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サザエのお裾分け

聖書を字義通り&文脈に沿って学び、理解したことの中からのお裾分け。内容は鵜呑みにせず、必ずご自分で聖書を開いて確認してくださいね。聖書理解の助けになれば幸いです。† 栄光在主 †

異言は不信者のためのしるし⁈ 〜1コリント14:21~22〜

1コリント14:21~22律法にこう書いてあります。「わたしは『異なった舌により、異国の人のくちびるによってこの民に語るが、彼らはなおわたしの言うことを聞き入れない。』と主は言われる。

それで異言は信者のためのしるしではなく、不信者のためのしるしです。けれども、預言は不信者でなく、信者のためのしるしです。

 

この箇所も『難解』と言われる聖句です。

チェーン式新改訳聖書の説明には、次のように解説されています。

【異言は信仰を明らかにするだけで、信仰を積極的に生じさせるわけではない。異言を語っても、人々は語っている者を気違いだと思う(23)からである。】

 

しかしこの解釈は、新約聖書のみことばを新約聖書の中だけで説明しようとしているだけであり、そこには土台となる旧約聖書からの解釈は何も入ってはいません。

それどころか、一般的に教会で語られる『異言』は、不信仰を信仰に導くことが目的であると言われていることと矛盾しています。

 

コリント人への手紙の著者パウロは、エルサレムで以下のように自己紹介しています。

使徒22:3ー「私はキリキヤのタルソで生まれたユダヤですが、この町で育てられ、ガマリエルのもとで私たちの先祖の律法について厳格な教育を受け、今日の皆さんと同じように、神に対して熱心な者でした。

 

*ガマリエルユダヤ教パリサイ派のラビ。ユダヤ教徒時代のパウロの師。cf 使徒5:34

パリサイ派…律法(トーラー/モーセ五書)だけでなく、預言書の権威をも認め、死者の復活を信じていた。(一方のサドカイ派は、トーラーのみの権威を認め、死者の復活は信じなかった。)

 

パウロは預言書の内容にも、イスラエルの歴史にも通じていた人物ですから、旧約聖書を土台に解釈する必要があります。その助けとなるのがイザヤ書28章です。

 

イザヤ28:7~8は、6~7節の北イスラエル同様、南ユダ王国の指導者たちも酔った状態であることが記されています。彼らは泥酔し、どの食卓も吐いた汚物でいっぱいで、綺麗なところは見出せないと。

そしてこれらの指導者たちは、再三のイザヤの警告を無視し、エジプトとの同盟契約を後押ししていました。

 

イザヤ28:9~10で泥酔しているユダの指導者たちは、自分たちは成熟しているから教えられることは何もないと語り、イザヤが当時語っていた預言的言葉を真似て、単音節の言葉で繰り返し、酔っ払いがどもって発音するようにして嘲っています。

 

イザヤ28:11まことに主は、もつれた舌で、外国のことばで、この民に語られる。

*外国のことば…アッシリヤのことば。

ユダの指導者たちはイザヤの警告のことばを信じず、エジプトとの同盟に踏み切りました。その結果、南ユダ王国はアッシリヤの侵略を受けることになりました。

侵略を受けたユダの指導者たちは、アッシリヤの軍隊のもつれた言葉を聞く時に、自分たちがイザヤを嘲ったように、アッシリヤの軍隊によって嘲られたと認識するようになりました。


その時、アッシリヤの言語が、預言者イザヤのことばを信じなかったユダの不信仰を示すしるしとなったのです。

 

もし南ユダ王国がイザヤの預言を受け入れていたら、アッシリヤの侵略を受けることもなく、アッシリヤの言語を神の約束の地で耳にすることもありませんでした。

神の約束の地で新しい言語を聞くことが、南ユダの『不信仰のしるし』となったのです。

 

ある教会では強く奨励される『異言』を、パウロは逆説的に用いています。なぜなら、不信者は異言を聞いても信じることがないからです。アッシリヤの言語がユダの不信者に対するしるしとなったように、教会時代の不信者に対するしるしとなる、とパウロは宣べているのです。

 

なぜ神は『教会』をユダヤ人と異邦人とを一つのからだに作りあげたのでしょう?

エペソ人への手紙 2章 - サザエのお裾分け

 

それは、ユダヤ人が民族的にイエスをメシアとして拒否したため、異邦人に救いが及ぶようになるためでした。

ベルゼブル論争 - サザエのお裾分け

 

『教会』はユダヤ人と異邦人の信者によって構成される集合体であって、『イスラエル』とは区別される存在です。

 

エペソ2章でパウロが語っているように、『教会』はユダヤ人信者と異邦人信者とがともに『一つのからだ』として築き上げていくものだったのです。

イスラエルという国家が存在しなかった長い間に、メシアを拒否したユダヤ人たちから約束と祝福は取り去られ、イエスを信じるクリスチャン(異邦人)に与えられたとするイスラエル=教会時代のクリスチャン』と置き換えた解釈が定着し、みことばの深い理解ができなくなってしまいました。つじつまが合わないところは『比喩的』としたり、ひどい場合は『聖書のある部分は、おとぎ話だ。』としてしまいました。

 

神の選びの民、約束の民ではない『異邦人の教会』を通して、約束の民である『ユダヤ人』に妬みを起こさせるという目的があるのです。

ローマ11:11では、尋ねましょう。彼らがつまずいたのは倒れるためなのでしょうか。絶対にそんなことはありません。かえって、彼らの違反によって、救いが異邦人に及んだのです。それはイスラエルにねたみを起こさせるためです。

 

教会で異言(外国語)が用いられる目的は、ユダヤ人の不信仰を『しるし』として示すためであって、ユダヤ人や異邦人の不信仰者を信仰に導くためではありません。

 

『教会』が存在する理由は、イスラエルにねたみを起こさせるためであり、『教会』で異言(異邦人の言語)が語られるのは、民族として不信仰に陥ったイスラエルユダヤ人)の『不信仰のしるし』となったのです。1コリント14:21でパウロが引用しているように『彼らはなおわたしの言うことを聞き入れはしない。』状態が、大患難時代の終わりまで続きます。

 

彼らが民族的に悔い改めた時、彼らの祈りに答えて、キリストの地上再臨が起こります。

マタイ23:39あなたがたに告げます。『祝福あれ。主の御名によって来られる方に。』とあなたがたが言うときまで、あなたがたは今後決してわたしを見ることはありません。」

*あなたがたユダヤ人。

メシアのエルサレム入城とユダヤ人の思い違い 〜ヨハネ12:12~19〜 - サザエのお裾分け

 

イスラエルは、大患難時代の終わりには『民族的回心』に至るのです。

神様に見捨てられたわけではありません。

ローマ11:25~26a兄弟たち。私はあなたがたに、ぜひこの奥義を知っていていただきたい。それは、あなたがたが自分で自分を賢いと思うことがないようにするためです。その奥義とは、イスラエル人の一部がかたくなになったのは異邦人に完成のなる時までであり、こうして、イスラエルはみな救われる、ということです。