創世記1:1ー初めに、神が天と地を創造した。
この創造の時に天の御使いたちも造られた。御使いたちは結婚したり、子どもを産んだりはしない。階級とその働きに違いがある。ケルビムの中の最高位に着いたのが、サタンとなった俗に言うルシファー。
エゼキエル28:12ー「人の子よ。ツロの王について哀歌を唱えて、彼に言え。
神である主はこう仰せられる。
あなたは全きものの典型であった。
知恵に満ち、美の極みであった。
*彼(ルシファー)は、被造物の中で一番賢く、一番美しかった。
エゼキエル28:13aーあなたは神の園、エデンにいて、あらゆる宝石があなたをおおっていた。
*彼は『ケルブ』としての働きと、鉱物でできた最初のエデンの園の管理を任され、油注がれた天使であった。
エゼキエル28:14aーわたしはあなたを油そそがれた守護者ケルブとともに、神の聖なる山に置いた。
*守護者ケルブとともに…新共同訳:わたしはお前を
翼を広げて覆うケルブとして造った。
エゼキエル28:15ーあなたの行いは、あなたが造られた日から
あなたに不正が見いだされるまでは、完全だった。
イザヤ14:12~14ー暁の子、明けの明星よ。
どうしてあなたは天から落ちたのか。
国々を打ち破った者よ。
どうしてあなたは地に切り倒されたのか。
あなたは心の中で言った。
『私は天に上ろう。
神の星々のはるか上に私の王座を上げ、北の果てにある会合の山にすわろう。
密雲の頂に上り、いと高き方のようになろう。』
*彼は自分の美と知恵、油そそぎを受けたことで高慢になり、『いと高き方のようになる』ことを決め、仲間を集めた。この時、御使いたちは『聖なる天使』と『堕天使』に分かれた。聖なる御使いは全体の2/3、堕天使となったのは1/3。
創世記1:2ー地は茫漠として何もなかった。やみが大水の上にあり、神の霊が水の上を動いていた。
*神は最初の世界を水で破壊し、自然豊かなエデンの園を再創造された。
その管理人として造られたのが、アダムだった。
創世記2:7~8ー神である主は土地のちりで人を形造り、その鼻にいのちの息を吹き込まれた。そこで人は生きものとなった。
神である主は東の方エデンに園を設け、そこに主の形造った人を置かれた。
*アダムは『霊・肉ともに生きもの』として造られた。
これが、第一のアダム/最初のアダム。
アダムとエバは、自由意思を持った無垢な状態で造られ、エデンの園に置かれた。
そこでの神の戒めは、一つだけだった。
創世記2:17ーしかし、善悪の知識の木からは取って食べてはならない。それを取って食べるとき、あなたは必ず死ぬ。
*この戒めが与えられた時、エバはまだ造られていなかった。神の子として造られたアダム(ルカ3:38)は、この『神のことば』を妻や子孫たちに伝える責任を負っていた。
しかし、エバが蛇に誘惑された時、一緒にいながらエバの誤解を解こうとはしなかった。先に罪を犯したエバと共に誘惑されていた。
創世記3:21ー神である主は、アダムとその妻のために、皮の衣を作り、彼らに着せてくださった。
創世記3:24ーこうして、神は人を追放して、いのちの木への道を守るために、エデンの園の東に、ケルビムと輪を描いて回る炎の剣を置かれた。
*回る炎の剣…シャカイナ・グローリー。
エデンの園を追放したのは、『いのちの木への道を守るため』であった。
エデンの園を追放された後で、人間の性の営みによって生まれきたのが、カインとアベル。長男カインは、罪の赦しの為に『血の贖い』が必要だということを理解せず、自分勝手な捧げ物をささげた。
カインは両親から『自己中心』という原罪を引き継いでいた。そして妬みから弟アベルを殺し、さすらい人となった。その後、誕生したのがセツであり、セツもまた罪を犯して自己中心となったアダムのかたちどおりの人であった。
こうして霊的に死に、自己中心となった人類の歴史が始まった。
創世記3:15ーわたしは、おまえと女との間に、また、おまえの子孫と女の子孫との間に、敵意を置く。彼は、おまえの頭を踏み砕き、おまえは、彼のかかとにかみつく。
*聖書の中で最初にメシアに言及した預言。創世記6章の『神の子ら』は、エバの子孫として来るメシアの誕生を妨害する堕天使たち。
神はこの時、箱舟を通して『女の子孫』を守られた。それが、ノアとその家族。
ノアの三人の息子の中で、『女の子孫』を継いだのがセム。セムの子孫にアブラハムが誕生する。アブラハムには、八人の子らがいた(創世記16:15, 21:2~3, 25:1)が、約束の子であるイサクが契約を継承。
