サザエのお裾分け

聖書を字義通り&文脈に沿って学び、理解したことの中からのお裾分け。内容は鵜呑みにせず、必ずご自分で聖書を開いて確認してくださいね。聖書理解の助けになれば幸いです。† 栄光在主 †

聖書の時間の見分け方

創世記1:5ー神は光を昼と名づけ、闇を夜と名づけられた。夕があり、朝があった。第一日。

 

聖書を『進化論』と絡めて理解しようとする人は、創世記1章の『日=ヘブル語:ヨーム』を24時間だとはとらず、現在の私たちの一日とは異なる時間の単位だと説きます。

 

イザヤ13:6ー泣きわめけ。の日は近い。

全能者から破壊が来る。

確かに、イザヤ13:6, 9, 13のように『の日』と訳されている『日=ヨーム』は、24時間の『一日』の意味ではなく、『七年間の患難時代』を指すことばではありますが、進化論の影響を受けた人たちが言うような何千年や何万年を意味するものではありません。

 

創世記1:8ー神は大空を天と名づけられた。夕があり、朝があった。第二日。

しかし、創世記1:5, 8, 13, 19, 23, 31, 2:2~3のように、数字に『日=ヨーム』が付いて書かれている場合、現在と同じ24時間の『一日』を意味します。

 

新約聖書になると、よく『第◯時』という表現が出て来ます。脚注のない聖書をお使いの方にはわかりにくいと思いますが、脚注付きの聖書をお使いの方は面倒でも時間が出てきたときは脚注をぜひ活用してみてください。

 

たとえば、『五千人の給食』として有名なマタイ14章では、イスラエルの一日の分け方を理解しないと時系列で意味をつかむことが難しくなります。

この時必要となるのが、旧約聖書のみことばです。

 

イスラエルでは、一日を朝、昼、第一の夕、第二の夕と四分割していました。

詩篇55:17ー夕、朝、真昼、私は嘆き、うめく。

すると、主は私の声を聞いてくださる。

 f:id:bluemome:20180410103520j:plain

出エジプト記12:6【直訳】ーあなたがたはこの月の十四日までそれをよく見守る。そしてイスラルの民の全集会は集まって、【夕暮れの間】にそれをほふり

*第一の夕…『夕』が始まるのは、太陽が西に傾き始める午後三時頃から日没まで。

*第二の夕…日没〜暗くなるまで。

 

ユダヤ人の歴史家ヨセフスによると、ユダヤ人たちは夕方三時頃過越の子羊をほふっていたとあり、過越の神の小羊として十字架で死なれたイエス様が息を引き取った時刻と一致します。

 

これが分かると、五千人給食の出来事の時系列がもっと深い理解へと導かれます。

(ちなみに、マタイ14:19では『草の上にすわらせ』、マルコ6:39では『青草のうえにすわらせ』たことから、季節は春だということがわかります。夏になると、草は焼けて枯れてしまいます。

マタイ15:35では『地面にすわるように』命じられたのは、草が枯れた後の夏の時期の四千人の給食の出来事です。)

 

マタイ14:15夕方になったので、弟子たちはイエスのところに来て言った。「ここは寂しい所ですし、時刻ももう回っています。ですから群衆を解散させてください。そして村に行ってめいめいで食物を買うようにさせてください。」マルコ7:48

*夕方になったので…第一の夕方、つまり午後三時頃

 

マタイ14:23ー群衆を帰したあとで、祈るために、ひとりで山に登られた。夕方になったが、まだそこに、ひとりでおられた。

*夕方になったが…日没後の第二の夕

 

マタイ14:25ーすると、*夜中の三時ごろ、イエスは湖の上を歩いて、彼らのところに行かれた。

*夜中の三時ごろ…【脚注】直訳:第四の夜回りー“当時、ローマ式に、夜は午後六時から翌朝六時まで、夜回りの交替時間に従って三時間ずつ四つの時に分けられていました。”

つまり『第四の夜回り』とは、午前三時から午前六時となります。

 

 

②マタイ、マルコ、ルカの『共観福音書』の時間の記し方は、すべてユダヤ式の時間の数え方になります。

ユダヤ式時間』の数え方は午前六時を起点とするので、『第六時』は6:00amから数えて6時間後の正午、『第九時』は6:00amから数えて9時間後の午後三時となります。

 

マタイ27:45ーさて、*十二時から、全地が暗くなって、*三時まで続いた。cf マルコ15:33, ルカ23:44

*十二時…【脚注】直訳:第六時ーユダヤ式時間

*三時…【脚注】直訳:第九時 ーユダヤ式時間

 

ヨハネ福音書は一貫して『ローマ式時間』を採用して記しています。

『ローマ式時間』の数え方は、午前0時を起点とする場合と午後0時(正午)を起点とする場合の二通りあるため、文脈で判断する必要があります。

 

このことを知らずに和訳聖書をそのまま受け入れると、口語訳や新共同訳聖書を使っている方は、イエスの裁判から十字架までの時系列に混乱をきたすことになります。

 

【新改訳】

ヨハネ19:14ーその日は過越の備え日で、時は*第六時ごろであった。ピラトはユダヤ人たちに言った。「さあ、あなたがたの王です。」

*第六時ごろ…【脚注】直訳:第六時(ローマ時間)

