自分の信仰の基盤をどこに置くべきか…?今一度よく考えてみる必要があります。
クリスチャンの友人が、日本のキリスト教界が『置換神学』にどっぷり状態だとボヤいてきました。この立場で聖書を読んでも一貫性もなければ、救いの確信もぼやける。神の目的は『人類救済』で、どこまで行っても人間中心…。だから信徒は、みことばの理解に飢え乾く…というのです。
おかしいですよね、やっぱり…。
マタイ13:33ーイエスは、また別のたとえを話された。「天の御国は、パン種のようなものです。女が、パン種を取って、三サトンの粉の中に入れると、全体がふくらんで来ます。」
多くの人はこの聖句を文脈を無視してポジティブな意味で理解していますが、前後の文脈からはネガティブな意味で記されています。象徴的に『パン種』が用いられる時は、『罪』の意味合いです。
女…異邦人
パン種…人を真の福音、真の救いから遠ざける『偽りの教え』
入れると…原語:『隠すと』
ふくらんで…人間の耳に心地よく教えを変えた結果、多くの人がキリストを信じるようになる。
カトリックにも、プロテスタントにも、東方教会の教えにも、サタンによって『パン種』は仕込まれてしまいました。その結果、確かに多くの人が『クリスチャン』と呼んだり、呼ばれたりするようにはなりましたが、本当の意味でキリストに聞き従う『弟子』は少ないのです。
サタンによる『パン種』が仕込まれた『福音』は、パウロが最も大切なこととして教えた『キリストの福音の三要素』に何かを付け加えたり、何かの要素を差し引いたりした『偽の福音』を信じてバプテスマを受け、クリスチャンになったと思わせるものです。
だから、自分はクリスチャンだと言いながら「キリストの復活は信じられない」と言う人々がいたり、「行いが伴わないと救いを失う」と言われて落ち込んだりするのです。
『キリストを信じたのだからそれでいい。』
『聖書は大事だけど、無理して読まなくてもいいのでは…?』
『聖書は難しいので、副読本を読んでいます。』
『◯◯を書いた△△さん(OX先生)は、こう言っている。』
『うちの教会は、ずっとこう信じてきました。』
…これらは、一見正しいように思えますが、すごく危険な教えです。
なぜなら、聖書以外の人間の言葉は、神の霊感を受けてないのですから!!
『人類救済』は神様のご計画の一つではありますが、神の目的は『神の栄光を現わすこと』です。
聖書は、①字義通りに、
②文脈に沿って、
③神が言わんとするオリジナルの意味で、聖書を解き明かすべき(みことばをみことばで確認しながら)です。
ヤコブ5:7~8ーこういうわけですから、兄弟たち。主が来られる時まで耐え忍びなさい。見なさい。農夫は、大地の貴重な実りを、秋の雨や春の雨が降るまで、耐え忍んで待っています。
あなたがたも耐え忍びなさい。心を強くしなさい。主の来られるのが近いからです。
イスラエルという国が無かった時代、異邦人信者はユダヤ人を迫害して来ました。神が契約の民ユダヤ人に約束された事を、横取りするような私的解釈をしてきました。
イスラエルが再建された時、神学を見直すべきだったのに…。
まさに『ラオデキヤ(背教)の教会』の時代です。
今悔い改めなくては大変なことになります。なぜなら、パウロは『異なる福音を宣べ伝える者は呪われる』と言っているからです。
ガラテヤ1:6~9ー私は、キリストの恵みをもってあなたがたを召してくださったその方を、あなたがたがそんなにも急に見捨てて、ほかの福音に移って行くのに驚いています。
ほかの福音といっても、もう一つ別に福音があるのではありません。あなたがたをかき乱す者たちがいて、キリストの福音を変えてしまおうとしているだけです。
しかし、私たちであろうと、天の御使いであろうと、もし私たちが宣べ伝えた福音に反することをあなたがたに宣べ伝えるなら、その者はのろわれるべきです。
私たちが前に言ったように、今もう一度私は言います。もしだれかが、あなたがたの受けた福音に反することを、あなたがたに宣べ伝えているなら、その者はのろわれるべきです。
『十戒』で有名なモーセの律法は、全部で613…365の禁止命令と248の積極的命令。
御使いによって与えられました。使徒7:53、ガラテヤ3:19、ヘブル2:2
最初の十の戒めが『十戒』…出エジプト記20章は、出エジプトを体験した第一世代に『奴隷ではなく、自由人としていかに生きるべきか』を説いたもの。
申命記5章は、40年荒野をさまよった後 約束の地を前に第二世代に『これから入る地で、自由人として、このように生きなさい』と指針を与えたもの。
つまり『十戒』は、613ある『律法』の一部であり、ユダヤ人のためのものだったのです。また、聖書には『十戒』とか『道徳律法』などと区分することばはなく、『モーセの律法』という表現は、常に613すべての戒めを総括した意味で使われています。
現在はエレミヤ31:31で神が二つの家、イスラエルの家とユダの家と結び、キリスト・イエスによって成就した『新しい契約』の時代です。
エペソ人への手紙2章によると、異邦人信者である私たちは、初めから律法を与えられてはおらず、律法によって神に近づくことに制限がかかり、神から遠く離れた存在であったのです。
ガラテヤ3:10ーというのは、律法の行いによる人々はすべて、のろいのもとにあるからです。こう書いてあります。「律法の書に書いてある、すべてのことを堅く守って実行しなければ、だれでもみな、のろわれる。」
申命記27:26ー「このみおしえのことばを守ろうとせず、これを実行しない者はのろわれる。」民はみな、アーメンと言いなさい。
ヤコブ2:10ー律法全体を守っても、一つの点でつまずくなら、その人はすべてを犯した者となったのです。
つまり十戒だけ守ってもダメであり、613すべて守らなくてはなりません。だから、『義人はいない。ひとりもいない。』ーローマ3:10となるのです。
救いは行ないによるのではなく、信仰による…これはいつの時代も同じです。違いは、神様から啓示されている内容だけ。
エペソ2:8~10ーあなたがたは、恵みのゆえに、信仰によって救われたのです。それは、自分自身からでたことではなく、神からの賜物です。
行いによるのではありません。だれも誇ることのないためです。
私たちは神の作品であって、良い行いをするためにキリスト・イエスにあって造られたのです。神は、私たちが良い行いに歩むように、その良い行いをもあらかじめ備えてくださったのです。
ヨハネ13:34~35ーあなたがたに新しい戒めを与えましょう。互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。
もし互いの間に愛があるなら、それによってあなたがたがわたしの弟子であることを、すべての人が認めるのです。
ヨハネ14:15ーもしあなたがたがわたしを愛するなら、あなたがたはわたしの戒めを守るはずです。
イエスは『モーセの律法』に変わる新しい戒めをくださいました。聖書を読まずに、どのようにして『イエスが私たちを愛した』のかを知ることができるのでしょうか?
