サザエのお裾分け

聖書を字義通り&文脈に沿って学び、理解したことの中からのお裾分け。内容は鵜呑みにせず、必ずご自分で聖書を開いて確認してくださいね。聖書理解の助けになれば幸いです。† 栄光在主 †

ヘブル人への手紙 4章

『日曜日』のことを『安息日』だと思っている方がいますが、聖書では金曜日の日没〜土曜日の日没までを指します。

聖書では、『日曜日』のことを『週の初めの日』と記しています。

 

さて、その『安息』には三つの意味があります。

天地創造の安息…わざの完了の意味

信者は死ぬと地上生涯における働きを終え、この安息に入ります。

 

②カナンでの安息…敵との闘争を終え、約束の土地を所有し、土地の祝福を楽しむこと。

信者が神のみこころに従って生きることで得られる安息。

 

③安息の休み…霊的安息、または信仰による安息の人生の意味。

信者の地上生涯での霊的成熟による安息の獲得と将来の『メシア的王国/千年王国』での安息。

 

 

ヘブル4:1ーこういうわけで、神の安息に入るための約束はまだ残っているのですから、あなたがたのうちのひとりでも、万が一にもこれに入れないようなことのないように、私たちは恐れる心を持とうではありませんか。

 

*こういうわけですから…著者がヘブル3:17~19で語った、イスラエルのカナンの地へ入ることへの失敗を踏まえた上で、の意。

 

*神の安息ギリシャ語:『カタパウシン』、ヘブル書4章で『安息』と訳されている二つのギリシャ語の一つ。

この言葉は、ヘブル書の著者が使ったユニークなものであり、『活動の休止』という意味。つまり①『自分のわざを休止することで得られる安息』のこと。

 

もう一つのギリシャ語は『サバディモス』ヘブル4:9で『休み』と訳されている『安息』を指すことば。

 

*神の安息に入るための約束はまだ残っているのですから…ヘブル書の受取人/読者たちは、AD70年の裁きを前に、神が差し出している『安息』に入れなくなる可能性がありました。この書簡が書かれた時、ユダヤ人たちは迫害の中におり、信仰の試練を受けていました。その状況下で、神が彼らに得させたいと願っているすべてのものを、得られなくなる可能性があったのです。

 

ここでの『安息』の約束は成就しておらず、まだ取り去られてもおらず、この時それを願う者には与えられるものでした。

 

*私たちは恐れる心を持とうではありませんか…この時のユダヤ人たちは『神の安息』に与れなくなる危険性がありました。彼らには『神の安息』が差し出されていましたが、信仰を通してそこに入ることに失敗するかもしれなかったのです。

 

私たちも、誤った選択をすることによって、霊的悪影響を及ぼす危険性を察知したときは、『恐れる心を持つ』という態度をとるべきですね。

 

 

ヘブル4:2ー福音を説き聞かされていることは、私たちも彼らと同じなのです。ところが、その聞いたみことばも、彼らには益になりませんでした。みことばが、それを聞いた人たちに、信仰によって、結びつけられなかったからです。

 

*福音を説き聞かされていることは、私たちも彼らと同じ…著者は、読者たちも福音を聞いてたため、言い訳はできないと説明しています。

 

*彼ら民数記13~14章での出エジプトを体験した世代。

彼らは十二人の斥候たちから『約束の地』に関する情報を聞きました。(それが彼らにとっての『福音』でした。)

 

*その聞いたみことばも、彼らには益になりませんでした出エジプトの世代は、『約束の地』の報告を聞いた上で、誤った選択をしたのです。

 

*みことばが、それを聞いた人たちに、信仰によって、結びつけられなかったからです…著者は、類似する状況下の人々(ヘブル書の受取人/読者たち)について言及します。彼らは十二使徒たちから『福音』を聞いた人たちでした。

ここでの強調点は、救いに伴う霊的祝福を獲得するためには、信仰が不可欠だということ。

 

 

ヘブル4:3ー信じた私たちは安息に入るのです。

「わたしは、怒りをもって誓ったように、

決して彼らをわたしの安息に入らせない。」

と神が言われたとおりです。みわざは創世の初めから、もう終わっているのです。

 

