メシアのいけにえの結果の三つ目は、『新しい幕屋でのメシアの務め』です。
前のセクションで著者は、罪の赦しときよめのために血を用いるということを中心に語ってきました。ここでは、神に近づく方法の備えとして、更に詳しく語っています。
著者は、モーセが雄牛ややぎの血できよめた地上の幕屋とは違い、天の聖所はイエスがご自分の血できよめられたことを示しています。
ヘブル9:23ーですから、天にあるものにかたどったものは、これらのものによってきよめられる必要がありました。しかし天にあるもの自体は、これよりもさらにすぐれたいけにえで、きよめられなければなりません。
天の聖所は『本体』であり、地上の幕屋はその『型』です。
天の聖所は、サタンの堕落時に汚されてしまいました。 cf:イザヤ14:12~14, エゼキエル28:11~19
ヨブ記4:18ー見よ。神はご自分のしもべさえ、信頼せず、
その御使いたちにさえ誤りを認められる。
ヨブ記15:15ー見よ。神はご自身の聖なる者たちをも信頼しない。
天も神の目にはきよくない。
ヨブ記25:5ーああ、神の目には
月さえも輝きがなく、星もきよくない。
そのため、天にあるもののきよめ同様に、それを形どった地にあるものも動物の血によってきよめられる必要があったことを述べています。
地上の幕屋とその中にある物はコピーであり、著者が既に述べたように、地上の幕屋をきよめるためには、動物の血のいけにえが必要でした。それらは『コピー』にすぎなかったので、きよめには動物で十分だったのです。
しかし、天にあるものは『本体』であり、理想的な幕屋であるため、さらに優れた血できよめられる必要がありました。
*必要があった…動物のいけにえの血よりも優れたいけにえが、『絶対に必要』であったことを強調。
それは『神の小羊』としての御子イエスの血でした。
イエスのいけにえは一度限りのものでしたが、『これらよりもさらにさらにすぐれたいけにえ』…旧約聖書の律法に基づき、何度も繰り返しささげられたいけにえにまさるものでした。
それは旧約聖書に記された一般的ないけにえ、全焼のいけにえ、あらゆる種類のいけにえが、たった一度のイエスのいけにえで成し遂げられたということです。
天の幕屋は『よりすぐれたものである』という性質上、すぐれたきよめを必要としていたため、イエスのいけにえはよりすぐれたものでなければなりませんでした。
また、人は創造と結ばれています。
人が罪を犯した時、人の罪は天にまで及びました。それが、メシアであるイエスが死んだとき、地にあるものだけでなく、天にあるものも和解させてくださったのです。
コロサイ1:20ーその十字架の血によって平和をつくり、御子によって万物を、御子のために和解させてくださったからです。地にあるものも天にあるものも、ただ御子によって和解させてくださったのです。
24~26節は、私たちのために一度限りで、神のご臨在の中へ入られたメシアについて三つの真理のキーポイントが述べられています。
ヘブル9:24ーキリストは、本物の模型にすぎない、手で造った聖所に入られたのではなく、天そのものに入られたのです。そして、今、私たちのために神の御前に現れてくださるのです。
①メシアは天そのものに入られた…著者は、地上の至聖所と対照的に、至聖所が意味する『神のご臨在』を対比しています
イエスは天そのものに入られ、私たちのために神の御前に現れてくださるのです。
これは、地上の祭司とは対照的です。
『ヨム・キプール/贖罪の日』に、地上の大祭司ひとりだけが至聖所に入りました。そこでの大祭司の務めは、本質的に秘密でした。
さらに、大祭司が至聖所に入る前には、香壇で香がたかれ、その煙が至聖所に満ち、大祭司の顔は香の煙によって隠されていました。その煙が、大祭司を神の栄光のご臨在を見ることから守ったのです。
地上の大祭司が至聖所に入って何かの働きをするときは、香の煙によって隠されてこっそりと行われましたが、イエスは大胆に天の至聖所に入られ、公然と現れてくださるのです。
地上の大祭司は、律法により『レビ族のアロンの家系に属する者』に限られていました。
