まだ、モーセの律法が与えられる前の時代、しかもカナン人の王朝の名前を持つ『メルキゼデク』は系図の必要のない王であり祭司でした。
しかし、アロンの場合は弟モーセを通して与えられた『律法』があり、イスラエルの祭司になるには『レビ族』であることが、また、大祭司になることは『レビ族であり、アロンの家系』であることが条件として定められていました。
現在、天のまことの聖所における大祭司であるイエスは、地上のモーセの律法の範囲外ーアロンの家系でも、レビ族でもないー『大祭司』、『メルキゼデクの位の祭司』としてとりなしていてくださっています。
メルキゼデクの祭司の位を継いだイエスは、アロンの祭司の位を継承することよりも優れているということをヘブル書の著者は言及しています。
ヘブル7:4ーその人がどんなに偉大であるかを、よく考えてごらんなさい。族長であるアブラハムでさえ、彼に一番良い戦利品の十分の一を与えたのです。
*よく考えてごらんなさい…『識別力と洞察力を持って常に瞑想する』の意。
受取人/読者たちは、いくつかの歴史的事実を認識し、そこから確かな神学的結論を導き出す必要がありました。
【四つのポイント】
創世記14:18~20ーさて、シャレムの王メルキゼデクはパンとぶどう酒を持って来た。彼はいと高き神の祭司であった。
彼はアブハムを祝福して言った。
「祝福を受けよ。アブラム 。
天と地を造られた方、いと高き神より。
あなたの手に、あなたの敵を渡された
いと高き神に、誉れあれ。」
アブラムはすべての物の十分の一を彼に与えた。
①身分の下の者から上の者へ…アブラムがメルキゼデクに『一番良い戦利品の十分の一を与えた』ことから、メルキゼデクの優位性を強調。
ヘブル7:5ーレビの子らの中で祭司職を受ける者たちは、自分もアブラハムの子孫でありながら、民から、すなわち彼らの兄弟たちから、十分の一を徴集するようにと、律法の中で命じられています。
誰が誰から、十分の一を徴収するのか?…レビ系祭司は、彼らの兄弟たち(イスラエルの他の族長たち)から十分の一を徴収しました。
しかしここでは、レビ系祭司たちの父アブラムを通して、十分の一を民族的に何の繋がりもないメルキゼデクに与えています。
このことにより、メルキゼデクがアロンやレビよりも優位にあることを示しています。
*十分の一…モーセの律法の中の命令の一つ。
イエスの十字架により律法の時代が終わってからは、聖書的基盤にも十分の一の命令はありません。
新約聖書では、その人の収入に従ってささげればよいのです。
ある人々は「律法が与えられる前に 、アブラハムは十分の一を捧げたのだから、十分の一はモーセの律法以前に与えられた法であり、現在でも有効である。」と教えます。
しかし、二つの理由でこの教えは成立しません。
A)アブラムのメルキゼデクへの十分の一のささげ物は、一度限りのものであって、毎月定期的にささげたものではないということ。
B)アブラムの十分の一のささげ物は、彼が働いて得た収入からでは なく、戦利品の中からであったこと。
創世記14:1~17から、アブラムは甥のロトを捕まえた王たちに打ち勝ったことがわかります。アブラムはロトとソドムの人々を救い、戦利品を集め、その中から十分の一をメルキゼデクにささげました。
つまり、アブラハムの十分の一のささげ物は、今日教えられているようなものとは違うのです。
ヘブル7:6ーところが、レビ族の系図にない者が、アブラハムから十分の一を取って、約束を受けた人を祝福したのです。
②祝福… メルキゼデクはアブラハムを祝福しています。
彼はレビ族の系図にない(レビ族とは関係のない)者ですが、アブラハムから戦利品の十分の一を受け取って祝福したと、聖書は記しています。
ヘブル7:7ーいうまでもなく、下位の者が上位の者から祝福されるのです。
*下位の者が上位の者から祝福される…今日に常識ですが、この場合アブラハムがメルキゼデクを祝福したのではありません。
メルキゼデクがアブラハムを祝福したということは、メルキゼデクの方がアブラハムより上位の立場であることを示しています。
ヘブル7:8ー一方では、死ぬべき人間が十分の一を受けていますが、他の場合は、彼は生きているとあかしされている者が受けるのです。
③アロンの家系の大祭司は、死ぬべき人間が敬意を受けているということ …死ぬべき人間が十分の一を受けています。
レビ系祭司は、遅かれ早かれいずれ死ぬべき人間が司っていますが、メルキゼデクの場合は、そうではありません。
メルキゼデクには、死の記録もなく、誰かによって成功へと導かれる必要があったという記録もありません。彼は、死ぬことなく、生きている者の代表であり、聖書の記述によれば、メルキゼデクの祭司制は永遠であり、永遠に従うべき祭司だということになります。
ヘブル7:9ーまた、いうならば、十分の一を受け取るレビでさえアブラハムを通して十分の一を納めているのです。
④十分の一を受け取るレビでさえアブラハムを通して十分の一を納めている…レビ族の生みの親となったレビでさえ、敬意を示しているということ。
著者のポイントは、十分の一を受け取るべきレビが納めているという点です。
*いうならば…神の方法により差し引きということ。
ヘブル7:10ーというのは、メルキゼデクがアブラハムを出迎えたときには、レビはまだ父の腰の中にいたからです。
*父の腰の中…『精嚢』に強調される “転嫁の原則” 。
事実、アブラハムがメルキゼデクに十分の一を納めた時、レビはまだ生まれていませんでした。しかし、アブラハムの『腰の中』にいたことによる “転嫁” ーアブラハムを通してーという意味。
ここでの著者のポイントは、アブラハムやレビのような族長たちが、メルキゼデクの祭司制の優位性を喜んで認めたのだとしたら、その子孫たちもまた、この優位性を認めるべきだということ。
つまり、メシアであるイエスがこのメルキゼデクの祭司の位についた、地上のレビ系祭司よりも優れている大祭司なのだから、ユダヤ教に戻るのではなく、より優れた祭司であるイエスに留まるべきだと説得をしているわけです。
受取人/読者たちが、AD70年の裁きに巻き込まれないように、細かく砕いて説得している著者の思いを汲み取ることができますように。