*信じた私たち…『信じた』は過去形。『私たち』は著者と受取人/読者たち。

 

*安息に入るのです…『入る』は現在形。『私たちは、現在この霊的安息に入るという意味。

 

ヘブル4:11で著者は、最終的な『安息』が、将来起こることを指摘しています。

つまりそれは、『彼らは信じた。そして信じたため、天地創造の安息に入り始めた。しかし、完成は将来用意されている。』ということです。

 

この時のユダヤ人信者たちは、この『安息』が提供するものを味わうために、信仰を保ち続けなければならなかったのです。

 

*わたしの安息…神の天地創造での安息。神が味わう質的結果。

 

*わたしは、怒りをもって誓ったように、決して彼らをわたしの安息に入らせない95:11からの引用。

篇95:11ーそれゆえ、わたしは怒って誓った。

「確かに彼らは、わたしの安息に、入れない」と。

 

神が天地創造の時以来、安息に入っていたのに、荒野の世代はそこに入れませんでした。篇95篇で、神は詩篇の著者を通して、将来の安息(救いの安息)があることを宣言しています。

 神の安息は、天地創造の時から始まっていましたが、将来にも『安息』が備えられていました。

 

 

ヘブル4:4ーというのは、神は七日目について、ある個所で、「そして、神は、すべてのみわざを終えて七日目に休まれた」と言われました。

 

*そして、神は、すべてのみわざを終えて七日目に休まれた創世記2:2からの引用。

創世記2:2ー神は第七日目に、なさっていたわざの完成を告げられた。すなわち第七日目に、なさっていたすべてのわざを休まれた。

 

この『安息』は、『天地創造の安息』で、わざの完了を指します。これは既に備えられていました。

 

メシアのわざによって完了した『贖いによる安息』と同類の安息です。

 信者たちは、いつの日か地上でのわざを終えて天に帰るときに、この『天地創造の安息』を完全に味わうようになります。

 

 

ヘブル4:5ーそして、ここでは、「決して彼らをわたしの安息に入らせない」と言われたのです。

 

*決して彼らをわたしの安息に入らせない『救いの安息』の型。詩篇95:11の引用。

イスラエルが神の宣言によって、安息に入れなかったことを指します。

 

 

ヘブル4:6ーこういうわけで、その安息に入る人々がまだ残っており、前に福音を説き聞かされた人々は、不従順のゆえに入れなかったのですから、

 

*こういうわけで…ここから教訓からの適用が始まります。

 

その安息に入る人々がまだ残っており…神は、ご自分の計画を実行するために、他の日をさだめ、他の人々を定められました。

ダビデ詩篇95篇で、将来、この『安息』に入る希望を語っています。

 

*前に福音を説き聞かされた人々は、不従順のゆえに入れなかった…ある人々は、この『安息』に入るはずでしたが、結局入れませんでした。

 

この『安息』には、信仰によってのみ入れるからです。 

 イスラエルは、自らの不従順と不信仰によって、この『安息』に入ることができませんでした。しかし『神の安息』に入るという招きは、再び与えられました。

 

 

ヘブル4:7ー神は再びある日を「きょう」と定めて、長い年月の後に、前に言われたと同じように、ダビデを通して、

「きょう、もし御声を聞くならば、

あなたがたの心をかたくなにしてはならない。」

と語られたのです。

 

ダビデを通して詩篇95:7~8で、神はダビデを通して、再び信者たちにこの『安息』を差し出されました。(聖霊は、ダビデを用いてこの詩篇を書いた)

 

詩篇95:7~8ー主は私たちの神。

私たちは、その牧場の民、その御手の羊である。

きょう、もし御声を聞くなら、

メリバでのときのように、

荒野のマサでの日のように、

あなたがたの心をかたくなにしてはならない。

 

 

ヘブル書の著者は、受取人/読者たちに、『信仰による安息』に入るための霊的成熟を目指すように呼びかけています。

 

