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サザエのお裾分け

聖書を字義通り&文脈に沿って学び、理解したことの中からのお裾分け。内容は鵜呑みにせず、必ずご自分で聖書を開いて確認してくださいね。聖書理解の助けになれば幸いです。† 栄光在主 †

ヘブル人への手紙4:1~10 〜第二の警告:信仰の安息についての議論〜

『日曜日』のことを『安息日』だと思っている方がいますが、聖書では金曜日の日没〜土曜日の日没までを指します。

聖書では、『日曜日』のことを『週の初めの日』と記しています。

 

さて、その『安息』には三つの意味があります。

天地創造の安息…わざの完了の意味。

信者は死ぬと地上生涯における働きを終え、この安息に入ります。

②カナンでの安息…敵との闘争を終え、約束の土地を所有し、土地の祝福を楽しむこと。

信者が神のみこころに従って生きることで得られる安息。

③安息の休み…霊的安息、または信仰による安息の人生の意味。

信者の地上生涯での霊的成熟による安息の獲得と将来の『メシア的王国/千年王国』での安息。

 

 

ヘブル4:1ーこういうわけで、神の安息に入るための約束はまだ残っているのですから、あなたがたのうちのひとりでも、万が一にもこれに入れないようなことのないように、私たちは恐れる心を持とうではありませんか。

 

*こういうわけですから…著者がヘブル3:17~19で語った、イスラエルのカナンの地へ入ることへの失敗を踏まえた上で、の意。

 

*神の安息ギリシャ語:『カタパウシン』、ヘブル書4章で『安息』と訳されている二つのギリシャ語の一つ。

この言葉は、ヘブル書の著者が使ったユニークなものであり、『活動の休止』という意味。つまり①『自分のわざを休止することで得られる安息』のこと。

 

もう一つのギリシャ語は『サバディモス』ヘブル4:9で『休み』と訳されている『安息』を指すことば。

 

*神の安息に入るための約束はまだ残っているのですから…ヘブル書の受取人/読者たちは、AD70年の裁きを前に、神が差し出している『安息』に入れなくなる可能性がありました。この書簡が書かれた時、ユダヤ人たちは迫害の中におり、信仰の試練を受けていました。その状況下で、神が彼らに得させたいと願っているすべてのものを、得られなくなる可能性があったのです。

 

ここでの『安息』の約束は成就しておらず、まだ取り去られてもおらず、この時それを願う者には与えられるものでした。

 

*私たちは恐れる心を持とうではありませんか…この時のユダヤ人たちは『神の安息』に与れなくなる危険性がありました。彼らには『神の安息』が差し出されていましたが、信仰を通してそこに入ることに失敗するかもしれなかったのです。

 

私たちも、誤った選択をすることによって、霊的悪影響を及ぼす危険性を察知したときは、『恐れる心を持つ』という態度をとるべきですね。

 

 

ヘブル4:2ー福音を説き聞かされていることは、私たちも彼らと同じなのです。ところが、その聞いたみことばも、彼らには益になりませんでした。みことばが、それを聞いた人たちに、信仰によって、結びつけられなかったからです。

 

*福音を説き聞かされていることは、私たちも彼らと同じ…著者は、読者たちも福音を聞いてたため、言い訳はできないと説明しています。

 

*彼ら民数記13~14章での出エジプトを体験した世代。

彼らは十二人の斥候たちから『約束の地』に関する情報を聞きました。(それが彼らにとっての『福音』でした。)

 

*その聞いたみことばも、彼らには益になりませんでした出エジプトの世代は、『約束の地』の報告を聞いた上で、誤った選択をしたのです。

 

*みことばが、それを聞いた人たちに、信仰によって、結びつけられなかったからです…著者は、類似する状況下の人々(ヘブル書の受取人/読者たち)について言及します。彼らは十二使徒たちから『福音』を聞いた人たちでした。

ここでの強調点は、救いに伴う霊的祝福を獲得するためには、信仰が不可欠だということ。

 

 

ヘブル4:3ー信じた私たちは安息に入るのです。

「わたしは、怒りをもって誓ったように、

決して彼らをわたしの安息に入らせない。」

と神が言われたとおりです。みわざは創世の初めから、もう終わっているのです。

 

*信じた私たち…『信じた』は過去形。『私たち』は著者と受取人/読者たち。

 

*安息に入るのです…『入る』は現在形。『私たちは、現在この霊的安息に入るという意味。

 

ヘブル4:11で著者は、最終的な『安息』が、将来起こることを指摘しています。

つまりそれは、『彼らは信じた。そして信じたため、天地創造の安息に入り始めた。しかし、完成は将来用意されている。』ということです。

 

この時のユダヤ人信者たちは、この『安息』が提供するものを味わうために、信仰を保ち続けなければならなかったのです。

 

