主イエスが十字架に架かる前に『再臨の時の備え』として語られた四つの譬え話の四番目ータラントの譬えーです。
『タラント』という言葉から連想する日本語として『タレント』という言葉がありますよね。もともとは同じ意味だったかな…!? 誰にでも皆同じものがあるのでもなく、誰でもなれるものではありません。
それは神様からの『賜物=タラント』だからです。
芸能人の場合は、自分の栄光のために用いる『才能』と呼べるものでしょうが、神様の栄光のために用いると『賜物』になるのです。
たとえば、歌が上手い、ピアノが弾ける…というのは、自分の趣味として用いていれば『才能』でしょうが、教会奉仕等で神様の栄光をあらわすために用いれば『賜物=タラント』になるわけです。
タラントを『御霊の賜物』と理解して読むと、この箇所の意味が深まると思います。
1コリント12:4ーさて、御霊の賜物にはいろいろの種類がありますが、御霊は同じ御霊です。
マタイ25:14ー天の御国は、しもべたちを呼んで、自分の財産を預け、旅に出て行く人のようです。
*天の御国…ここもイエスの十字架前なので『千年王国』を指して言われています。
*しもべたち…『神のしもべ』となった信者たちのこと。
*自分の財産…御霊の賜物。
*旅に出て行く人…イエスは昇天により、地上から旅に出ていることになります。やがて地上に帰って来られ(『再臨』され)ます。
マタイ25:15ー彼は、おのおのその能力に応じて、ひとりには五タラント、ひとりにはニタラント、もうひとりには一タラントを渡し、それから旅に出かけた。
*おのおのその能力に応じて…その霊的成長によって。みことばの理解度によって。
*五タラント、二タラント、一タラント…「イエスは生ける神の子、キリストです。」という信仰告白をする信者であれば、その霊的成長度合いに合わせて『賜物=タラント』を分け与えてくださるのです。
マタイ25:16ー五タラント預かった者は、すぐに行って、それで商売をして、さらに五タラントもうけた。
*さらに五タラントもうけた…多く与えられた人というのは、それぞれの『賜物=タラント』を上手に使える人です。その結果、賜物は増えるのです。
マタイ25:17ー同様に、ニタラント預かった者も、さらに二タラントもうけた。
*二タラントもうけた…二タラントの人も、与えられた賜物を駆使して神様の栄光のために用いた結果、倍に増えました。
マタイ25:18ーところが、一タラント預かった者は、出て行くと、地を掘って、その主人の金を隠した。
*一タラント預かった者…どんなに信仰を持ったばかりの人でも、神様はご自分の『しもべ』として信頼して、自分の財産をお預けになります。
クリスチャンになって『賜物が何もない』という人はいません。
*主人の金を隠した…一タラント預かった人は、その金(主人の財産)を隠してしまいました。せっかく信頼され、預けられたにも関わらず、自分の判断で『無いもの』としてしまったわけです。
マタイ25:19ーさて、よほどたってから、しもべたちの主人が帰って来て、彼らと清算した。
*主人が帰って来て…キリストの地上再臨。
(キリストの花嫁である教会時代の信者は、『携挙』の時にキリストの裁きの座で『信仰生活の決算報告』をします。)
マタイ25:20ーすると、五タラント預かった者が来て、もう五タラント差し出して言った。『ご主人さま。私に五タラント預けてくださいましたが、ご覧ください。私はさらに五タラントもうけました。』
*与えられた『賜物=タラント』を十分に活用した者は、堂々と主人の御前に報告することができます。
マタイ25:21ーその主人は彼に言った。『よくやった。良い忠実なしもべだ。あなたは、わずかな物に忠実だったから、私はあなたにたくさんの物を任せよう。主人の喜びをともに喜んでくれ。』
*よくやった。忠実なしもべだ。…この世において私たちが神様から頂いたものを上手に管理すると、やがて神様から賞賛を受ける時がきます。
マタイ25:22ー二タラントの者も来て言った。『ご主人さま。私は二タラント預かりましたが、ご覧ください。さらに二タラントもうけました。』
*二タラント…たとえ預かったものが多くなくても、『賜物=タラント』を感謝して受け取り、主の御用のために用いれば、臆することなく御前に報告することができます。