*きょう…受取人/読者たちは、早急に応答する必要がありました

それは与えられた機会は、具体的な時と場所で与えられるからです。

イスラエルは過去に、カデシュ・バルネアの時と場所で、この機会が与えられました。

ここでの受取人/読者たちであるユダヤ人信者たちにとって、AD70年が それに当たることになります。

 

*もし御声を聞くならば、あなたがたの心をかたくなにしてはならない…著者は、受取人/読者たちに、一度限り完全な決断をするように呼びかけています

彼らが誤った決断を回帰不能点に達する前に、霊的成熟を目指して歩もうという呼びかけです。

誤った選択をした場合、彼らは出エジプトをした荒野世代と同じ肉体的死を味わうことになるのです。

 

 

ヘブル4:8ーもしヨシュアが彼らに安息を与えたのであったら、神はそのあとで別の日のことを話されることはなかったでしょう。

 

*もしヨシュアが彼らに安息を与えたのであったらモーセの後を継いだヨシュアは、イスラエルの子らを『霊的成熟という安息』には導きませんでした。そのため、この時に『安息』が差し出されたのは、理にかなうことです。イスラエルの地は、神が民に約束した『安息』の地にははいらなかったのです。

 

ヨシュアイスラエルの民に、カナンの地で『敵からの安息』をもたらしただけでした。

ヨシュア記21:44ー主は、彼らの先祖たちに誓ったように、周囲の者から守って、彼らに安住を許された。すべての敵の中で、ひとりも彼らの前に立ちはだかる者はいなかった。主はすべての敵を彼らの手に渡された。

 

ヨシュア記22:4ー今すでに、あなたがたの神、主は、あなたがたの同胞に約束したように、彼らに安住を許された。今、主のしもべモーセがあなたがたに与えたヨルダン川の向こう側の所有地、あなたがたの天幕に引き返して行きなさい。

 

ヨシュア記23:1ー主が周囲のすべての敵から守って、イスラエルに安住を許されて後、多くの日がたち、ヨシュアは年を重ねて老人になっていた。

 

しかし、ヨシュアイスラエルの民に霊的成熟から来る主の安息を与えることはできませんでした。それは、メシアであるイエスによってのみ可能なことだからです。

 

 

ヘブル4:9ーしたがって、安息日の休みは、神の民のためにまだ残っているのです。

 

著者はここで、カナンの安住とは別に『安息の休み』について言及しています。 

 

*休み… ヘブル語4章で使われている二つ目の『安息』を指すギリシャ語の “サバディモス” 。新約聖書でここだけに使われている言葉です。

 

これは、神から与えられる『理想的な安息』です。

今日もこれは有効であり、ヘブル書の受取人/読者たちは、信仰によってこれを獲得することができたのです。

 

神の定めた人生の目的を、満足に全うするときに到達し得るものです。

神はご自身のわざを終え、安息の休みに入られました。『安息の休み』は、霊的成熟の型です。

 

第一義的には、この『休み』は出エジプト記20:8~11で、イスラエルの民に与えられました。

出エジプト記20:8~11安息日を覚えて、これを聖なる日とせよ。

六日間、働いて、あなたのすべての仕事をしなければならない。

しかし七日目は、あなたの神、の安息である。あなたはどんな仕事もしてはならない。――あなたも、あなたの息子、娘、それにあなたの男奴隷や女奴隷、家畜、また、あなたの町囲みの中にいる在留異国人も――

それはが六日のうちに、天と地と海、またそれらの中にいるすべてのものを造り、七日目に休まれたからである。それゆえ、主は安息日を祝福し、これを聖なるものと宣言された。

 

しかし、象徴的には、この休みはユダヤ人と異邦人の信者に対して適用されます。

信者は、信仰に留まるならば、日々霊的生活においてもがくことを止めていき、霊的成熟をしていきます。

 

 

ヘブル4:10ー神の安息に入った者ならば、神がご自分のわざを終えて休まれたように、自分のわざを終えて休んだはずです。

 

この『安息』はすでに、これに入った者たちのための『天地創造の安息』です。

その人は、神がわざを終えて休まれたように、自分の肉のわざに頼ることを止めて、信仰によって神が状況を乗り越えさせてくださることに信頼します。

 