*わたしの安息…神の天地創造での安息。神が味わう質的結果。

 

*わたしは、怒りをもって誓ったように、決して彼らをわたしの安息に入らせない詩篇95:11からの引用。

詩篇95:11ーそれゆえ、わたしは怒って誓った。

「確かに彼らは、わたしの安息に、入れない」と。

 

神が天地創造の時以来、安息に入っていたのに、荒野の世代はそこに入れませんでした。詩篇95篇で、神は詩篇の著者を通して、将来の安息(救いの安息)があることを宣言しています。

 神の安息は、天地創造の時から始まっていましたが、将来にも『安息』が備えられていました。

 

 

ヘブル4:4ーというのは、神は七日目について、ある個所で、「そして、神は、すべてのみわざを終えて七日目に休まれた」と言われました。

 

*そして、神は、すべてのみわざを終えて七日目に休まれた創世記2:2からの引用。

創世記2:2ー神は第七日目に、なさっていたわざの完成を告げられた。すなわち第七日目に、なさっていたすべてのわざを休まれた。

 

この『安息』は、『天地創造の安息』で、わざの完了を指します。これは既に備えられていました。

 

メシアのわざによって完了した『贖いによる安息』と同類の安息です。

 信者たちは、いつの日か地上でのわざを終えて天に帰るときに、この『天地創造の安息』を完全に味わうようになります。

 

 

ヘブル4:5ーそして、ここでは、「決して彼らをわたしの安息に入らせない」と言われたのです。

 

*決して彼らをわたしの安息に入らせない『救いの安息』の型。詩篇95:11の引用。

イスラエルが神の宣言によって、安息に入れなかったことを指します。

osusowake.hatenablog.com

 

 

ヘブル4:6ーこういうわけで、その安息に入る人々がまだ残っており、前に福音を説き聞かされた人々は、不従順のゆえに入れなかったのですから、

 

*こういうわけで…ここから教訓からの適用が始まります。

 

その安息に入る人々がまだ残っており…神は、ご自分の計画を実行するために、他の日をさだめ、他の人々を定められました。

ダビデは詩篇95篇で、将来、この『安息』に入る希望を語っています。

 

*前に福音を説き聞かされた人々は、不従順のゆえに入れなかった…ある人々は、この『安息』に入るはずでしたが、結局入れませんでした。

 

この『安息』には、信仰によってのみ入れるからです。 

 イスラエルは、自らの不従順と不信仰によって、この『安息』に入ることができませんでした。しかし『神の安息』に入るという招きは、再び与えられました。

 

 

ヘブル4:7ー神は再びある日を「きょう」と定めて、長い年月の後に、前に言われたと同じように、ダビデを通して、

「きょう、もし御声を聞くならば、

あなたがたの心をかたくなにしてはならない。」

と語られたのです。

 

*ダビデを通して詩篇95:7~8で、神はダビデを通して、再び信者たちにこの『安息』を差し出されました。(聖霊は、ダビデを用いてこの詩篇を書いた)

 

詩篇95:7~8ー主は私たちの神。

私たちは、その牧場の民、その御手の羊である。

きょう、もし御声を聞くなら、

メリバでのときのように、

荒野のマサでの日のように、

あなたがたの心をかたくなにしてはならない。

 

osusowake.hatenablog.com

 

ヘブル書の著者は、受取人/読者たちに、『信仰による安息』に入るための霊的成熟を目指すように呼びかけています。

 

*きょう…受取人/読者たちは、早急に応答する必要がありました

それは与えられた機会は、具体的な時と場所で与えられるからです。

イスラエルは過去に、カデシュ・バルネアの時と場所で、この機会が与えられました。

ここでの受取人/読者たちであるユダヤ人信者たちにとって、AD70年が それに当たることになります。

 

*もし御声を聞くならば、あなたがたの心をかたくなにしてはならない…著者は、受取人/読者たちに、一度限り完全な決断をするように呼びかけています

彼らが誤った決断を回帰不能点に達する前に、霊的成熟を目指して歩もうという呼びかけです。

誤った選択をした場合、彼らは出エジプトをした荒野世代と同じ肉体的死を味わうことになるのです。

 

 

ヘブル4:8ーもしヨシュアが彼らに安息を与えたのであったら、神はそのあとで別の日のことを話されることはなかったでしょう。

 

*もしヨシュアが彼らに安息を与えたのであったらモーセの後を継いだヨシュアは、イスラエルの子らを『霊的成熟という安息』には導きませんでした。そのため、この時に『安息』が差し出されたのは、理にかなうことですイスラエルの地は、神が民に約束した『安息』の地にははいらなかったのです。

 

