マタイ24章は、そこだけを見るのではなく。少し後ろに下がって聖書の全体像の中で、いつのことについて書かれた預言なのかを見ていく必要がありました。
最後の45~51節は、まさに今私たちが生きている教会時代のことについての注意事項が記されています。
多くのクリスチャンは、『旧約時代』『新約時代』の二つだと思っています。
そこで「旧約時代とは?」と訊くと、ほとんどの場合「律法の時代」という答えが返ってきます。でもそうなると、モーセの律法が与えられる前をどう区別するのでしょう?
『時代』というのは始まりがあり、終わりがあります。
教会時代は、聖霊が信者に内住するようになった『ペンテコステ』から、聖霊の内住のある信者が天に挙げられる『携挙』までです。
時代分けと聞くと「ディスペンセーション主義者だ」と敬遠される方もおられますが、
聖書を紐解いていくと神様が結ばれた契約は八つあり、その契約に基づいて七つの時代区分があることがわかります。
それぞれの時代に与えられた命令に沿って、神が造られたこの世界の管理を託されているのが、私たち人間の使命です。
「キリストのしもべ』とは、キリストがお与えになった命令に従って、任された神の家を管理していく者として生きることを意味します。
そのことをイエスはたとえを用いて説明しています。
マタイ24:45ー主人から、その家のしもべたちを任されて、食事時には彼らに食事をきちんと与えるような忠実な賢いしもべとは、いったいだれでしょう。
*主人…キリスト・イエス
*その家のしもべたち…キリストの福音を信じる信者たち
*食事…霊的糧。みことばの解き明かし。みことばによる励まし、矯正、戒めなど。
*忠実な賢いしもべ…長老/監督/牧者たち、神の羊の群れを世話する者たち
マタイ24:46ー主人が帰って来たときに、そのようにしているのを見られるしもべは幸いです。
*主人が帰ってきたとき…携挙
*そのようにしている…忠実に神の羊の群れを養って世話をしている、の意。
*幸い…携挙直後に、教会時代の信者たちは『キリストの御座の裁き』に立ち、地上での信仰生活における報いが決まります。忠実なしもべは、報いが大きいから『幸い』なのです。
Ⅱコリント5:10ーなぜなら、私たちはみな、キリストのさばきの座に現れて、善であれ悪であれ、各自その肉体にあってした行為に応じて報いを受けることになるからです。
1コリント3:10~15ー与えられた神の恵みによって、私は賢い建築家のように、土台を据えました。そして、ほかの人がその上に家を建てています。しかし、どのように建てるかについてはそれぞれが注意しなければなりません。
というのは、だれも、すでに据えられている土台のほかに、ほかの物を据えることはできないからです。その土台とはイエス・キリストです。
もし、だれかがこの土台の上に、金、銀、宝石、木、草、わらなどで建てるなら、 各人の働きは明瞭になります。その日がそれを明らかにするのです。というのは、その日は火とともに現れ、この火がその力で各人の働きの真価をためすからです。
もしだれかの建てた建物が残れば、その人は報いを受けます。
もしだれかの建てた建物が焼ければ、その人は損害を受けますが、自分自身は、火の中をくぐるようにして助かります。
*自分自身は、火の中をくぐるようにして助かります…キリストの御座の裁きにおいて『有罪』になる信者はいません。全員『小羊のいのちの書』にその名が記されているので、すべての罪は十字架で赦されているからです。
マタイ24:47ーまことに、あなたがたに告げます。その主人は彼に自分の全財産を任せるようになります。
*自分の全財産…千年王国において、王の王として御座に着座されるキリストは、ご自分の『メシア的王国』の管理を忠実なしもべにお任せになるということ。
マタイ24:48ーところが、それが悪いしもべで、『主人はまだまだ帰るまい』と心の中で思い、
*悪いしもべ…パウロが救いに至らせる『最も大切な福音』として宣べ伝えたキリストの福音ではない、『ほかの福音』を受け入れて、ほかの福音を伝え、主人であるキリストの命令に従わない者。
マタイ24:49ーその仲間を打ちたたき、酒飲みたちと飲んだり食べたりし始めていると、
この世のことだけに関心を持ち、それを忠告する神のしもべたちを打ちたたき、肉の思いに従って生きている(自称)信者。『ほかの福音』を信じているからこそできること。
マタイ24:50ーそのしもべの主人は、思いがけない日の思わぬ時間に帰って来ます。
*思いがけない日の思わぬ時間…悪いしもべは、キリストのことばである聖書に立つ信仰ではないため、みことばを理解していない。だから、キリストのお迎えである携挙についても知識がなく、備えがない。
マタイ24:51ーそして、彼をきびしく罰して、その報いを偽善者たちと同じにするに違いありません。しもべはそこで泣いて歯ぎしりするのです。
*偽善者…表向きは敬虔な信者の振りをしていても、その心ではキリストの福音の三要素を信じていない者。つまり、不信者。
*報いを偽善者たちと同じにする…不信者である『偽善者たちと同じ報い』とは、携挙に与ることなく、レフトビハインドー地上に取り残され、七年間の患難時代を通過させられるーということ。
そのことをキリストは『ミナの譬え』を用いて話されています。
このように、みことばはみことばで確認しながら読む必要があります。本当に神が伝えようとしている真理であるなら、そこには矛盾はありません。
現在の教会時代の信者は御霊の内住により、携挙に与る『御国の証印』をいただいています。そして、御霊によって御国の働きのために『賜物』を与えられています。
その賜物を管理し、用いて、御国の働きをするしもべなのです。
その働きによって結んだ実は『御霊の実』として、キリストの御座の裁きの時の報酬となりますが、肉の行いによって結んだ実は、御国では何の役にも立たないので集めて燃やされるのです。それを教えているのが、『ぶどうの木の譬え』です。
あなたはどちらの実を結んでいますか?