「殺してはならない」「盗んではならない」など、モーセの律法と重複する戒めもありますが、すべては『互いを愛する』ゆえです。
そして永遠の滅びから救い出してくださった主イエスを愛するなら、主の戒めを守るはずです。それは教えや習慣や儀式など形だけを守ることではありません。
コロサイ2:8ーあのむなしい、だましごとの哲学によってだれのとりこにもならぬよう、注意しなさい。そのようなものは、人の言い伝えによるものであり、この世に属する幼稚な教えによるものであって、キリストに基づくものではありません。
むなしい、だましごとの哲学…人の『知性』に基づくものを基盤にした信仰。「それが『論理的』であるならば信じてもいい。」と言う人は、自分の知性に頼り、自己中心的に考えています。
人の言い伝え…過去において誰かが、特定の教えや習慣、儀式を繰り返し行なうべきだと主張した結果出来上がった『伝統』です。人間の伝統に基盤を置いた教えは時として、神のみことばに逆らう傾向にあります。
1ペテロ1:18~19ーご承知のように、あなたがたが先祖から伝わったむなしい生き方から贖い出されたのは、銀や金のような朽ちる物にはよらず、
傷もなく汚れもない小羊のようなキリストの、尊い血によったのです。
この世に属する幼稚な教え…『経験』を信仰の基盤にすることは、とても危険です。同じ経験をすることを求め、まだ経験していない人には『秘伝』を授けるか、霊的に基準以下と見なす傾向があるからです。
だからこそ神は、ご自身を『幻』のうちに現わされるよりも良い方法として、神の真理について書かれた本ー聖書ーを与えてくださいました。それによって、それが真理かどうか見分けることができるのです。申命記13:1~4。
現代においてもなお『知性・経験・伝統』という不十分な権威の基盤を教えることによって、自分の名誉と栄光を求める人々がいます。
しかしキリストの福音を信じる者は、『聖書』という揺るがない基盤の上に信仰の家を建てるべきです。
Ⅱ テモテ3:16ー聖書はすべて、神の霊感によるもので、教えと戒めと矯正と義の訓練とのために有益です。
Ⅱ テモテ2:15ーあなたは熟練した者、すなわち、真理のみことばをまっすぐに説き明かす、恥じることのない働き人として、自分を神にささげるよう、努め励みなさい。
参考までに:カトリックの『十戒』と『聖書の十戒』との違い!!
『教会の伝道の中の十戒ー糸永真一司教のカトリック時評』より引用。http://t.co/xlq4fyIRCv
これにはどういう意味があるのか…?検証が必要ですね。
ちなみに、聖書通りの『十戒』は、以下の通り。(*カトリックとの違いは、第ニ戒と第十戒。)
第一戒:わたしの他に、ほかの神々があってはならない。出20:3、申5:7
第二戒:偶像を造り、それらを拝んではならない。出20:4~5、申5:8~9
第三戒:主の御名をみだりに唱えてはならない。出20:7、申5:11
第四戒:安息日を覚えて、聖なる日とせよ。出20:8、申5:12
*ここまでが『対 神』ーJesus。
第五戒:あなたの父と母を敬え。出20:12、申5:16
*これは『対 人』ーOthers。
第六戒:殺してはならない。出20:13、申5:17
第七戒:姦淫してはならない。出20:14、申5:18
第八戒:盗んではならない。出20:15、申5:19
第九戒:隣人に偽証してはならない。出20:16、申5:20
第十戒:隣人の家を欲しがってはならない。出20:17、申5:21
*これらは『対 自分自身』ーyourself。
つまりそれは『聖書の神が命じた十戒』か『教会の伝統の中の十戒』か…ということ。これも信仰が試されるところでしょうね。
ガラテヤ5:22~23ーしかし、御霊の実は、愛、喜び、平安(ここまでが、神にあって結ぶものーJesus)、寛容、親切、善意、(これらは、他者に対して結ぶものーOthers)、誠実、柔和、自制(自分自身ーYourself)です。このようなものを禁ずる律法はありません。
神の戒めを守ることは『J.O.Y.=喜び』です。