 

新改訳聖書は、共観福音書ではユダヤ時間に訳出しているにもかかわらず、ヨハネ福音書では原文のまま訳出しています。この統一性の無さに疑問を感じてしまいます…。

一方、新共同訳や口語訳では、ヨハネ福音書でも『ユダヤ式時間』で訳出してしまっているため、時系列に問題が生じています。

 

【新共同訳】

ヨハネ19:14ーそれは*過越祭の準備の日の、*正午ごろであった。ピラトがユダヤ人たちに、「見よ、あなたたちの王だ」と言うと、

 

【口語訳】

ヨハネ19:14ーその日は*過越の準備の日であって、時は*昼の十二時ころであった。ピラトはユダヤ人らに言った。「見よ。これがあなたがたの王だ」。

 

*過越の備え日…ニサンの月の十四日の過越の祭りのための備え日のことではなく、十五日から二十一日までの七日間祝われる『種なしパンの祭り』の間の安息日に備える日のこと。マルコ15:42、ルカ23:54

聖書には、『安息日』に備えるという記述は度々出てきますが、祭りのために備え日に関する記述はありません。

つまり、聖書では一貫して『備え日』は安息日の前日、金曜日を指すことばです。

 

この時の備え日である『金曜日』は、イエスが朝9時に十字架につけられ、昼の12時から午後3時まで全地が暗くなり、午後3時には息を引き取られたことを共観福音書が記しています。

 

ヨハネ福音書が共観福音書と同じ『ユダヤ式時間』を採用して訳出している新共同訳や口語訳のとおりだとすると、イエスは金曜日の朝9時に十字架つけられ、全地が暗くなる12時にはピラトの法廷に立ち、午後3時には再び十字架上で死ぬことになるという矛盾が生じます。

 

この矛盾を解消しようとすると、『過越際の備え日』を金曜日ではなく、木曜日だと主張しなくてはならず、そうなると、過越の食事もイスカリオテ・ユダの裏切りもゲッセマネの園での逮捕もすべて時系列がずれてしまいます。

この問題の解決策はただ一つ。ヨハネはローマ式時間で福音書を記しているととることです。

 

ローマ式時間に数え方の夜中の0時を起点とすると、第六時は朝の6時になります。

イスラエルでは鶏が鳴く前の裁判は無効だったことを考えると、ヨハネ18:27~28のみことばが意味を成してきます。

 

ヨハネ18:27~28ーそれで、ペテロはもう一度否定した。するとすぐ鶏が鳴いた。

さて、彼らはイエスを、カヤパのところから総督官邸に連れて行った。時は明け方であった。彼らは、過越の食事が食べられなくなることがないように、汚れを受けまいとして、官邸にはいらなかった。

 

*過越の食事…一般の人々は前夜に食べるが、この過越の食事は大祭司や祭司たちが神殿で朝9時に屠られる子羊の肉を食するもの。イエスはその時間に都の外のゴルゴタの丘で十字架につけられた。

異邦人のピラトの官邸にはいって汚れを受けるとその過越の食事にあずかれなくなるので、そのことをユダヤ人たちは恐れていた。

 

*時は明け方…鶏が鳴いて世が明け、裁判の判決が有効となる時間を迎えたということ。その時にピラトのもとにイエスを連れて来て、十字架刑を要求した。

そして、ビアドロローサを歩かせ、朝9時に十字架につけたととると時系列に矛盾は生じません。

 

ヨハネはよく時間を記しています。

ヨハネ1:39ーイエスは彼らに言われた。「来なさい。そうすればわかります。」そこで、彼らはついて行って、イエスの泊まっておられる所を知った。そして、その日彼らはイエスといっしょにいた。時は*第十時ごろであった。

 

*第十時ごろ…午前10時

ここも新共同訳、口語訳ともに『午後四時』と訳出していますが、これはユダヤ式時間の数え方で午前6時を起点としたものです。

ヨハネは一貫して『ローマ式時間』を採用しているととると、『第十時』は午前10時か午後10時の二通り考えられます。どちらをとるかを決めるのに役立つポイントは『その日彼らはイエスといっしょにいた』という部分です。
当時は街灯など無い時代ですから、活動時間は日が出ている日中です。

午後10時に弟子入りを申し出たとは考えられません。普通は就寝しています。

午前10時であるなら、『その日、彼らはイエスといっしょにいた』というのも意味を成してきます。

 

ヨハネ4:52ーそこで子どもがよくなった時刻を彼らに尋ねると、「きのう、*第七時に熱がひきました。」と言った。

 

*第七時…これもヨハネ福音書なので『ローマ式時間』の数え方となり、午前7時か午後7時かを考えます。

もし、午前7時だとするならば、この王室の役人は夜中にカペナウムからカナに移動してきたことになり、当時の活動時間との矛盾が生じます。

午後7時だとするならば、移動時間は日中であり、第二の夕の終わり頃の時間になります。

 

このようにイスラエルの時間の感覚は、異邦人である私たち現代日本人の感覚とは違うということを理解して聖書を読む必要があります。

 

聖書理解の助けになれば、幸いです。