出エジプト記29:29ーアロンの聖なる装束は、彼の跡を継ぐ子らのものとなり、彼らはこれを着けて、油そそがれ、祭司職に任命されなければならない。
民数記20:26ーアロンにその衣服を脱がせ、これをその子エルアザルに着せよ。あろんは先祖の民に加えられ、そこで死ぬ。」
ユダ族から誕生されたメシアは、モーセの律法に基づき、地上の人の手によって作られた聖所には入られませんでした。メシアが入られたのは、まことの聖所のある天そのものです。そこで今、メシアは信者のために、神の御前/神のご臨在の中に現れてくださっているのです。
ヘブル9:25ーそれも、年ごとに自分の血でない血を携えて聖所に入る大祭司とは違って、キリストは、ご自分を幾度もささげることはなさいません。
ヘブル9:26aーもしそうでなかったら、世の初めから幾度も苦難を受けなければならなかったでしょう。
②完結した贖罪とともに天に入られた。
*ご自分を幾度もささげることはなさいません…イエスはご自身を何度もささげるような方法で、天の聖所に入られたのではありません。しかし、地上の大祭司は自分の血ではなく、動物の血を携えて年ごとに至聖所に入りました。
もし、動物の血が一度のささげ物として十分であるなら、繰り返される必要はなかったのです。
それがたとえ大祭司自身の血であったとしても、罪深い人間の血では一度だけのささげものでは不十分でした。しかし、イエスは一度限りで永遠の贖いを成し遂げられたのです。
ヘブル9:26bーしかしキリストは、ただ一度、今の世の終わりに、ご自身をいけにえとして罪を取り除くために、来られたのです。
③贖罪を完結され天に入られたイエスは、永遠に罪に打ち勝たれた。
*ただ一度…何度もささげた地上のいけにえとの対比。
*今の世の終わりに…パウロが、ガラテヤ書で記した『定めの時』と類似。
ガラテヤ4:4ーしかし定めの時が来たので、神はご自分の御子を遣わし、この方を女から生まれた者、また律法の下にある者となさいました。
神のタイムテーブルにおいて最も適した『時』にイエスは送られました。
イエスは『罪を終わらせるために』人として来られたのです。
イエスの初臨は、旧約の義人たちが達成できなかった『罪の赦し』を成し遂げるだけでなく、すべての罪のきよめのために来られました。十字架の上で「完了した」と言われた時、律法が廃止され、まさにその時、イエスは罪を終わらせ、きよめられたのです。
地上の祭司の務めとは違い、この一度限りのイエスの務めは、罪を永遠に終わらせ、きよめられたという完全な働きを成し遂げられました。
*ご自身をいけにえとして…人として来られたイエスご自身の『人間のいけにえ』のこと。イエスはご自身が『所有する血』ではなく、『ご自分の血』によって罪をきよめてくださいました。地上の祭司のような一時的な罪の贖いではなく、一度限りの贖いによって永遠の贖いを成し遂げられたのです。
27~28節で、信者はイエスの務めの完了を告げるために、大祭司の再来を待ち望んでいることが記されています。
地上の大祭司は、ヨム・キプール/贖罪の日に至聖所に入り、動物の血を注いで贖いを終えると、至聖所から出て来ました。『出て来る』という行為は、至聖所での務めを終えたことを意味します。
イエスは昇天によって天に入られました。現在もまだ天におられ、まだ務めを終えられていません。
しかし、いつの日かイエスは同じように天から戻って来られます。私たちを迎える『花婿』として…。
ヘブル9:27ーそして、人間には、一度死ぬことと死後にさばきを受けることが定まっているように、
*死後にさばきを受ける…肉体の死に続いて、さばきがあるという原則を示しています。 最近、多くのクリスチャンがこの『原則』を見落としています。
『死後にさばきはない』という自分の願いを優先させるのではなく、聖書が何と教えているかに耳を傾ける謙遜さが必要ですね。
モーセの律法の下でさえ、死後の罪のためにいけにえはありませんでした。
死後の裁きは、その人がどのような者であったかということをあらわすことになります。言い換えると、さばきとは、その人の今の世での生き方に基づいて裁かれるということです。
