ここまで、①メルキゼデクとイエス、②メルキゼデクとアロンを比較してきました。
そしてここでは、三つ目として『レビ系祭司職と祭司としてのイエス』を比較しています。
ポイントは、レビ系祭司職がなぜ完全に到達できなかったのか、また、完全に到達できなかった結果、一人の祭司から他の祭司にとって代わらなければならなかったのかを説明することにあります。
もし完全に至っていたのなら、一人の祭司だけでよかったはずです。
ヘブル7:11ーさて、もしレビ系の祭司職によって完全に到達できたのだったら、――民はそれを基礎として律法を与えられたのです――それ以上何の必要があって、アロンの位でな く、メルキゼデクの位に等しいと呼ばれる他の祭司が立てられたのでしょうか。
*完全…ギリシャ語:『成熟』を意味。
著者はまず、古いレビ系祭司職は一時的であり、霊的成熟に完全に到達できないため交代されたということを記しています。
レビ系祭司職とモーセの律法は、切り離すことのできない関係があります。したがって、レビ系祭司職を完成させた者は、モーセの律法をも完成させるのです。
レビ系祭司制度が確立されたのは、モーセ五書によってです。
詩篇110:4ー主は誓い、そしてみこころを変えない。
「あなたは、メルキゼデクの例にならい、
とこしえに祭司である。」
と預言されている来たるべきもう一人の祭司が、メルキゼデクの位を担い、アロンの地位に取って代わることになります。
律法により、レビ系祭司がしばらく機能した後でこの預言は成就しました。
ヘブル7:12ー 祭司職が変われば、律法も必ず変わらなければなりませんが、
*祭司職が変われば…レビ人からメルキゼデク的な祭司職への変更は、法的変更を必要としました。律法によって霊的成熟に達することができなかったために、律法の下に仕えている祭司は死ななくてはなりませんでした。
また、レビ系祭司職とモーセの律法は、切り離すことのできない関係にあったので、レビ系祭司職を廃止するには、律法も廃止する必要がありました。
ヘブル7:13ー 私たちが今まで論じて来たその方は、祭壇に仕える者を出したことのない別の部族に属しておられるのです。
*祭壇に仕える者を出したことのない別の部族に属しておられる… 著者はここで、メルキゼデクの位の祭司は、レビ族からではない他の部族から出ると宣べています。
これは、来たるべきメシアがアロンの家系でも、レビ族の家系でもないことを意味しています。メシアとして来られたイエスは、ユダ族のダビデの家系ですから、モーセの律法ではユダ族に属する者が、祭壇の務めに就くことはできませんでした。
ヘブル7:14ー私たちの主が、ユダ族から出られたことは明らかですが、モーセは、この部族については、祭司に関することを何も述べていません。
メルキゼデクの位の祭司となる者(イエス)の部族:ユダ族について、モーセは何も語りませんでした。
ヘブル7:15ーもしメルキゼデクに等しい、別の祭司が立てられるのなら、以上のことは、いよいよ明らかになります。
ここで著者が教えているのは、メルキゼデクに等しい別な祭司が立てられるということは、レビ系祭司職は『一時的』であったということです。
*別の…二つのギリシャ語のうち、ここでは『異なる種類のもう一つ』という意味の単語が使われている。“もう一人のレビ族の祭司” という意味ではなく、レビ族とは異なる祭司職だということ。
ヘブル7:16ーその祭司は、肉についての戒めである律法にはよらないで、朽ちることのない、いのちの力によって祭司となったのです。
『旧い祭司職』と『新しい祭司職』の対比。
・旧い祭司職…モーセの律法に基づく外部的なもの。家系で引き継がれた。
・新しい祭司職…内側の力に基づく、内部的なもの。家系とは関係ないところで祭司となられ、祭司であり続けるお方です。
*肉…『世俗的な』の意。
律法に基礎を置くレビ系祭司は、父親が祭司であったというだけでその人も祭司となりました。これはユダヤ人の歴史の中で、一部のふさわしくない祭司を生み出す結果となりました。
イエスの場合、基礎は尽きることのない命の力にありました。イエスは復活後に祭司となられ、復活により永遠に生きておられるお方です。
ヘブル7:17ーこの方については、こうあかしされています。
「あなたは、とこしえに、