*神の安息に入った者ならば…『安息に入った』は過去形。既に信仰によって獲得された過去の霊的安息。

 

『霊的安息』は、神が差し出された安息(救い)に正しく応答することで得られるものです。この『安息』を得るためには、信者たちは、過去も現在も未来も神を信頼しなければならないのです。

過去の側面:救いについて。キリストの福音を信じること。1コリント15:3~4

現在の側面:霊的成熟について。みことばに従う信仰による歩み。

将来の側面:天の御国、または『メシア的王国/千年王国』について。

 

この『安息』の強調点は、将来にあります。

イスラエルにとって、将来の安息の側面は『メシア的王国/千年王国』、個人の信者にとっては『天の御国』です。

 

ユダヤ人信者たちは、過去の側面は経験済みでした。十二使徒たちの伝道により、福音を聞き信じた人々でした。

彼らはまた、将来の側面に対する希望も持っていました。

 

ここでの文脈では、現在の側面での安息が強調されています。

彼らは、現在の信仰の安息である『霊的成熟』について学ぶ必要があったのです。

信仰によって成熟することで、霊的葛藤から解放されることが可能になります。

そうすれば、彼らはもはやユダヤ教に回帰し、教えの風に振り回されるような衝動にかられることはなくなるはずでした。

 

信仰が幼い時は、「クリスチャンになんかならない方が楽だった」と思うことがあります。しかし、神は霊的に成熟し、神が用意され差し出しておられる『現在の安息』に、すべてのクリスチャンが入ることを望んでおられます。

教えの風に振り回されないようにするためには、何を、誰から聞いても、必ず『みことばで確認すること』です。

 

 

ヘブル4:11ーですから、私たちは、この安息に入るよう力を尽くして努め、あの不従順の例にならって落後する者が、ひとりもいないようにしようではありませんか。

 

*ですからヘブル書4:1~10を学び、理解した上で、の意。

 

〜三つの意味の『安息』〜

天地創造の安息…信者は死ぬと地上生涯における働きを終え、この安息に入る。

②カナンでの安息…信者が神のみこころに従って生きることで得られる安息。

③安息の休み…霊的安息、または信仰による安息の人生の意味で、最終的には千年王国にて成就。

 

*私たちは、この安息に入るよう力を尽くして努め…霊的成熟を目指して進もうという勧め

 

*力を尽くして努め…強い求めと緊急性が伺えることば。

ここで著者は、将来の栄光についてではなく、『現在』について強調しています。

安息日の休みは、霊的成熟の休みであり、ヘブル書の受取人/読者たちは『この休みに入るよう尽くして努める』必要があったのです。

 

*あの不従順の例にならって落後する者…著者は『落後する』危険性を踏まえて、受取人/読者たちに『あの不従順の例にならう者』が出ないようにと警告しています。

 

*あの不従順の例民数記13~14章のカデシュ・バルネアでの不従順の歴史的出来事のこと。このときの人々は、荒野で肉体的死を招きました。『落後する者』は、迫り来るAD70年の裁きで、同様の結果に苦しむことになるのです。一度福音を信じた彼らは、たましいの救いを失うことはありませんが、肉体の死を免れることはできなくなる危険性がありました。

 

 

ヘブル4:12ー神のことばは生きていて、力があり、両刃の剣よりも鋭く、たましいと霊、関節と骨髄の分かれ目さえも刺し通し、心のいろいろな考えやはかりごとを判別することができます。

 

新共同訳では、この聖句の最初に『というのは』と、霊的成熟を目指すべき理由としての説明があります。

不信仰が見過ごされることはありません。それは、神のみことばによって明らかにされます。

 

*神のことばは生きていて…肉体の死に打ち勝ち、復活されたキリストは今も生きて働かれています。神のことばは生きているため、いつの日か、それは私たちを神の御前に引き出します。

 

著者は『神のことば』を五つのことばで表現しています。

①生きていて…聖書のみことばは、生ける神から来ます。神の本質から来るものです。

神のことばは、霊的に死んだ罪人を生かすことができるのです。

 

