御霊の内住のある教会時代の信者は『キリストの花嫁』ですが、多くのクリスチャンがマタイ25章の『十人の娘たち』のたとえを勘違いして、自分は『愚かな娘』ではないかと心配しています。
その心配は無用です!
なぜなら、私たちの内に住まわれる御霊なる神が、御国を受け継ぐ保証をしてくださっているからです。
エペソ1:14ー聖霊は私たちが御国を受け継ぐことの保証です。これは神の民の贖いのためであり、神の栄光がほめたたえられるためです。
では、『十人の娘たち』のたとえはどういう意味なのでしょうか?
そのことを理解するためには、イスラエルの結婚式について知る必要があります。
私たち信者は『キリストの花嫁』として現在、花婿なるキリストのお迎えである『携挙』を待ち望んでいます。
花婿のお迎えは『真夜中』と決まっているので、主は「目を覚ましていなさい」と言われたのです。それは霊的に覚醒して、みことばに聞き従い、キリストの従順なしもべとしての働き、霊的成長をするようにという意味でもあります。
花婿なるキリストのお迎えが『携挙』、
地上が七年間の患難時代の間 天にて『結婚式』、
キリストの地上再臨の時に、ともに天から降りて来て千年王国(天の御国/キリストの御国)が『披露宴』となります。
ですから、『十人の娘たち』とは、七年間の患難時代を生き延びた人々のことであって、現在の教会時代の信者のことではありません。
マタイ25:1ーそこで、天の御国は、たとえて言えば、それぞれがともしびを持って、花婿を出迎える十人の娘のようです。
*ともしび…福音/みことばの光。
携挙で教会時代のすべての信者が地上から天に移されるため、この地上にはキリストを信じる者はひとりもいなくなります。すべて地上に残された人々は『未信者』です。
患難時代になると、まず信仰の『初穂』として、144,000人のユダヤ人たちが救われます。世界中に散らばっている彼らによって、異邦人に『福音』が伝えられます。
彼らはユダヤ人なので旧約聖書をよく知っており、キリストへの養育係としての『律法』や『預言書』という土台の上に信仰を持つわけですから、伝道の力、説得力は相当でしょう。
その彼らの伝道により、全世界の異邦人たちに大リバイバルが起こります。
また、患難時代中期には『666』の獣(反キリスト)の刻印を押されて、救いの機会を失う前に、御使いによる伝道も行われます。
黙示録14:6~7ーまた私は、もうひとりの御使いが中天を飛ぶのを見た。彼は、地上に住む人々、すなわち、あらゆる国民、部族、国語、民族に宣べ伝えるために、永遠の福音を携えていた。
彼は大声で言った。「神を恐れ、神をあがめよ。神のさばきの時が来たからである。天と地と海と水の源を創造した方を拝め。」
黙示録14:9~10ーまた、第三の、別の御使いも、彼らに続いてやって来て、大声で言った。「もし、だれでも、獣とその像を拝み、自分の額か手かに刻印を受けるなら、
そのような者は、神の怒りの杯に混ぜ物なしに注がれた神の怒りのぶどう酒を飲む。また、聖なる御使いたちと小羊との前で、火と硫黄とで苦しめられる。
つまり、患難時代の人々は、144,000人のユダヤ人たちからと御使いたちによって、少なくとも二回は『福音』を聞くことになります。
マタイ25:2ーそのうち五人は愚かで、五人は賢かった。
全員等しく『福音』を聞いても、『愚かな者』と『賢い者』とに分かれます。
マタイ25:3ー愚かな娘たちは、ともしびは持っていたが、油を用意しておかなかった。
*油…聖霊。信仰によって『福音』を受け入れること。
*愚かな娘たち…ともしびである『福音』を聞いても、信仰によって受け入れることをしなかった人々。不信者。
マタイ25:4ー賢い娘たちは、自分のともしびといっしょに、入れ物に油を入れて持っていた。
*賢い娘たち…『福音』を聞き、受け入れた人々。患難時代の聖徒たち。
*油を持っていた…患難時代の信者に対する聖霊は、『内住』ではなく、信者の上に留まるという旧約時代の働きに戻ります。
マタイ25:5ー花婿が来るのが遅れたので、みな、うとうとして眠り始めた。
*花婿が来るのが遅れた…『携挙』のことではなく、披露宴会場に来るのが遅れたということ。
携挙は、いつ起こるかわからないため『遅れている』のか『まだ先のこと』なのかは、誰にもわかりません。
マタイ24:36ーただし、その日、その時がいつであるかは、だれも知りません。天の御使いたちも子も知りません。ただ父だけが知っておられます。
しかし、患難時代の幕開けは『反キリストとイスラエルとの契約締結時』であり、その期間は『七年間』と預言されていますから、患難時代は始まれば、キリストの地上再臨のだいたいの予想はつきます。
ダニエル9:27ー彼は一週の間、多くの者と堅い契約を結び、半週の間、いけにえとささげ物とをやめさせる。荒らす忌むべき者が翼に現れる。ついに、定められた絶滅が、荒らす者の上にふりかかる。
マタイ25:6ーところが、夜中になって、『そら、花婿だ。迎えに出よ』と叫ぶ声がした。
披露宴会場となる地上に降りて来るのが遅れて、夜中になってしまったということでしょう。(たとえであることをお忘れなく!)
