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サザエのお裾分け

聖書を字義通り&文脈に沿って学び、理解したことの中からのお裾分け。内容は鵜呑みにせず、必ずご自分で聖書を開いて確認してくださいね。聖書理解の助けになれば幸いです。† 栄光在主 †

ヨハネの黙示録20章 〜(7)〜

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*『神様のご計画』の表訂正:X 五旬節/ペンテコステ 使徒1:9 →O 使徒2:1~4

 

さてと、やっと黙示録20章のまとめも終わりが見えてきました。(長かった…f^^;)何しろ千年間の出来事が20:6と20:7の間にはあるわけで、いくらなんでも端折り過ぎでしょ?!と思ってしまうのです。

 

黙示録20:7ーサタンはその牢から解き放たれ…千年王国の最後に、サタンは底知れぬ所から再び解き放たれます。

 

cf 黙示録20:2~3ー彼は、悪魔でありサタンである竜、あの古い蛇を捕え、これを千年の間縛って、底知れぬ所に投げ込んで、そこを閉じ、その上に封印して、千年の終わるまでは、それが諸国の民を惑わすことのないようにした。サタンはそのあとでしばらくの間、解き放されなければならない。

 

神がサタンを解き放す理由は、再び人類を試すためです。再臨の主イエスが王として統治するメシア的王国では、千年にわたり、ほぼ理想に近い世界です。罪も死も今に比べると大幅に減ります。しかし、肉を持った人間には「原罪」があるため、完全に罪がなくなったわけではないのです。

 

神の統治がどれだけ長くあっても、人間の罪の性質は変わりません。千年の終わりには、肉体のまま患難時代を生き伸び、羊組に入れられてメシア的王国に入ってきた人々の子孫が大勢いることになります。それらの人々を試すためにサタンが解き放たれるのです。

 

彼らはまだ、メシアを王として認める決心をしていない者たちなので、全員百歳以下の若者(?!)たちです。メシアを王として認め、メシアの律法に従う決心をした人々は死ぬことがなく、生き続けます。

 

黙示録20:8ーゴグとマゴグ…サタンの欺きが地の果てにまで及ぶことを示すことば。

この侵略が患難時代の前に起きる侵略に似ていることを示します。サタンは世界の諸国民を惑わします。この侵略もまた、イスラエルに対するものです。cf エゼキエル38:1~39:16。

 

黙示録20:9ーサタンの欺きによる異邦人の軍勢は、全世界に広がります。彼らはメシア的王国のイスラエルに侵攻し、エルサレムを包囲します。しかし突如 天から降って来る火によって、瞬時に焼き尽くされてしまいます。

 

黙示録20:10ーサタンは「火と硫黄との池」に投げ込まれます。反キリストと偽預言者は、千年前からそこに入れられています。

「火と硫黄との池」が、彼らの永遠の住まいになるのです。これでサタンの活動はすべて終了することになります。

 

*ここで重要なのが、1コリント15:24~28です。

 

1コリント15:24ーそれから終わりがきます…サタンの活動がすべて終了したことにより、「死」がなくなります。

 

キリストは十字架の死と復活のゆえに、メシア的王国において権威を持たれました。

cf マタイ28:18bーわたしは天においても、地においても、いっさいの権威が与えられています。

この権威は現在、教会を通して行使され、将来、メシア的王国においてキリストご自身が行使されます。

 

神に敵対するサタンが滅ばされた後、御国の権威は御子イエスから御父に渡されます。

 

1コリント15:25ーサタンを含むすべての敵が滅ぼされるまでは、キリストの支配が続きます。

 

1コリント15:26最後の敵は、サタンではなく死です。メシア的王国でも信じない者は百歳で死を迎えるので、依然として死は存在していました。サタンが火の池に入れられた後、死はなくなります。

 

1コリント15:27ーこうして千年間続いたメシア的王国は終わりを迎え、万物がメシアに服従するようになります。

 

1コリント15:28ーその段階で、メシア自身も父なる神の権威に従われるのです。

*御子がメシアとしての働きを終えることにより、三位一体としての神が、エローヒムなる「神」としての存在に戻られるのだと思います。

 

黙示録20:11ー大きな白い御座に着座しておられる方…通常は「御父」ですが、ここではさばきのために着座されていることから、イエス・キリストです。

cf ヨハネ5:22また、父はだれをもさばかず、すべてのさばきを子にゆだねられました。

 

