マタイ17:14ー彼らが群衆のところに来たとき、ひとりの人がイエスのそば近くに来て、御前にひざまずいて言った。
*彼ら…イエスと三人の弟子たち、すなわち、ペテロ、ヤコブ、ヨハネ。
ヘルモン山での変貌の出来事の最中、山の麓では残された弟子たちに難題が持ち込まれていました。
それが、てんかんで苦しむ息子を持つ父親からの癒しの依頼でした。
山上の変貌を目撃したペテロ、ヤコブ、ヨハネ以外の九人の弟子たちは、この癒しをすることが出来なかったのです。
そこでこの父親は 、イエスに直接訴えました。
マタイ17:15ー「主よ。私の息子をあわれんでください。てんかんで、たいへん苦しんでおります。何度も何度も火の中に落ちたり、水の中に落ちたりいたします。
*てんかん…直訳:月に打たれた、の意。
*何度も何度も火の中に落ちたり、水の中に落ちたり…いのちにかかわること。
マタイ17:16ーそこで、その子をお弟子たちのところに連れて来たのですが、直すことができませんでした。」
*直すことができなかった…公生涯三年目の出来事。マタイ10:1~11:1でイエスから権威を授けられ、宣教の訓練に出された弟子たちでしたが、このような人のいのちまで狙うような強力な悪霊を追い出す力はありませんでした。
マタイ10:6~8ーイスラエルの家の滅びた羊のところに行きなさい。
行って、『天の御国が近づいた。』と宣べ伝えなさい。
病人を直し、死人を生き返らせ、らい病人をきよめ、悪霊を追い出しなさい。あなたがたは、ただで受けたのだから、ただで与えなさい。
マタイ17:17ーイエスは答えて言われた。「ああ、不信仰な、曲がった今の世だ。いつまであなたがたといっしょにいなければならないのでしょう。いつまであなたがたにがまんしていなければならないのでしょう。その子をわたしのところに連れて来なさい。」
イエスは十二弟子を使徒として次のような権威をお授けになったのに、彼らにはまだ信仰が足りなかったことを嘆いておられます。
マタイ10:1~4ー イエスは十二弟子を呼び寄せて、汚れた霊どもを制する権威をお授けになった。霊どもを追い出し、あらゆる病気、あらゆるわずらいをいやすためであった。
さて、十二使徒の名は次のとおりである。まず、ペテロと呼ばれたシモンとその兄弟アンデレ、ゼベタイの子ヤコブとその兄弟ヨハネ、
ピリポとバルトロマイ、トマスと取税人マタイ、アルパヨの子ヤコブとタダイ、
マタイ17:18ーそして、イエスがその子をおしかりになると、悪霊は彼から出て行き、その子はその時から直った。
*その子をおしかりになると…ギリシャ語では、小さな子どもや悪霊を指す言葉として、英語でいう “ it ” が使われています。そのため、訳者によって『その子』を指すことばとしてしまっていますが、この場合、子どもは悪くないので『その子の中の悪霊をおしかりになると』と訳出すべきです。
マタイ17:19ーそのとき、弟子たちはそっとイエスのもとに来て、言った。「なぜ、私たちには悪霊を追い出せなかったのですか。」
*弟子たちはそっとイエスのもとに来て…子どもに憑いた悪霊を追い出すことのできなかった九人の弟子たちは、恥じ入るように『そっと』イエスのもとに来て質問しました。
マタイ17:20ーイエスは言われた。「あなたがたの信仰が薄いからです。まことに、あなたがたに告げます。もし、からし種ほどの信仰があったら、この山に、『ここからあそこに移れ』と言えば移るのです。どんなことでも、あなたがたにできないことはありません。
*この山…地理的には、文脈から『ヘルモン山』。
しかし、突然『山』が使われていることから、象徴的な意味であることがわかります。
象徴的に『山』とは、『王座』『王国』『王としての権威』をあらわします。
ここでは『サタンの王国』の意。
イザヤ14:13~14ー あなたは心の中で言った。
『私は天に上ろう。…①もっとも高い地位に就こう。
神の星々のはるか上に私の王座を上げ、…②天使長ミカエルの地位を狙おう。
北の果てにある会合の山にすわろう。…③メシア的王国(千年王国)におけるイスラエルの地位を奪おう。
密雲の頂に上り、…④象徴的に雲が使われる場合は、シャカイナグローリー(神の栄光)を指す。
いと高き方のようになろう。』…⑤天と地の所有者になりたい。
①〜⑤は、後に反キリストが宣言し得る内容となっています。
ダニエル7:25ー彼は、いと高き方に逆らうことばを吐き、
いと高き方の聖徒たちを滅ぼし尽くそうとする。
彼は時と法則を変えようとし、
聖徒たちは、ひと時とふた時と半時の間、
彼の手にゆだねられる。
ダニエル11:36ーこの王は、思いのままにふるまい、すべての神よりも自分を高め、大いなるものとし、神の神に向かってあきれ果てるようなことを語り、憤りが終わるまで栄える。定められていることが、なされるからである。
黙示録13:6ーそこで、彼はその口を開いて、神に対するけがしごとを言い始めた。すなわち、神の御名と、その幕屋、すなわち、天に住む者たちをののしった。
マタイ17:21ー〔ただし、この種のものは、祈りと断食によらなければ出て行きません。〕」
※[ ]内は、古い写本の多くがこの節を欠いていることを示します。
*この種のもの…メシア的わざのこと。