マタイ25:23ーその主人は彼に言った。『よくやった。良い忠実なしもべだ。あなたは、わずかな物に忠実だったから、私はあなたにたくさんの物を任せよう。主人の喜びをともに喜んでくれ。』
*わずかな物に忠実だったから…どれだけもうけたか、ではなく、どれだけ『忠実か』が問われるのです。
*たくさんの物を任せよう…『この世』での忠実さにより、来たるべき次の世である『千年王国』で任される物の大きさが決まるのです。
マタイ25:24ーところが、一タラント預かっていた者も来て、言った。『ご主人さま。あなたは、蒔かない所から刈り取り、散らさない所から集めるひどい方だとわかっていました。
*『ご主人さま。あなたは…ひどい方だとわかっていました。』…これが『一タラント預けられた者』の信仰の姿でした。主人であり、神であるキリストが『ひどい方だ』と、この人はそう心の中で思っていたのです。それは、愛の神様に対する正しい信仰ではありません。
マタイ25:25ー私はこわくなり、出て行って、あなたの一タラントを地の中に隠しておきました。さあどうぞ、これがあなたの物です。』
*隠しておいた…せっかく預けられた主人の財産『タラント』を無いものとして 活用しなかったのです。そっくりそのまま主人に返しました。
マタイ25:26ーところが、主人は彼に答えて言った。『悪いなまけ者のしもべだ。私が蒔かない所から刈り取り、散らさない所から集めることを知っていたというのか。
*悪い…『悪い』ということばは『不信者』にのみ使われることばです。
*なまけ者のしもべだ…神の『賜物=タラント』を認めず、用いないという行為は、不信仰のあらわれです。つまり、この一タラントを預けられたしもべは、本当に神を信じてはいなかったのです。
マタイ25:27ーだったら、おまえはその私の金を、銀行に預けておくべきだった。そうすれば私は帰って来たときに、利息がついて返してもらえたのだ。
*信仰が幼い故に正しく『一タラント』を用いることができなくても、自分が救われたことを証しすることはできるはずです。それが未信者への福音の種蒔きへとなるのです。
それすらもしなかったというのは、「主よ。主よ。」と口先だけで言う、初めから信じていない『偽りのしもべ』であったということです。
マタイ25:28ーだから、そのタラントを彼から取り上げて、それを十タラント持っている者にやりなさい。』
*彼から取り上げて…最終的に神の賜物は、偽りの信者からは取り上げられることになります。
マタイ25:29ーだれでも持っている者は、与えられて豊かになり、持たない者は持っているものまでも取り上げられるのです。
*賜物は使うべきです。使ったからといって減るものではなく 、さらに増し加えられるものなのです。
マタイ25:30ー役に立たぬしもべは、外の暗やみに追い出しなさい。そこで泣いて歯ぎしりするのです。
*外の暗やみ…『火の池』には、光がありません。
*本当の信者以外は『千年王国』に入ることができません。『千年王国=御国の時代』の前に患難時代を生き延びた人々の決算にあたるのが『羊と山羊の裁き』です。『羊組』の人々は、信仰の故に賜物を用い、信仰の故に迫害されるユダヤ人を助けるのです。
そして、教会時代を生きる私たちクリスチャンも、信仰の故に主を賛美し、礼拝をし、証しをし、人を励まし、慰め、賜物を用いるのです。
1コリント12:8~11ーある人には御霊によって知恵のことばが与えられ、ほかの人には同じ御霊にかなう知識のことばが与えられ、
またある人には同じ御霊による信仰が与えられ、ある人には同一の御霊によって、いやしの賜物が与えられ、
ある人には奇蹟を行う力、ある人には預言、ある人には霊を見分ける力、ある人には異言、ある人には異言を解き明かす力が与えられています。
しかし同一の御霊がこれらすべてのことをなさるのであって、みこころのままに、おのおのにそれぞれの賜物を分け与えてくださるのです。
自分にどんな賜物が与えられているのかを知ることは、大事なことです。
①していることが『神様の栄光』を現わしているか?
②それをすることによって、周りの人たちの『益』になっているか?
③それをすることが、自分の『喜び』であるか?
これらが揃っていたら『賜物』と思って大丈夫でしょう。
与えられた『賜物』を用いることが『奉仕』です。
喜んで心から主に仕えることができますように。