ヨシュアイスラエルの民に、カナンの地で『敵からの安息』をもたらしただけでした。

ヨシュア記21:44ー主は、彼らの先祖たちに誓ったように、周囲の者から守って、彼らに安住を許された。すべての敵の中で、ひとりも彼らの前に立ちはだかる者はいなかった。主はすべての敵を彼らの手に渡された。

 

ヨシュア記22:4ー今すでに、あなたがたの神、主は、あなたがたの同胞に約束したように、彼らに安住を許された。今、主のしもべモーセがあなたがたに与えたヨルダン川の向こう側の所有地、あなたがたの天幕に引き返して行きなさい。

 

ヨシュア記23:1ー主が周囲のすべての敵から守って、イスラエルに安住を許されて後、多くの日がたち、ヨシュアは年を重ねて老人になっていた。

 

しかし、ヨシュアイスラエルの民に霊的成熟から来る主の安息を与えることはできませんでした。それは、メシアであるイエスによってのみ可能なことだからです。

 

 

ヘブル4:9ーしたがって、安息日の休みは、神の民のためにまだ残っているのです。

 

著者はここで、カナンの安住とは別に『安息の休み』について言及しています。 

 

*休み… ヘブル語4章で使われている二つ目の『安息』を指すギリシャ語の “サバディモス” 。新約聖書でここだけに使われている言葉です。

 

これは、神から与えられる『理想的な安息』です。

今日もこれは有効であり、ヘブル書の受取人/読者たちは、信仰によってこれを獲得することができたのです。

 

神の定めた人生の目的を、満足に全うするときに到達し得るものです。

神はご自身のわざを終え、安息の休みに入られました。『安息の休み』は、霊的成熟の型です。

 

第一義的には、この『休み』は出エジプト記20:8~11で、イスラエルの民に与えられました。

出エジプト記20:8~11安息日を覚えて、これを聖なる日とせよ。

六日間、働いて、あなたのすべての仕事をしなければならない。

しかし七日目は、あなたの神、の安息である。あなたはどんな仕事もしてはならない。――あなたも、あなたの息子、娘、それにあなたの男奴隷や女奴隷、家畜、また、あなたの町囲みの中にいる在留異国人も――

それはが六日のうちに、天と地と海、またそれらの中にいるすべてのものを造り、七日目に休まれたからである。それゆえ、主は安息日を祝福し、これを聖なるものと宣言された。

 

しかし、象徴的には、この休みはユダヤ人と異邦人の信者に対して適用されます。

信者は、信仰に留まるならば、日々霊的生活においてもがくことを止めていき、霊的成熟をしていきます。

 

 

ヘブル4:10ー神の安息に入った者ならば、神がご自分のわざを終えて休まれたように、自分のわざを終えて休んだはずです。

 

この『安息』はすでに、これに入った者たちのための『天地創造の安息』です。

その人は、神がわざを終えて休まれたように、自分の肉のわざに頼ることを止めて、信仰によって神が状況を乗り越えさせてくださることに信頼します。

 

*神の安息に入った者ならば…『安息に入った』は過去形。既に信仰によって獲得された過去の霊的安息。

 

『霊的安息』は、神が差し出された安息(救い)に正しく応答することで得られるものです。この『安息』を得るためには、信者たちは、過去も現在も未来も神を信頼しなければならないのです。

過去の側面:救いについて。キリストの福音を信じること。1コリント15:3~4

現在の側面:霊的成熟について。みことばに従う信仰による歩み。

将来の側面:天の御国、または『メシア的王国/千年王国』について。

 

この『安息』の強調点は、将来にあります。

イスラエルにとって、将来の安息の側面は『メシア的王国/千年王国』、個人の信者にとっては『天の御国』です。

 

ユダヤ人信者たちは、過去の側面は経験済みでした。十二使徒たちの伝道により、福音を聞き信じた人々でした。

彼らはまた、将来の側面に対する希望も持っていました。

 

ここでの文脈では、現在の側面での安息が強調されています。

彼らは、現在の信仰の安息である『霊的成熟』について学ぶ必要があったのです。

信仰によって成熟することで、霊的葛藤から解放されることが可能になります。

そうすれば、彼らはもはやユダヤ教に回帰し、教えの風に振り回されるような衝動にかられることはなくなるはずでした。

 

信仰が幼い時は、「クリスチャンになんかならない方が楽だった」と思うことがあります。しかし、神は霊的に成熟し、神が用意され差し出しておられる『現在の安息』に、すべてのクリスチャンが入ることを望んでおられます。

教えの風に振り回されないようにするためには、何を、誰から聞いても、必ず『みことばで確認すること』です。

ヘブル書の学びからそのことに気づき、信仰に留まり、霊的に成熟した信仰へと成長されますように。

 

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