マタイの福音書8章には、5つの癒しが記されています。
①マタイ8:1~4…重い皮膚病の癒し。『ツァラート』に感染しているかどうかの判断は、祭司の務めでした。モーセの律法では神殿に入ることを禁止されていたので、霊的祝福を受けることもできなかった。レビ13:49~14:10
②マタイ8:5~13…百人隊長のしもべの癒し。カペナウムにいたローマの軍隊で百人編成の隊長。ユダヤ的理解では『主人の名』で送られた使者は、主人が来たのと同じ扱いとなりました。この百人隊長は、異邦人でありながらイエスをイスラエルのメシアだと信じたために、そのしもべは癒されたのです。これは『イスラエルを祝福する者は祝福される。』というアブラハム契約の祝福の成就。
③マタイ8:14~15…ペテロの姑の熱病の癒し。超自然的な癒し。
(マタイ8:16~17…イザヤ53:4のメシア預言の成就。)
イザヤ53:4ーまことに、彼は私たちの病を負い、
私たちの痛みをになった。
だが、私たちは思った。
彼は罰せられ、神に打たれ、苦しめられたのだと。
④マタイ8:23~27…自然界の癒し。ガリラヤ湖の暴風雨をしずめられた。
cf 水の上を歩くペテロ 〜マタイ14:22~34〜 - サザエのお裾分け
⑤マタイ8:28~34…悪霊につかれた人の癒し。デカポリス(十の町)と呼ばれるギリシャ・ローマ風の町の一つ、ガダラ人(異邦人)の地であったため、豚が飼われていました。悪霊たちの方がイエスを恐れています。イエスは悪霊を人から追い出し、豚の群れに入ることを許されました。(それぼど悪霊たちは、『アビス=底知れぬ所』には行きたくなかったということ。)
そんな中で二人の弟子が現われました。
マタイ8:19~20ー最初の者は、ひとりの律法学者。
この律法学者は、イエスのことを「先生」と呼び、『ラビ』であることを認めていますが、キリストの弟子となることは、優雅な生活はできなくなるということを理解していません。つまり、弟子となる『犠牲』をわかっていなかったのです。イエスの地上生涯は、貧しい生活だったのです。
二人目の弟子は、優柔不断の弟子。
マタイ8:21ーまた、別のひとりの弟子がイエスにこう言った。「主よ。まず行って、私の父を葬ることを許してください。」
*ひとりの弟子…すでにイエスをメシアとして信じる決心はしていたが、『従って行く』ということを先延ばしにしていた人。
*まず行って、私の父を葬ることを許してください… イスラエルでは、長男が父親を最期まで看取り、死後1年経つとその責務から解放されました。ですから、この人の父親が今危篤状態だとしても、イエスに従うにはまだ1年は先のことになるわけです。しかもこの時点で、父親が危篤だとは言っていないので、まだ健在であり、長男としての責務から解放されるにはあと何年先かわからない状態です。
マタイ10:37ーわたしよりも父や母を愛する者は、私にふさわしい者ではありません。また、わたしよりも息子や娘を愛する者はわたしにふさわしい者ではありません。
マタイ8:22ーところが、イエスは彼に言われた。「わたしについて来なさい。*死人たちに**彼らの中の死人たちを葬らせなさい。」
**死人たち…霊的に死んだ状態のこと。神様との関係を持っていない未信者のこと。
***彼らの中の死人たち…霊的に死んだままの状態で、肉体的にも死んだ人のこと。
神様を信じることのないまま、救いの機会を失った『不信者』のこと。
いつ解放されるかわからない長男という責務を優先させるのではなく、神の子としてキリストを信じ、従っていくことを優先させるようにという命令です。
キリストを信じるということは、行動が伴うことであり、行動が伴わない信仰は『死んだ信仰』だと聖書は言っています。
ヤコブ2:26ーたましいを離れたからだが、死んだものであるのと同様に、行ないのない信仰は、死んでいるのです。
家族が反対するからといって、イエスを信じることを諦めることがありませんように。
ローマ8:28ー神を愛する人々、すなわち、神のご計画に従って召された人々のためには、神がすべてのことを働かせて益としてくださることを、私たちは知っています。