マタイ25:7ー娘たちは、みな起きて、自分のともしびを整えた。
*ともしびを整えた…花婿がどのようなお方なのか、改めて考えて迎える準備をするということ。
マタイ25:8ーところが愚かな娘たちは、賢い娘たちに言った。『油を少し私たちに分けてください。私たちのともしびは消えそうです。』
*油を〜分けてください…聖霊を分け与えることはできません。
『愚かな娘たち』は福音を聞いても、知識として『知っていた』だけで、信仰がなかったのです。
マタイ25:9ーしかし、賢い娘たちは答えて言った。『いいえ、あなたがたに分けてあげるにはとうてい足りません。それよりも店に行って、自分のをお買いなさい。』
*分けてあげるにはとうてい足りません…他者の信仰によって救いに与ることはできません。救いはあくまでも、『神対個人の関係』においてです。
マタイ25:10ーそこで、買いに行くと、その間に花婿が来た。用意のできていた娘たちは、彼といっしょに婚礼の祝宴に行き、戸がしめられた。
*祝宴…『結婚式』でないことに注意!『披露宴』のことです。
つまり、患難時代前半に福音を聞き、信仰によって受け入れた人々は、キリストの地上再臨の時に『羊組』として、御国に入ることが許される人々です。
マタイ25:11ーそのあとで、ほかの娘たちも来て、『ご主人さま、ご主人さま。あけてください』と言った。
福音を聞いても、信仰によって受け入れることをせず、患難時代における目先の生活、その時代に社会情勢や多勢に流され、反キリストの獣の像を拝み、その額か手に『666』の刻印を押された『山羊組』の生存者たちのことです。
黙示録13:15~17ーそれから、その獣の像に息を吹き込んで、獣の像がもの言うことさえもできるようにし、また、その獣の像を拝まない者をみな殺させた。
また、小さい者にも、大きい者にも、富んでいる者にも、貧しい者にも、自由人にも、奴隷にも、すべての人々にその右の手かその額かに、刻印を受けさせた。
また、その刻印、すなわち、あの獣の名、またはその名の数字を持っている者以外は、だれも、買うことも、売ることもできないようにした。
患難時代中期に『666』の刻印を押された時点で、救いの機会を失うことになります。
異邦人の救いは、患難時代中期までとなり、後半(実際には、地上再臨前の最後の三日間)は、ユダヤ人の救いとなります。
マタイ25:12ーしかし、彼は答えて、『確かなところ、私はあなたがたを知りません』と言った。
*私はあなたがたを知りません…信仰のない者は、最終的に神の家族として認められず、神に拒絶されることになります。
1コリント8:3ーしかし、人が神を愛するなら、その人は神に知られているのです。
ガラテヤ4:9ーところが、今では神を知っているのに、いや、むしろ神に知られているのに、どうしてあの無力、無価値の幼稚な教えに逆戻りして、再び新たにその奴隷になろうとするのですか。
*無力、無価値な幼稚な教え…キリストが十字架をもって終わらせた『モーセの律法』。613ある律法のすべてを全うしたのは、人として来られたイエス様だけです。
十字架により、律法は『無効』となったので『無力、無価値』だとパウロは言っているのです。
また、律法の規定では、贖うことのできない『罪』がありましたが、神の小羊としてのキリストの血は、すべての罪を贖うことができます。
そのキリストを拒むことが、教会時代、患難時代の人間にとって一番の大きな『罪』なのです。
教会時代の信者である私たちは、携挙直後の『キリストの御座の裁き』において、信仰生活の決算報告をするのであって、キリストが私たちのすべての罪の身代わりとなってくださっているので、全員『無罪』がすでに決定しています。
『愚かな娘たち』に含まれることは、絶対にありません。
どの時代の人々が対象なのかをよく吟味して、余計な心配をすることなく、現在の信仰生活を喜びと感謝を持って全うすべきですね。
安心して、主とともに歩む人生を楽しめますように♬