたままその床をつり降ろした…現代なら『建造物等損壊罪』で訴えられそうですよね。^^;;
でもご心配なく。当時の家は穴をあけるのも、修復するのも、今よりは簡単でしたから。
マルコ2:5ーイエスは彼らの信仰を見て…彼らは何を『信じていた』のでしょう?
それに対しイエスは「あなたの罪は赦されました。」と言われました。
彼らは『病気を直してもらいに来た』のではないのでしょうか?
『罪』とこの人の『病気』は、何か関係があるのでしょうか?
cf ヨハネ9:1~3ーまたイエスは道の途中で、生まれつきの盲人を見られた。
弟子たちは彼についてイエスに質問して言った。「先生。彼が盲人に生まれついたのは、だれが罪を犯したからですか。この人ですか。その両親ですか。」
イエスは答えられた。「この人が罪を犯したのでもなく、両親でもありません。神のわざがこの人に現れるためです。
*当時、病気になるのは罪の結果だと考えられていました。だからイエスは、罪の結果としての病気を直接癒すのではなく、その『原因』である『罪の赦し』を宣言したのです。
マルコ2:6ーこの時、集まって来ていた人々の中に律法学者たちが数人すわっていました。彼らの胸中はどうだったでしょう?
マルコ2:7ー彼らはこのイエスのことばをどう受け止めていますか?また、イエスをどのように見ていますか?
マルコ2:8ーご自分の霊で…なぜイエスは、律法学者たちの心の思いを見抜くことができたのでしょう?
マルコ2:9ー半身不随の人にとって「起きて歩け。」と言うのと、「罪は赦された。」と宣言するのと、どちらが簡単でやさしいことであり、どちらがより大事なことだと思いますか?
イエスは罪の『結果』ではなく、『罪そのものの赦し』を宣言されました。神様の御前に『罪赦された者』として立つことが重要なのです。
マルコ2:10ーイエスは何のために、人々の前でこの人を癒されたのでしょう?
マルコ2:11ー「あなたに言う。起きなさい。寝床をたたんで、家に帰りなさい。」…イエスはその人に触れることなく、また薬を使うこともなく、『ことばによる命令』だけでその人の病気を癒されました。
命じられるだけで癒されるイエスとは、どのようなお方なのでしょうか?
cf ヨハネ1:1ー初めに、ことばがあった。ことばは神とともにあった。ことばは神であった。
cf コロサイ1:15~16ー御子は、見えない神のかたちであり、造られたすべてのものよりも先に生まれた方です。
なぜなら、万物は御子にあって造られたからです。天にあるもの、地にあるもの、見えるもの、また見えないもの、王座も主権も支配も権威も、すべて御子によって造られたのです。万物は、御子によって造られ、御子のために造られたのです。
マルコ2:12ーこの人はイエスのことばを聞いてすぐに従いました。彼自身と友人たちの願いと主イエスのみこころとが一致したのです。
もし彼が自分の常識から考えて(そんなことは、たとえこのイエスであってもあり得ない。)と思い、従わなかったとしたら、この奇蹟は起きなかったのです。
神のみことばに従って初めて『経験によって神を知る』ことができるのです。
みことばに従うことなく、『しるしや奇蹟』だけを求めるのは『不信仰 であって、神に喜ばれるものではありません。
この人は起き上がり、すぐに床を取り上げて、みんなの見ている前を出て行きました。そこに居た人たち全員が、このことの『証人』となり、神をあがめました。
もちろん律法学者たちも見たのです。問題はどのような心で、この事実を受け止めるかですね。