すべてのさばきがキリストにゆだねられています。

地も天もその御前から逃げ去って、あとかたもなくなった…創世記1章で神が創造され、存在していた天と地とが消え去るということ。

 

「白い御座のさばき」では、すべての時代の罪人たち(不信者たち)が裁かれます。

 

黙示録20:12ー死んだ人々が〜御座の前に立っているのがいるのを見た…肉体の死後、「無」になるのではありません。

神様はいる!と(イエス様の福音のことネ)信じて生きた人は、死後、万が一神様がいなかったとしても何も損はしません。神と人を愛し、人生を全うすれば悔いはないからです。

 

逆に、神様はいない!と生きている人は、すべての決定権を自己に置き、判断することになります。死後、神様が本当にいなければ何も損はないでしょう。最後まで自己中心に、ある意味自由に生きていたわけですから…。しかしもし本当に神様がおられ、死後、その神様の御前で開かれる裁判に出されたら…?

 

ここでは人生を「神はいない!」の方にかけて生きて来た人々が、神の最後の法廷に引きずり出されているのです。

有罪か無罪かを決める裁判ではなく、刑の重軽をきめるための裁判です。(神を認めなかったため、全員有罪です。)

 

数々の書物…裁きに対し、証拠となる何種類かの書物のことです。

 

1)記憶の書…各人の行ないが記録された書物。罪人はこの書物に書かれた内容によって裁かれます。cf マラキ書3:16。

 

2)いのちの書…この地上に誕生したすべての人の名前が書き記されたもの。

ただし、キリストを信じることなく「罪人」のままで死んだ人の名前は、肉体の死とともに消し去られます。cf 詩篇139:16、69:28、黙示録3:5。

 

罪人の裁きは、この「いのちの書」から、その名前が消されていることを確認した後、「記憶の書」に記された内容に従って行なわれます。

 

3)小羊のいのちの書…「いのちの書」とは別物で、キリストを信じた者だけの名前が記されたもの。cf 黙示録13:8、17:8。

 

ルカ12:47~48ー多くムチ打たれる者と、少なくムチ打たれる者とがいます。

 

ヨハネ19:11ー罪には、重軽があります。

 

【裁きの程度を決めるための原則】

マタイ11:20~24ーこの箇所でイエスは、罰には重軽があることを教えておられます。

生前、どれだけの啓示が与えられていたか。

その啓示に対してどのように応答したか。

 

自分の行ないに応じてさばかれた…cf エゼキエル7:3ー今、あなたに終わりが来た。わたしの怒りをあなたのうちに贈り、あなたの行ないにしたがって、あなたをさばき、あなたのすべての忌みきらうべきわざに報いをする。

 

マタイ16:27ー人の子は父の栄光を帯びて、御使いたちとともにやがて来ようとしているのです。その時には、おのおのその行ないに応じて報いをします。

 

覚えていますか?救いは、行ないによるのではなく、神の恵みにより、私たちの信仰によってです。cf エペソ2:8~10。

しかし不信者のさばきは、一人一人の行ないが、罰の重軽を左右することになります。 

信者の裁きは信仰生活の決算報告であって、有罪判決を受けるためではありません。

 

cf 1コリント3:10~15ー信仰の土台が、イエス・キリストであるならば、たとえ信仰の家が焼けてしまっても、その人は「火の中をくぐるようにして助かります。」とあります。

キリストの十字架の贖いが、完全であるからです!アーメン。

 

黙示録20:13ー死者を出し…これは千年間のメシア的王国の終わりの復活「第二の復活」になります。この復活に与る者はすべての時代の不信者たちです。

 

第一の復活…信者の復活。神からの栄誉を受けるため。

第二の復活…不信者の復活。神からのさばきを受けるため。

 

第一の復活も第二の復活も順番があります。

 

【第一の復活】

1)初穂としてのキリストの復活。

 

2)教会時代の信者たちの復活。携挙の時に起こります。つまり携挙以前に死んだ信者は復活し、生き残っている信者は一瞬にして変えられ、ともに天に上げられるということです。cf 1テサロニケ4:16~17、1コリント15:51~52。

 

3)キリストの地上再臨のときに起こる、旧約時代の聖徒たちと患難時代の聖徒たちの復活。

 

【第二の復活】

1)反キリストの復活。

ちょうどキリストの復活が義人たちの復活の初穂となったように、反キリストの死と復活は不信者たちの復活の初穂となります。

 