イサクには双子の息子、エサウとヤコブが生まれたが、契約を継承したのは、ヤコブ。
ヤコブに12人の息子が与えられ、彼らがイスラエルの十二人の族長となった。神はその中のユダ族を選ばれた。ユダ族の中のダビデの家系を選び、ダビデの子孫として、聖霊により処女マリヤによってイエスは誕生した。
イエスは生まれながらにして、霊・肉ともに『生き』た状態だった。これが、最後のアダム。
私たちは第一のアダムの子孫として、霊的に死んだ状態で生まれてきた。人生のある時点で、霊的に新しく生まれなければ、最後のアダムであるキリストに結びつくことはできない。肉体が生きている間に要決断。
ヨハネ3:18ー御子を信じる者はさばかれない。信じない者は神のひとり子の御名を信じなかったので、すでにさばかれている。
「信じないだけで地獄に落とす神だ」と言う人がいるけど、キリスト・イエスは霊的に死んだ状態の滅びるしかない人間を、信仰によって地獄から引き上げてくださる『救い主』なのです。
それだけじゃない!
今、戦争になるのでは…⁉︎と心配している全ての人々を、信仰により『患難時代の裁き』からも救い出すことの出来るお方が、キリスト・イエスなのです。聖書のみことばは、必ず成就します。
イエスはここからも救うことができます。
何を信じれば救われるのか…?
本物を知れば、その『福音』と違うものはすべて偽物だと分かります。
ローマ6:5ーもし私たちが、キリストにつぎ合わされて、キリストの死と同じようになっているのなら、必ずキリストの復活とも同じようになるからです。
*キリストにつぎ合わされて…イエスをメシアとして信じ、受け入れること。
信仰により、神の子どもとなること。
ヨハネ15:5ーわたしはぶどうの木で、あなたがたは枝です。人がわたしにとどまり、わたしもその人の中にとどまっているなら、そういう人は多くの実を結びます。わたしを離れては、あなたがたは何もすることができないからです。
*キリストの死と同じようになっている…人類史上、霊・肉共に『生きた』状態で誕生したのは、第一のアダムと最後のアダムであるイエスの二人だけ。(全て人は、霊的に死んだ状態で肉体的に誕生する) キリストは十字架の上で、12~3時迄霊的に死に、肉体の死の直前、霊的に復活した。
全地が暗くなってた間、キリストは霊的に死んだ状態の罪ある人間と全く同じになられました。罪なき神の御子が、まさに『罪』となられた瞬間ー全人類の罪の身代わりとなられたのです。
キリストを信じる時、御霊の内住が起こります。
信仰により肉体が生きている間に、霊的に復活し、それから肉体の死を迎えるーこれが『キリストの死と同じようになる』ということです。
聖書がいう『永遠のいのち』は、まず現在の肉体のからだの中のたましいの内側、霊の部分が復活することにより、私たちのうちに宿り、やがてこの肉体を『死』によって脱ぎ捨て、携挙の時に新しい栄光のからだによみがえらせていただくということです。
イエスが誕生した時はまだ、613あるモーセの律法に従って生きていた時代です。人々はモーセの律法だけでなく、パリサイ人たちの教えである律法を破らせないための『口伝律法』という重荷をも課せられていました。イエスが廃棄したのは『口伝律法』、成就されたのが『モーセの律法』です。
マタイ5:20ーまことに、あなたがたに告げます。もしあなたがたの義が、律法学者やパリサイ人の義にまさるものでないなら、あなたがたは決して天の御国に、入れません。
*律法学者やパリサイ人の義…律法を守ることによる『行ないによる義』
*律法学者やパリサイ人にまさる義…信仰による義。
613あるモーセの律法を全て守り、罪を犯さなかった『人間』はイエスだけですから、そのイエスを信じる者は、イエスがその人の代わりに全てを守ってくださったとみなされるからです。
キリストの十字架により、モーセの『律法の時代』は終わりました。そこから七週の祭り(ペンテコステ)で、聖霊が降臨されるまでは、旧約時代から新約時代への移行期間となります。ペンテコステにより誕生した教会には、二つの意味があります。
キリストの花嫁となるのは、地域教会に『通っている人/通ったことのある人』のことではなく、地域教会に通っていてもいなくても『本当にキリストを信じている人々』です。
イエスをメシアと『信じる信仰による義』を最初に得たのは、ユダヤ人たちでした。
