サザエのお裾分け

聖書を字義通り&文脈に沿って学び、理解したことの中からのお裾分け。内容は鵜呑みにせず、必ずご自分で聖書を開いて確認してくださいね。聖書理解の助けになれば幸いです。† 栄光在主 †

偶像 (2)

出エジプト記20:4~5aーあなたは、自分のために、偶像を造ってはならない。

上の天にあるものでも、下の地にあるものでも、地の下の水の中にあるものでも、どんな形をも造ってはならない。

それらを拝んではならない。

 

これは『十戒』の第二の戒めです。

律法に従うことにより、その律法を与えられた方に従って、守られた人生を送ることができるためでした。

 

ガラテヤ3:24ーこうして、律法は私たちをキリストへ導くための私たちの養育係となりました。私たちが信仰によって義と認められるためなのです。

 

律法を守ることによる『義』を得られない人間のために、御子イエスは人と同じ姿となり、613あるすべての律法を全うされ、その罪のない血が私たちの贖いの代価となりました。

 

【贖い(買い戻し)の権利を有する人の条件】

親族でなければならない申命記25:5ー兄弟がいっしょに住んでいて、そのうちのひとりが死に、彼に子がない場合、死んだ者の妻は、家族以外のよそ者にとついではならない。その夫の兄弟がその女のところに、はいり、これをめとって妻とし、夫の兄弟としての義務を果たさなければならない。

 

*イエスはユダヤ人の親族として、また異邦人であるタマル、ラハブ、ルツ、バテ・シェバの血を引いて誕生してくださり、この条件を満たしてくださいました。

cf マタイ1:3~6、ルカ3:31~33

 

買い戻すための財力がなければならない。レビ記25:25ーもし、あなたの兄弟が貧しくなり、その所有地を売ったなら、買い戻しの権利のある親類が来て、兄弟の売ったものを買い戻さなければならない。

 

*律法をすべて守り、罪のない『神の小羊』としての十字架で流された血が、私たちの罪のための贖いの代価となりました。

cf 1コリント6:20あなたがたは、代価を払って買い取られたのです。ですから自分のからだをもって、神の栄光を現わしなさい。

 

1コリント7:23あなたがたは、代価をもって買われたのです。人間の奴隷となってはいけません。

 

1ペテロ1:18~19ーご承知のように、あなたがたが先祖から伝わったむなしい生き方から贖い出されたのは、銀や金のような朽ちる物にはよらず、

傷もなく汚れもない小羊ようなキリストの、尊い血によったのです。

 

買い戻す意志があること。ルツ記4:4

 

イエスは自分からいのちを捨ててくださいました。

cf ヨハネ10:18ーだれも、わたしからいのちを取った者はいません。わたしが自分からいのちを捨てるのです。わたしには、それを捨てる権威があり、それをもう一度得る権威があります。わたしはこの命令をわたしの父から受けたのです。

 

父なる神は、神の小羊としてご自身のひとり子なるイエスを贖いの代価として、罪ある人間を贖ってくださいました。しかし『救い』は神様側の愛だけで成立するものではありません。『イエスが神の子キリストであると信じる』信仰による応答が必要なのです。

 

ヨハネ20:31ーしかし、これらのことが書かれたのは、イエスが神の子キリストであることを、あなたがたが信じるため、また、あなたがたが信じて、イエスの御名によっていのちを得るためである。

 

ですから、聖書は第一義的には『御子イエスを中心に読み解くべき』であって、適用は第二義的な意味として理解すべきものです。そうでなければ『神中心』ではなく『人間中心』となり、神の深い意図やみことばが人間の癒しや励ましのための『ツール』となってしまいます。

 

イエスはこう言われています。

マタイ10:37わたしよりも父や母を愛する者は、わたしにふさわしい者ではありません。また、わたしよりも息子や娘を愛する者は、わたしにふさわしい者ではありません。

 

ヨハネ17:3その永遠のいのちとは、彼らが唯一のまことの神であるあなたと、あなたの遣わされたイエス・キリストとを知ることです。

 

イエス(神)を第一とせず、イエス以外のいかなるものをも優先させるなら、イエスにふさわしい者ではないと言われています。神が言わんとしていることをまずくみ取ることが必要不可欠です。

 

偶像崇拝は『物』だけとは限りません。人や仕事や富もイエスよりも優先させるなら、また信仰もイエスに対するよりも組織やリーダーに対する信頼が強いなら、偶像崇拝の罪となり得るのです。どのような教えもみことばによって確認することが必要です。

cf 使徒17:11b非常に熱心にみことばを聞き、はたしてそのとおりかどうか毎日聖書を調べた。

 

私たちは『神の栄光をあらわすために造られた』のですから、どんな時も主イエスを第一とし、神の栄光に繋がるようにすべきであり、みことばで確認すべきです。それほど、日々みことばに接することを神は喜ばれます。なぜなら聖書のみことばそのものが、主イエスご自身だからです。

cf ヨハネ1:1初めに、ことばがあった。ことばは神とともにあった。ことばは神であった。

cf ヨハネ1:14ことばは人となって、私たちの間に住まわれた。わたしたちはこの方の栄光を見た。父のみもとから来られたひとり子としての栄光である。この方は恵みとまことに満ちていた。

cf ヨハネ1:18ーいまだかつて神を見た者はいない。父のふところにおられるひとり子の神が、神を説き明かされたのである。

 

*ひとり子の神であるイエスが、父なる神を説き明かされたのですから、素直にイエスが説き明かされた神がどのような方なのかに耳と心を傾けるべきでしょう。

私たちの救い主がどのようなお方なのかを知り、祈りによる個人的交わり、体験により神を知ることが、本当の意味での癒しとなり励ましとなるのですから。

イエスに焦点を合わせて、みことばを読むことが霊的成長の一番の近道と言えるでしょう。

 

 

 

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