*人間には、一度死ぬことが定まっている…『一般的原則』であって『普遍的原則』ではありません。 なぜなら、二種類の『例外』があるからです。
例外その一:何人かの人々は『二度死んだ』という事実があります。
ベタニヤのラザロのように、イエスの復活前によみがえらされた人々は、後に再び死にました。
例外その二:何人かの人々はまったく死なないということ。
歴史上これまでに二人、エノクとエリヤは死なずに天に挙げられました。
ある人々は、27節を絶対的な原則だと誤解し、「エノクとエリヤは、いつか地上に死ぬために戻って来る。」と教えます。このような人々は、黙示録11章の『二人の証人』を死ぬために戻って来るエノクとエリヤに違いないと説きます。
もしこれが『絶対的な原則』だとしたら、現在生きている多くの信者たちが携挙されたら、どうなるのでしょう?パウロは『みなが死ぬわけではない』と述べています。
1コリント15:51ー聞きなさい。私はあなたがたに奥義を告げましょう。私たちはみな、眠ることになるのではなく変えられるのです。
携挙が起こる時、ある人々は生きているため、肉体が生きたまま天に挙げられることになります。空中で栄光のからだに変えられるのです。
エノクとエリヤが死ぬために地上に戻って来るということが、絶対的な原則であるのなら、携挙に与る多くの信者もまた死ぬために戻って来なければならなくなります。
エノクとエリヤが死ぬために戻って来る二人の証人だということは、黙示録11章とは何の関係もないのです。
ヘブル9:28ーキリストも、多くの人の罪を負うために一度、ご自身をささげられましたが、二度目は、罪を負うためではなく、彼を待ち望んでいる人々の救いのために来られるのです。
イエスの場合も、死んだ者としてイエスがどのようなお方であったかが明らかにされています。イエスは神の完全な現われであり、『多くの人の罪を負うために一度、ご自身をささげられましたが、二度目は、罪を負うためではなく、彼を待ち望んでいる人々の救いのために来られる』方であられます。
キリストの初臨は、『神の小羊』として罪の問題を取り除く目的で来られ、十字架によって解決されました。
キリストの再臨は、罪の問題を取り扱うためではなく、キリストを待ち望んでいる人々の救いのために来られるのです。
罪の贖いの完成は、復活のからだという肉体の贖いも含みます。
*救いのために…キリストが再臨される時。この場合の『救い』とは、将来の側面である肉体の贖いを含む完全な『救い』を意味します。
著者のポイントは、死後の裁きは死んだ人自身がさばかれるか、もしくは裁きの『身代わり』となってくれる人がいるかどうかということです。信者にとっては、イエスがその『身代わり』となってくださるのです。
この箇所は、四つのポイントにまとめることができます。
⑴ 著者は、イエスの一度限りのわざの完全性を強調しました。
イエスはたった一度の贖いで、繰り返す必要のない完全な贖いを成し遂げられたのです。
⑵ これはヨム・キプール/贖罪の日の大祭司の毎年繰り返される務めとの比較です。
翌年には同じ務めを繰り返さなければならないということは、地上の大祭司の務めは終わることがないことを示しています。
⑶ イエスは、現在天におられます。それには三つの意味があります。
①天の幕屋/聖所がきよめられたということ。
②イエスの存在は、信者の罪が完全に取り除かれたことを意味します。
③イエスが天におられるということは、信者に対する神の判決は『無罪』だということを保証するものです。イエスが再び来られるとき、救いの最終的側面として、復活の栄光のからだが与えられます。
⑷ 著者は、イエスの三つの現われを取り扱いました。
①イエスの再臨/この世の終わりに来られることは、初臨が罪の身代わりであったことを意味します。
②贖いを終えられ、御父のご臨在の中である天の幕屋にイエスはご臨在されています。
③将来のイエスの再臨は、信者の救いを成し遂げられるためです。
このとき、信者たちは『御国/千年王国/メシア的王国』を相続するのです。