異邦人信者の中では、アカヤの初穂として『ステパナ』の名が記されています。
救いの優先順位は、①神の選びの民→②異邦人です。
ペンテコステで始まった『教会時代』は、携挙をもって終わります。全ての真の信者が天に挙げられると、地上には不信者とキリスト・イエス以外の『何か/誰か』を信仰の土台にしていた者たちだけが残されます。
そこから再び、キリストを信じる者が起こされます。それが患難時代の144,000人のユダヤ人たちです。ここでもユダヤ人からの救いの優先順位があり、彼らが患難時代の『初穂』となり、異邦人に伝道するからこそ『大リバイバル』が起こるのです。
ダニエル9:27ー彼は一週の間、多くの者と堅い契約を結び、半週の間、いけにえとささげ物とをやめさせる。荒らす忌むべき者が翼に現れる。ついに、定められた絶滅が、荒らす者の上にふりかかる。
患難時代の幕開けは、反キリストとイスラエルが『七年間の契約締結』の時。
なぜ多くのイスラエルの人々が、反キリストとの契約に賛成するのでしょう…?
患難時代前の出来事として、イスラエルは『北の連合軍』からの攻撃を受けることが預言されています。
その後、世界は『統一政府』のもと『十の王国』となり、そこに勃興する反キリストにより『偽の平和と安全の期間』があるために惑わされるのです。イスラエルは神の選びの民であり、神の契約の民です。それなのに、反キリストとここで契約するというのは二重契約であり、神に対する裏切り行為です。
申命記18:18~19ーわたしは彼らの同胞のうちから、彼らのためにあなたのようなひとりの預言者を起こそう。わたしは彼の口にわたしのことばを授けよう。彼は、わたしが命じることをみな、彼らに告げる。
わたしの名によって彼が告げるわたしのことばに聞き従わない者があれば、わたしが彼に責任を問う。
モーセの律法を与え(律法はメシアに導く『養育係』だったーガラテヤ3:24)、後に預言者が出て来たら、預言者に言うことに聞き従うように命じられたのに、預言者たちを迫害し、殺した神の契約の民イスラエル。更に、『モーセのような預言者』として来られたメシアを、十字架につけて殺したのです。
詩篇147:19~20ー主はヤコブには、みことばを、
イスラエルには、おきてとさばきを告げられる。
主は、どんな国々にも、
このようには、なさらなかった。
さばきについて彼らは知っていない。
ハレルヤ。
神の選びの民として、神のみことばを託されたのに、現在も不信仰のままのイスラエル。
『贖罪の日/ヨム キプール』は、その彼らから不信仰の罪を取り除き、彼らをきよめ、メシアを信じる信仰へと立ち帰らせるのが、患難時代の『型』です。14万4千人のユダヤ人を通して多くの異邦人を救いへと導くことも、神のご計画の成就です。
七年間の患難時代前半は、イスラエルのためには『ふたりの証人』がエルサレムで(黙示録11:3~5)、異邦人たちのためには『144,000人のユダヤ人の初穂』が福音を語り、救いへと伝道します。しかし、異邦人の救いは前半の3年半だけ。患難時代中期になると、反キリストが正体を現します。
クリスチャンが、キリストを通して父なる神を礼拝するように、サタンは反キリストを通して、人々が自分を礼拝するように惑わすからです。反キリスト(サタン)を崇拝するようになった人々の額か右手には『666』の刻印が押され、以後その人々は肉体が生きていても霊的に救われることはなくなります。
だから、携挙の恵みからもれた人々は、イスラエルと反キリストの七年契約締結時から、神の忍耐による救いの機会はあと3年半しかないということを知らなくてはなりません。願わくは、そこまで待たずに『今』神の救いを受け入れてほしいと思います。
患難時代の後半は、反キリストを崇拝しない者たちに対する迫害が強まります。それは前半にキリストを信じた『聖徒たち』と呼ばれる異邦人と、偶像崇拝を頑なに拒むイスラエルの人々に対する迫害です。これにより多くの者が殺されることになります。異邦人信者たちに備えられた『逃れの町』はありません。
イスラエルのレムナントだけが『逃れの町』として備えられた南ヨルダンの『ボツラ』で生き延び、患難時代の最後の三日間で悔い改めるのです。(ホセア5:15~6:4)レムナントが『民族的』に悔い改めた時、彼らの悔い改めとメシアの助けを呼び求める祈りに応えて、キリストの地上再臨となります。
十字架で死んで、復活してくださったイエス様は、『永遠のいのちの恩人』!