肉体の死に打ち勝ち、復活されたキリストは今も生きて働かれています。

ヨハネ1:1ー初めに、ことばがあった。ことばは神とともにあった。ことばは神であった。

ヨハネ1:14ーことばは人となって、私たちの間に住まわれた。私たちはこの方の栄光を見た。父のみもとから来られたひとり子としての栄光である。この方は恵みとまことに満ちておられた。

 

②力がありギリシャ語直訳:働いている、の意。

神のことばは、力強く人を変えることができる。

 

コロサイ1:29ーこのために、私もまた、自分のうちに力強く働くキリストの力によって、労苦しながら奮闘しています。

 

③鋭く…最も鋭い『両刃の剣』よりも鋭い、の意。

神のことばは、頻繁に『剣』と表現されています。

 

エペソ6:17ー救いのかぶとをかぶり、また御霊の与える剣である、神のことばを受け取りなさい。

*御霊の与える剣…新共同訳:『霊の剣』。

 

④刺し通し…あまりの『鋭さ』のため、『たましいと霊』の合間さえ刺し通す。

*たましいと霊…聖書では繰り返し交互に使われる表現。この二つは、人間の内側に存在する分離不可能なものであり、人間の二面性を表現しています。

神のことばは、信者のたましいと霊をも刺し通し、侵入し、判別することができます。

 

*たましいと霊人間の内面の二面性を表す。

*関節と骨髄人間の物質面での二面性を表す。

 

⑤判別する…識別と判断、の意。英語:“critics” -批判、批評家、の語源。

みことばは『心のいろいろな考えやはかりごとを判別』できる批評家、の意。

 

*考え…人の考えている内容。

*はかりごと…なぜ、人が考えているか、の意。

神のことばは、この二つを判別することができます。

神のことばは、これら全てであり、信者たちは霊的成熟を目指して、力を尽くして努める必要がありました。

 

 

ヘブル4:13ー造られたもので、神の前で隠れおおせるものは何一つなく、神の目には、すべてが裸であり、さらけ出されています。私たちはこの神に対して弁明をするのです。

 

13節は、著者による結論です。

被造物で神の目にさらけ出されていないものはなく、最後には、すべての罪が主によって探しだされ、私たちはこの神に対して弁明をすることになります。

 

信者であれば『キリストの御座の裁き』で、不信者であれば『白い大いなる御座の裁き』で行われます。

 

ヘブル書3:7~4:13までは、『不従順に対する警告』でした。

4:14から著者は、ユダヤ教の三本柱〜モーセ・律法・レビ的祭儀制度〜の一つ『レビ的祭司制度』について、以下の五つの点で御子イエスと比較し、エスの祭司職の方がレビ的祭司職より優れていることを立証しています。

 

①イエスは、より優れた地位にある。

②イエスは、より優れた祭司である。

③新しい祭司制度は、より優れた契約に基づいている。

④新しい祭司制度は、より優れた聖所において機能する。

⑤新しい祭司制度は、より優れたいけにえによって成り立っている。 

 

 

ヘブル4:14ーさて、私たちのためには、もろもろの天を通られた偉大な大祭司である神の子イエスがおられるのですから、私たちの信仰の告白を堅く保とうではありませんか。

 

*おられるギリシャ語:継続的な利点であることを強調

 

モーセの律法』に基づくアロンのような大祭司は、年に一度『贖罪の日』に至聖所に入り、勤めを終えるとそこから出て来ました。再び、至聖所に入るのは翌年の『贖罪の日』でした。しかし、イエスは違います。

エスは『天の聖所』におられる大祭司として、信者たちはいつでもアクセス可能なのです。

 

*もろもろの天…聖書には、三段階の『天』が記されている。

第一の天:鳥が飛ぶ高さ/人間が呼吸する空間

第二の天:天体の高さ

第三の天:神の御座のあるところ


エスは、第一の天、第二の天を通り、第三の天に入ってそこにとどまっておられます。地上の大祭司は、年に一度『至聖所』に入る時に、①入口の幕、②聖所と至聖所の間の幕と通ったのと対比されています。

 

人の手幅ほどの厚みのある『聖所と至聖所の間の幕』が、イエスの十字架の死と共に上から裂けました。それにより、信者はいつでもまことの聖所に入られた大祭司なるキリスト・イエスにアクセスすることができるようになったのです。