当時のユダヤ人たちの悪霊の追い出し方は、まず悪霊の名を聞き出し、その名を呼んで、その人から出て行くように命じるというものでした。
しかし、口をきけなくし、耳を聞こえなくする霊の場合、その名を聞き出すことは不可能であるため、メシアしかできないわざとされていました。
マルコ5:9~13ーそれで、「おまえの名は何か」とお尋ねになると、「私の名はレギオンです。私たちは大ぜいですから」と言った。
ところで、その山腹に、豚の大群が飼ってあった。
彼らはイエスに願って言った。「私たちを豚の中に送って、彼らに乗り移らせてください。」イエスがそれを許されたので、汚れた霊どもは出て行って、豚に乗り移った。すると、二千匹ほどの豚の群れが、険しいがけを駆け降り、湖へなだれ落ちて、湖におぼれてしまった。
マタイ11:5~6ー目の見えない者たちが見、足の不自由な者たちが歩き、ツァラアトに冒された者たちがきよめられ、耳の聞こえない者たちが聞き、死人たちが生き返り、貧しい者たちに福音が伝えられています。
だれでも、わたしにつまずかない者は幸いです。
これらは、イザヤ35:5~6, 40:9, 42:7などの『メシア預言』の成就です。
つまり、メシア的わざを行うには、たとえイエスから悪霊を追い出し、あらゆる病気、あらゆるわずらいをいやす権威を授けられたとしても、祈りと断食が必要だということ。
マタイ11:5の『メシア的奇蹟』を行なったのは、イエスから権威を授けられた使徒たちと、使徒たちから直接按手を受けた初代教会時代の人々のみです。
それは、彼らが宣べ伝えるイエスがメシアであることのしるしとして与えられた賜物です。
すべての信者に同じ同じ賜物が与えられているわけではありません。
同じようなみことばがマルコの福音書にもありますが、マルコの文脈では、公生涯の終わりのエルサレム入城後の教えとして記されています。
癒しの奇蹟ではなく、『枯れたいちじく』の出来事との関連での教えです。
マルコ11:22ーイエスは答えて言われた。「神を信じなさい。
*神を信じなさい…祈りがきかれる大前提です。
神を信じるとは…1コリント15:3~4のキリストの福音を信じ、神のことばである聖書のみことばを信じるということです。
マルコ11:23ーまことに、あなたがたに告げます。だれでも、この山に向かって、『動いて、海に入れ』と言って、心の中で疑わず、ただ、自分の言ったとおりになると信じるなら、そのとおりになります。
*まことに、あなたがたに告げます…ヘブル語:アーメン
これから大事なことを語るときの前置きの言い方。
*この山…エルサレム入城後なので、ヘルモン山ではなく『オリーブ山』のこと。
*海…死海
ここは『誇張法』で語られています。
実際に山を動かすわけではありません。ここでは、私たちの日常生活における解決困難な問題についての教えです。
祈りがきかれるには、次のことが大切だと教えています。
①神を信じること…ヘブル11:6ー信仰がなくては、神に喜ばれることはできません。神に近づく者は、神がおられることと、神を求める者には報いてくださる方であることとを、信じなければならないのです。
②心の中で疑わず…否定
③自分の言ったとおりになると信じる…肯定
マルコ11:24ーだからあなたがたに言うのです。祈って求めるものは何でも、すでに受けたと信じなさい。そうすれば、そのとおりになります。
しかし、イエスは罪の無い人であり、100%の信仰と従順な歩みをされたお方です。
そのイエスの願いの中でひとつだけきかれなかった祈りがありました。
マルコ14:36ー「アバ、父よ。あなたにおできにならないことはありません。どうぞ、この杯をわたしから取りのけてください。しかし、わたしの願うことではなく、あなたのみこころのままを、なさってください。」
*そのとおりになります…祈ったとおりになるには、自分の祈りと神のみこころとが一致したときです。
重篤な病にかかったときに「祈りが足りないからだ」とか「祈れば癒される」と軽はずみなことは言えません。
もちろん、神は信者が祈ることを良しとされますが、その祈りがきかれ、癒されるかどうかは『みこころならば』であることを忘れてはいけないのです。
ダニエルの三人の友人たちは、神は彼らを燃える炉の中から助け出すことのできる神だと告白しつつも、「たとえそうならなくても」つまり、神のみこころが自分たちがここで死ぬことにあるのなら、それをも受け入れるという絶対的な信仰を告白しました。
ダニエル3:16~18ーシャデラク、メシャク、アベデ・ネゴはネブカデネザル王に言った。「私たちはこのことについて、あなたにお答えする必要はありません。
もし、そうなれば、私たちの仕える神は、火の燃える炉から私たちを救い出すことができます。王よ。神は私たちをあなたの手から救い出します。
しかし、もしそうでなくても、王よ、ご承知ください。私たちはあなたの神々に仕えず、あなたが立てた金の像を拝むこともしません。」
聖書の神は、全知全能なるお方であり、神にとって不可能はありません。
その大前提にしっかりと信仰的に立って、神の栄光が現れるために、みこころに沿った祈りを捧げる必要があるのではないでしょうか?
ヤコブ4:3ー願っても受けられないのは、自分の快楽のために使おうとして、悪い動機で願うからです。