強盗殺人罪に問われていてバラバのためだけでなく、ユダヤ人たちのためだけでなく、私たち異邦人のためにも『身代わり』となってくださった『ゴエール/買い戻しの権利を持つ親類』。
教会時代を『型』として記しているのが『ルツ記』。
ボアズが『キリストの型』、ナオミが『レムナントの型』、モアブ人ルツが『異邦人信者の型』。エリメレクと二人の息子は『滅びゆくイスラエルの型』、オルパは『滅びゆく異邦人の型』、買い戻しの権利のある親類は『律法主義者のユダヤ人の型』。
【買い戻しの権利】
⑴ 親族でなければならない。
イエスは、ユダ族ダビデの家系から誕生した『ユダヤ人』にとっての親族。
と同時に、ダビデよりも前の家系図には四人の異邦人の血が入っているので、私たち『異邦人』にとっても遠い親族となります。
⑵ 買い戻すための『代価』が必要。レビ記25:25~28
マルコ10:45ー人の子が来たのも、仕えられるためではなく、かえって仕える
ためであり、また、多くの人のための贖いの代価として、自分のいのちを与えるためなのです。
1テモテ2:6ーキリストは、すべての人の贖いの代価として、ご自身をお与えになった。これが時至ってなされたあかしなのです。
*キリストは、十字架の上で『神の小羊』として、ご自身の血をもって私たちを贖い、神のもとへ買い戻してくださいました。
⑶ 買い戻すという『意志』が必要。ルツ記4:4
ヨハネ10:18ーだれも、わたしからいのちを取った者はいません。わたしが自分からいのちを捨てるのです。わたしには、それを捨てる権威があり、それをもう一度得る権威があります。わたしはこの命令をわたしの父から受けたのです。
多くのクリスチャンが、ゲッセマネでの祈りの意味を誤解しています。『杯』が、肉体的な痛み、苦しみを意味するなら、ヨハネ10:18のみことばと矛盾することになります。
この神の恵みを拒否した頑ななユダヤ人と異邦人を、再臨の御子キリストが『王の王』として統治される千年王国に住まわせることはできないのです。
千年王国というこの地上での『神の御国』の住人になるには、旧約時代に神を信じた『義人たち』とキリストの福音を信じた新約時代の信者だけです。
そのための振り分けが、七年間の患難時代の裁きであり、生き延びた異邦人(ユダヤ人のレムナントは、民族的回心により全員救われる)の裁きが『羊と山羊の裁き』です。
*『羊と山羊の裁き』の座に立つのは、教会時代のクリスチャンではありません。
キリスト教は歴史観であり、世界観です。つまりキリスト教というのは、自分が何かプラスを得たい、自分にとって何か祝福を得たいから信じる宗教ではないということ。
もちろん信仰の中には祝福として、個人的な祝福が与えられるという要素は沢山含まれています。
しかしそれだけでは聖書的信仰に立っているとは言えません。
聖書的信仰というのは、歴史観であり世界観であるのであって、世界がどこから来てどこへ行こうとしているのかという神様のトータルプランを理解した中で、自分の今生きているポジションを位置付けなければいけないということです。
そのときに、私たちが抱えている課題、悩み、問題の一つ一つが正しく位置付けられてきます。
そして、その問題の多くのものが、実は私が神様のプラン通りに生きていないから起こってきた、神様からの警告なのだということもわかってきます。
そうすると、対応はもっと身軽になろうという対応になってくるのです。
聖書が教えていることの全体像を知らなければ、私たちは具体的な課題に対して、それを正しく位置付け、対応することは難しくなります。
聖書は、比喩的に解釈しなければならない理由が無い限りは、もっと言うと、字義通りに解釈してはいけないという明確な理由が無い限りは、字義通りに解釈します。
今はわからない、今はとてもそうとは思えないという理由で「こんなことはないでしょう、だから比喩的だ」と言ってはいけません。
マタイ24:31ー人の子は、大きなラッパの響きとともに、その御使いたちを遣わします。すると御使いたちは、天の果てから果てまで、四方から選びの民を集めます。
これはイスラエルが約束の地に集められるという預言。そして旧約聖書にはイスラエルに関する預言、イスラエルの回復に関する預言が沢山あるが、それを一節にまとめられているのです。