 

*通られたギリシャ語:完了形であり、第一と第二の天を通られたイエスが、今も『第三の天』におられることを強調しています。

 

律法によれば、地上の大祭司の家系は『レビ族のアロンの家系』と決められていました。レビ族以外の出の者が、祭司になることはありませんでした。

また、イスラエルの王はユダ族から出ることが預言されています。

たとえ王であっても、祭司の務めをすることは禁じられていましたから、ユダ族のダビデの子孫として誕生したイエスも、地上で『大祭司』になることはありませんせんでした。


 

エスの『大祭司としての務めは、地上ではなく更に優れた『天の聖所』においてです。

そのため、イエスはご自分に属する者たちを直接、神のみもとに連れて行くことができるのです。

 

*神の子イエス…『イエス』という名前は、神の御子が『人』として来られたときの『人間の名前』であり、人間性に強調点があります。

無限の神の御子が、有限の『人』として来てくださったので、人間イエスは私たち人間に同情できるお方です。

 

しかし『神の子』という言葉は、イエスの『神性』を強調しています。

著者は『神の子イエス』と記すことにより、エスが地上の大祭司たちが持ち得なかった力を持っていることを示しています。

 

*私たちの信仰の告白を堅く保とうではありませんか…教訓からの適用。

 

*信仰の告白…その内容は、『イエスがメシアである』ということ。

ヘブル書の受取人/読者たちは、一度はパリサイ人たちの指導により、イエスのメシアとしてのしるしを『悪霊のかしらベルゼブルの力によるもの』と信じ、十字架にかけることに賛成した世代でした。

 

ですから、彼らにとっての『悔い改め/信仰告白』は、ベルゼブルだと思っていたイエスは、実は待望のメシアだった』と考えを変えることでした。

それが彼らの信仰告白であり、ユダヤ教からの決別を意味する『キリストの名によるバプテスマ』を受けた人たちでした。

 

使徒2:38ーそこでペテロは彼らに答えた。「悔い改めなさい。そして、それぞれ罪を赦していただくために、イエス・キリストの名によってバプテスマを受けなさい。そうすれば、*賜物として聖霊を受けるでしょう。(*正訳聖霊の賜物を受けるでしょう。

 

聖霊は『賜物』ではなく、『賜物をくださる第三位格の神』です。

1コリント12:4ーさて、賜物にはいろいろの種類がありますが、御霊は同じ御霊です。

 

 

ヘブル3:1ーそういうわけですから、天の召しにあずかっている聖なる兄弟たち。

私たちの告白する信仰の使徒であり、大祭司であるイエスのことを考えなさい。

 

著者は、その『信仰の告白』を堅く保とうと呼びかけています。

*堅く保つギリシャ語:すでに結び付いている何かにしがみつく、の意

 

 

ヘブル4:15ー私たちの大祭司は、私たちの弱さに同情できない方ではありません。罪は犯されませんでしたが、すべての点で、私たちと同じように、試みに会われたのです。

 

*私たちの大祭司は、私たちの弱さに同情できない方ではありませんユダヤ人信者たちが、信仰告白を堅く保つべき理由。

 

 *私たち…ヘブル書の著者と受取人、の意。

彼らの大祭司は、通常の大祭司とは異なります。

エスは個人的にも公にも、ユダヤ人たちが苦しむ試練に同じように苦しまれました。

 

*同情ギリシャ語:共に苦しむ、の意。

エスご自身、試練に苦しまれたので、同じ試練にあう者たちに『二つの理由で同情できる』のです。

 

⑴ イエスは、私たちの弱さを体験的にご存知です。

エスは、人として空腹、疲れ、飢え渇きなどすべての制限に苦しまれました。

社会的、霊的、経済的問題が起きると、イエスはそれがどのようなものなのかを理解されています。

エスは『大工の子』として育ちましたから、大工としての指導も受けたので、指を切って血を流せば、それがどのくらいの痛みを伴うのかをご存知なのです。

 