2)すべての時代の不信者たちの復活。反キリストと不信者たちの復活の間には、約千年の隔たりがあります。

 

第一の復活と第二の復活の間にも、千年の隔たりがあります。

 

行ないに応じてさばかれた…よく「福音を聞かずに死んだ人はどうなるのか?」という質問を受けます。答えはローマ1:19~25、2:6~15にあります。自然界や被造物を見れば、たとえ福音を聞いていなくても、神がおられるという事実を否定することはできないとはっきりと記されています。

 

黙示録20:14ー死とハデス…聖書が意味する「死」は、肉体とたましいの分離です。

ここでは、旧約時代の死と新約時代の死についての違いを知っておくとよいでしょう。肉体の死後、たましいの行き先に違いがあります。

 

【旧約時代の死】

たましいが肉体から分離し、肉体は墓に葬られました。この状態を「第一の死」といいます。

肉体を離れたたましいが行く所は、へブル語で「シェオル」、ギリシャ語では「ハデス」。

ともに「陰府」…死者が行く場所ですが、旧約時代は大きく二つに分かれていました。

 

そしてその間を行き来することはできませんでした。そのことを主は、ルカの福音書16:19~31ー金持ちとラザローで教えられています。この話を「譬え話」という人がいますが、ユダヤ人が譬え話に個人名を出すことはありません。「ラザロ」という個人名があるということは、譬えではなく実話です。

 

義人のたましいが行く領域は、「アブラハムのふところ」「パラダイス」と呼ばれる慰めの場所、苦しみのない場所です。cf ルカ22:43。

一方、罪人のたましいが行く領域は、一般に私たちが「地獄」と呼んでいる「苦しみの場所」です。

 

【新約時代の死】

「第一の死」を経験するのは、新約時代も同じです。肉体は死後、土葬されたり火葬されたり、国によって違うでしょう。

新約時代の義人(イエスを救い主キリストと信じた者)のたましいは、肉体からの分離後ただちに天に上げられます。cf Ⅱコリント5:8、ピリピ1:23。

 

キリストの復活が死後の世界「ハデス」の状況を一変させました。

エペソ4:8~10ーキリストは十字架の死後、肉体は墓に葬られましたが、たましいはハデスの中の「パラダイス=アブラハムのふところ」の領域に行き、贖いが完了したことを宣言されました。

 

そして昇天される際、パラダイスに留まっていたすべてのたましいを天へと引き連れて行かれました。これが一般に言われる「天国」ですが、実はまだ未完成なのです。完成は、千年間のメシア的王国の後、神のみもとから出て来る聖なる都の新天新地です。cf 黙示録21:1~2。

 

キリストの昇天以降、「ハデス」には「パラダイス=アブラハムのふところ」はなく、「くるしみの場所」だけが残っています。

そこに行くのは、生前キリストを拒否し続けたたましいだけです。

 

それらのたましいが千年王国の後、第二の復活により永遠に朽ちないからだによみがえり、白い御座の裁きを受けるのです。結果、一つの例外もなく全員、「火の池」に投げ込まれることになります。

ハデスに入れられていたたましいはすべて出されるので、ハデスは最終的に消滅します。

 

火の池に復活のからだで投げ込まれることを、聖書は「第二の死」と言っています。

肉体で生まれ、キリスト信じて霊的に生まれた者は、肉体の死だけを通過します。しかし肉体で生まれただけの者は、肉体の死と復活のからだで火の池に行く第二の死という二度の死を受けることになるのです。

 

黙示録20:15肉体が生きている間(死刑の執行猶予期間)に、救い主なるイエスの十字架の贖いを自分の身代わりだったと信じた者は、いのちの書に名が残っています。しかし信じないまま肉体の死を迎えた者たちは、永遠に朽ちないからだに復活させられた後、火の池で苦しむことになるのです。

 

黙示録に預言されている七年間の患難時代、永遠の苦しみである火と硫黄との池を知っているかいないかで、今自分が救われているという恵みの大きさに対する感謝の度合いが変わってくるでしょう。

何としても、愛する家族や親戚、友人、同僚たちに福音を知り、信じて欲しいと思うことでしょう。

 

今まで以上に主に感謝し、みこころを知り、主の御用のために仕えたいという願いを持つでしょう。

だからこそ、黙示録を学ぶ者は「幸いだ。」と聖書は言っているのです。

cf 黙示録1:3ーこの預言のことばを朗読する者と、それを聞いて、そこに書かれていることを心に留める人々は幸いである。