マタイ24:31は、旧約聖書にあるイスラエル回復の預言を一節のまとめたもの。
何故イスラエルの回復が重要なのかというと、神様はアブラハムと契約を結んだ時に、カナンの地を彼に与えると約束されたからです。
しかしイスラエルの歴史の中で、彼らがその約束された地を全部所有したことは一度もありません。それどころか、紀元70年に世界中に離散しました。それ以降、彼らは1,948年のイスラエル建国までその地を所有することはありませんでした。
現在『イスラエル国家』として所有しているのは、ほんの一部に過ぎません。神様がアブラハムに与えると約束された土地は、東はユーフラテス川から、西はエジプトのナイル川に至るまでの広大な土地です。
神様がアブラハムに約束されたことがまだ一度も成就していません。
それがいつ成就するのか…?イスラエルが回復し、約束の地に彼らが住むようになったときに成就するのです。つまり、それはメシア再臨の後に起こることなのです。
イザヤ27:12ーその日、主はユーフラテス川からエジプト川までの穀物の穂を打ち落とされる。イスラエルの子らよ。あなたがたは、ひとりひとり拾い上げられる。
マルコ13:27ーそのとき、人の子は、御使いたちを送り、地の果てから天の果てまで、四方からその選びの民を集めます。
マタイ24:31では「天の果てから果てまで、四方からその選びの民を集める」、マルコ13:27は「地の果てから天の果てまで・・」。
ということは、イスラエル人が集められてくる場所は二カ所だということです。
一つは地の果て。もう一つは天の果て。
*地の果てから…大患難時代を生き延びたユダヤ人たち。
大患難時代の間迫害のために彼らは世界各地に逃げています。一番逃げているのは南ヨルダンのボツラ(ペトラ)です。その人たちが集められてくる。つまり、生き延びているユダヤ人たちが集められて来るのです。
天の果てから集められて来るのは、『旧約時代の聖徒たち』です。既にその魂は天に帰っています。まだ体は持っておらず、霊的な状態です。しかし、彼らは復活の体を与えられ、そこに集められてくる。そして、生きているユダヤ人と復活した旧約時代の聖徒であるユダヤ人が、共にメシア的王国(千年王国)に住むようになるのです。
黙示録20:2~3ー彼は、悪魔でありサタンである竜、あの古い蛇を捕らえ、これを千年の間縛って、
底知れぬ所に投げ込んで、そこを閉じ、その上に封印して、千年の終わるまでは、それが諸国の民を惑わすことのないようにした。サタンは、そのあとでしばらくの間、解き放されなければならない。
千年王国では、再臨のキリストによる専制君主国であり、復活のからだを持つ者と患難時代を生き延び、肉体のまま入って来た民族的回心をしたユダヤ人と『羊』組に振り分けられた異邦人が住まうことになります。肉体のからだを持つ者は、結婚し、子孫を産みます。
イザヤ65:20ーそこにはもう、数日しか生きない乳飲み子も、
寿命の満ちない老人もない。
百歳で死ぬ者は若かったとされ、
百歳にならないで死ぬ者は、
のろわれた者とされる。
*百歳にならないで死ぬ者…誤訳:千年王国で誕生する異邦人は、全員百歳までいのちが保障されています。
異邦人の子孫は、百歳までにメシアが王の王であることを受け入れるか否かが問われる。ユダヤ人の子孫は、全員受け入れることになります。サタンが拘束されているため惑わされることはないが、肉体を持つゆえの原罪は残っているため、メシアを受け入れない異邦人の子孫が出てきます。彼らが百歳で死ぬ人々です。
エレミヤ24:7ーまた、わたしは彼らに、わたしが主であることを知る心を与える。彼らはわたしの民となり、わたしは彼らの神となる。
神はイスラエルに神を知る心を与えられ、その結果イスラエルは心を尽くして神に立ち返るようになります。
エゼキエル36:25~27ーわたしがきよい水をあなたがたの上に振りかけるそのとき、あなたがたはすべての汚れからきよめられる。わたしはすべての偶像の汚れからあなたがたをきよめ、
あなたがたに新しい心を与え、あなたがたのうちに新しい霊を授ける。わたしはあなたがたのからだから石の心を取り除き、あなたがたに肉の心を与える。