メルキゼデクの位に等しい祭司である。」
著者は、二つのことを強調して詩篇110:4から引用しています。
①祭司の形式主義について…あなたはとこしえに祭司である。
②新しい祭司の特徴として…メルキゼデクの位に等しい祭司である。
これはモーセの律法の下で与えられた預言でした。著者はすでに11~12節で、祭司職が変われば律法も変わらなくてはならないことを述べていて、次の18節では、律法が完全に取り除かれることを伝えています。
ヘブル7:18ー一方で、前の戒めは、弱く無益なために、廃止されましたが、
*廃止されました…ヘブル9:26で著者が『罪が取り除かれる』ということについて語ったのと同じギリシャ語。
イエスの死が罪を取り除いたのと同じように、イエスの死は律法をも廃止されました。
律法が廃止されたのは、
①弱さのため…律法の命じる命令を成し遂げる強さを人に与えることができず、律法によっては義と認められることはありませんでした。
②無益のため…律法では、いのちを授けることはできませんでした。
律法が廃止されることは、新しい祭司としてイエスが働くために、不可欠なことでした。律法がまだ有効であるならば、イエスは祭司にはなれなかったからです。
律法が廃止されたがゆえに、イエスは祭司になり得たのです。
ヘブル7:19――律法は何事も全うしなかったのです―他方で、さらにすぐれた希望が導き入れられました。私たちはこれによって神に近づくのです。
聖書は『律法は何事も全うしなかった』と言っています。そのため、新しい祭司とともに新しい祭司職が必要でした。
律法では、祭司は霊的成長へと導くことはできませんでした。律法がなし得たことは、完全な祭司を指し示すことでした。
ガラテヤ3:23~25ー信仰が現れる以前には、私たちは律法の監督の下に置かれ、閉じ込められていましたが、それは、やがて示される信仰が得られるためでした。
こうして、律法は私たちをキリストへ導くための私たちの養育係となりました。私たちが信仰によって義と認められるためなのです。
しかし、信仰が現れた以上、私たちはもはや養育係の下にはいません。
律法の目的の一つは、『キリストへ導くための養育係』でした。
律法は完成された祭司を指し示すだけであり、その祭司は新しい大祭司という、より優れた希望がもたらされたのです。最終的に与えられた祭司職は『大祭司』であるため、神の御前へのアクセスとなりました。この祭司職を通して、人は神に近づくことができるのです。
ヘブル4:14~16で、『信者は大胆に恵みの御座に近づこうではありませんか』との奨励が可能な理由は、この新しい祭司職にあります。
現在でも「モーセの律法の一部はまだ有効である」と説く人がいますが、キリスト・イエスが天のまことの聖所の大祭司となられた以上、地上の『モーセの律法』は廃止されたのです。
ガラテヤ3:10によれば、613ある『モーセの律法』は一部だけ守れば良いものではなく、613すべて守る必要があり、『すべてを堅く守って実行しなければ、だれでもみなのろわれる』ものです。
ガラテヤ3:10ーというのは、律法の行いによる人々はすべて、のろいのもとにあるからです。こう書いてあります。「律法の書に書いてある、すべてのことを堅く守って実行しなければ、だれでもみな、のろわれる。」
*こう書いてある…申命記27:26ー「このみおしえのことばを守ろうとせず、これを実行しない者はのろわれる。」民はみな、アーメンと言いなさい。
現在のエルサレムには神殿がないので、ユダヤ教徒たちでさえ動物のいけにえをささげることができず、律法を守り通すことはできない『のろい』の下にいるわけです。
また、第二神殿があった旧約時代でさえ、神の選びの民であるユダヤ人たちはすべての律法を守り通すことができなかったのです。
だから、キリスト・イエスは律法が与えられている民『ユダヤ人』としてこの世のに誕生され、ユダヤ人の身代わりとなって613すべての律法を守り、成就してくださったのです。
私たちは『身代わり』と聞くとすぐに、『私たちの罪の身代わりとして十字架につかれたキリスト』と思ってしまいますが、律法が与えられたユダヤ人として来られ、ユダヤ人たちの代わりに律法を守ってくださったのもまたメシアであるイエス様なのです。
これからは両方覚えたいですね。