⑵ イエスは『すべての点で〜試みに会われました』

エスは『人』であった時に試練を受けたので、同じ試練に会う兄弟たちを同情することができます。ただし、イエスは『罪を犯すことはありませんでした』。

エスは、『罪』とは無縁の方です。

 

*すべての点で…すべての分野で、の意。その『分野』とは、『肉の欲、目の欲、暮らし向きの自慢』のこと。

ヨハネ2:16ーすべての世にあるもの、すなわち、肉の欲、目の欲、暮らし向きの自慢などは、御父から出たものではなく、この世から出たものだからです。

 

 

あらゆる種類の試練は、この三つのどれかに当てはまります。

マタイ4章でイエスが会われたサタンからの試練も、これに該当します。

  

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 ①肉の欲「あなたが神の子なら、この石がパンになるように、命じなさい。」- 4:3

40日間の断食を終え、肉体的に飢えていたイエスに対する試練。

*あなたが神の子なら…サタンは、イエスが神の御子だと知っていた。

石をパンに変えるという『メシア的力』を自己満足のために使わせることにより、罪を犯させ、メシアとして失脚させようとしました。

エスは全世界の人々のための『メシア』であるので、自己満足のためにメシア的力を使うことは、御父のみこころではありませんでした。イエス「『人はパンだけで生きるのではなく、神の口から出る一つ一つのことばによる』と書いてある。」申命記8:3のみことばを引用して、試練に打ち勝ちました。

 

②目の欲「もしひれ伏して私を拝むなら、これを全部あなたに差し上げましょう。」- 4:9

 *ひれ伏して私を拝むなら…サタンはたった一度でもイエスが自分を拝めば、すべての国々の対する権威を与えると誘惑しました。

 

エスが世界の国々を支配することは、御父のみこころでした。しかし、それは十字架を通してのみ得られるものでした。(最終的な成就は、千年王国でとなります。)

 

③暮らし向きの自慢「あなたが神の子なら、下に身を投げてみなさい。『神は御使いたちに命じて、その手にあなたをささえさせ、あなたの足が石に打ち当たることのないようにされる』と書いてありますから。」- 4:6

 

サタンはイエスに向かって、『自分が主張している者(メシア)』であることを証明するように挑戦しました。マラキ書に、メシアは突然その神殿に現れるという預言が、サタンの誘惑の背景にあるからです。

マラキ3:1「見よ。わたしは、わたしの使者を遣わす。

彼はわたしの前に道を整える。

あなたがたが尋ね求めている主が、

突然、その神殿に来る。

あなたがたが望んでいる契約の使者が、

見よ、来ている。」と万軍のは仰せられる。

 

エスは、私たち信者が経験するこれら三つの分野の『すべての点で試みに会われた』のです。そのため、イエスは試練に会うことがどのようなものかを理解されており、憐れみ深い『大祭司』として、天でとりなしていてくださるのです。

 

 

ヘブル4:16ーですから、私たちは、あわれみを受け、また恵みをいただいて、おりにかなった助けを受けるために、大胆に恵みの御座に近づこうではありませんか。

 

*ですから…直前に学んだことの適用。 

 ヘブル書の受取人/読者たちには、第三の天に大祭司がおられます。そのお方は、人となって来てくださり、人間の肉の弱さや試練を体験され、理解されている憐れみ深い大祭司ですから、そのお方に寄り頼むべきでした。

 

*近づこうではありませんかギリシャ語の時制は、現在形。継続する動作を意味する『近づき続けよう』の意。

 

*大胆に…信者は、この大祭司に自由に語りかけ、必要を申し出ることができます。

 

*あわれみを受け、また恵みをいただいて、おりにかなった助けを受けるため… 信者が、この『大祭司』に近づく目的。恵みの活用。

 

ヘブル書の受取人/読者たちが通過していた苦難と迫害への解決策は、ユダヤ教への回帰ではなく、彼らの大祭司であるイエスを大胆に最大利用することでした。

信者にとって、霊的生活で躓く時、それは恵みが不十分なのではなく、与えられている恵みを十分に認識できていないことが原因なのです。 

 

私たちも与えられた恵みを十分に認識し、大胆に大祭司であられるイエスに近づくことができますように。