わたしの霊をあなたがたのうちに授け、わたしのおきてに従って歩ませ、わたしの定めを守り行なわせる。
イスラエルの罪は清められ、聖霊が彼らの心に内住し、その結果神の命令に従って歩むようになります。
患難時代の裁きを通し、キリストを信じる者だけが肉体のまま千年王国に入って来るので、スタート時は全員信者となります。しかし、異邦人の間に誕生して来る人々の中には、原罪によりメシアを受け入れない者が出てくることになり、彼らが百歳で死ぬのことになるのです。
エデンの園の回復と言われる千年王国ですが、『原罪』と『死』があるため、『いのちの木』はそこにはありません。
千年王国の終わりには、百歳に満たない若者が大勢います。彼らをテストするためにサタンが解き放たれ、惑わします。この時、サタンに与した者たちがエルサレムを取り囲みます。
黙示録20:7~8a, 9bーしかし千年の終わりに、サタンはその牢から解き放たれ、
地の四方にある諸国の民、すなわちゴグとマゴクを惑わすために出て行き、戦いのために彼らを招集する。
聖徒たちの陣営と愛された都を取り囲んだ。すると、天から火が降って来て、彼らを焼き尽くした。
この時、サタンに与しなかった者たちは助かり、次に来る『永遠の秩序』に入ることになるのです。
神と神を信じる者たちから成る『永遠の秩序』に関して、聖書は黙示録の最後の2章のみで少し触れているだけです。『新天新地』という言葉は、旧約聖書にも出てきますので誤解されやすいのですが、旧約聖書では『千年王国/メシア的王国』を指すことばです。旧約聖書のクライマックスが、千年王国です。
黙示録は、使徒ヨハネによって旧約の預言書のあちこちに散りばめられた預言を、時系列に並べ替えたものでAD95年頃に書かれました。その最後に『永遠の秩序』について預言されているということは、それよりも前の人々は知らなかった情報『奥義』です。マタイ書の『神の国』も千年王国を指しています。
黙示録21:4ー彼らの目の涙をすっかりぬぐい取ってくださる。もはや死もなく、悲しみ、叫び、苦しみもない。なぜなら、以前のものが、もはや過ぎ去ったからである。
これは、最後の敵である『死』がなくなった後のことです。それを今の教会時代にあてはめようとするから、おかしな解釈になるのです
パウロも神の啓示により、1コリント人への手紙で『死者のゆえのバプテスマ』の説明の中で少しだけ触れています。しかし詳細は、ヨハネにだけ啓示されました。
千年王国が、動物と人間の間に平和があるアダムとエバが置かれた『エデンの園』の回復であるならば、永遠の秩序の新しい都エルサレムは、創世記1:1で創造され、堕落前のサタンの任されていた鉱物でできた『エデンの園』の回復と言えるでしょう。
そこに入る者はみな栄光のからだになり、死もない世界ですから、アダムとエバが置かれていた『エデンの園』にあった『いのちの木』があり、完全に神と人との関係が回復された世界となります。
これが創世記〜黙示録までの大雑把な全体像であり、神様のご計画の流れです。
この枠組みの中で、①どの時代の人々が、②どこまで啓示を受け、③どんな命令に従うべきだったのか、④聖書の中の『あなた/あなたがた』とは誰なのか、⑤『私/私たち』とは誰なのか(ユダヤ人信者なのか、異邦人信者なのか、旧約時代のユダヤ人なのか、教会時代のメシアニックジューなのか、異邦人信者なのか)これらのことを無視して、『あなた』も『私』もすべて自分のこと(クリスチャン)と理解してしまう悪い癖はついていませんか?
そのような悪い癖に基づく読み方は、サタンによってみことばの真理に覆いを掛けられた読み方です。
聖書は、自己中心的に読む(その時々の自分の置かれた状況に合わせてたり、自分の思いや計画を裏づけるようなみことばの探し読みをする)のではなく、神(キリスト)中心に読むべきものです。
そうして初めて、霊的に成長することができるのです。
ここまでの長い記事をお読みくださったお一人お一人を、主が豊かに祝福してくださいますように。
御霊の助けにより、みことばを深く理解し、キリストの身丈にまで成長することができますように。† 栄光在主 †
主イエス様の御名によって祈ります。アーメン。