ヘブル10:19からはこの書簡の第二部となります。
ここまでは、迫害に苦しむ中でキリスト教からユダヤ教に回帰しようとしていたヘブル書の受取人たちに、ユダヤ教の三本柱=『御使い・モーセ・レビ系祭司制度』という神学上の事柄について、御子との対比を語って説得してきました。
ここからはこれまでに語られた神学に基づき、信者の歩みにおける御子の実践的適用について語っています。
〜四つの勧告の二つの根拠〜
①19~20節…神への無料アクセス
②21節…大祭司イエスの偉大さ
ヘブル10:19ーこういうわけですから、兄弟たち。私たちは、イエスの血によって、大胆にまことの聖所に入ることができるのです。
*こういうわけですから…ヘブル書1:1~10:18で著者が述べた神学的内容と『受取人たちが、神のご臨在の中に入るという事実』を考慮して、19節の冒頭で用いられていることば。
この節はすべての神学的内容を記したヘブル1:1~10:18を要約しています。
受取人たちは『まことの聖所』の入場権を得たのだから、その使用法を学ぶ必要があるということ。
*兄弟たち…受取人たちが『信者』であることを示す呼びかけ。
彼らは信者であるがゆえに、地上の聖所ではなく『天にあるまことの聖所に入ることができる』のです。
それは、メルキゼデクの位の大祭司であるイエスを通して、天の至聖所へのアクセスという特権を持っているという事実に基づいています。
言い換えると、信者は今日、旧約聖書の大祭司と同じ特権に与るというユニークな次元の中に置かれているということです。
*大胆に…受取人/読者たちは天にあるまことの至聖所へのアクセスを持っているだけでなく、『大胆さ』をも持っています。
へブル10:20ーイエスはご自分の肉体という垂れ幕を通して、私たちのためにこの新しい生ける道を設けてくださったのです。
*肉体…ギリシャ語原本では、ここだけに使われていることば。
『年をとることのできない肉体』のこと。
*新しい…『肉体を殺害された』もしくは『肉体が屠られた』という意味のことば。
ギリシャ語原本では、ここだけに使われていることば。
*道…『ご自分の肉体という私たち信者のための道』
①新しい契約に基づく『新しい道』だということ。
受取人たちは、より優れた血によるこの『道』から入ったので、『新しい道』を受け入れたということ。
②それは『生ける道』であり、生きているお方との生きた関係だということ。
これが、イエスがいけにえとしてご自分の血を注ぎ出したことによる『ご自分の肉体という垂れ幕を通した』新しい『道』です。
イエスご自身の肉体の死は、霊的な死を克服して『いのち』をもたらしました。
私たち信者は、イエスの肉体という垂れ幕を通して神に近づくのです。
イエスの肉体は幕のようであり、その幕が引き裂かれました。
イエスが生きている間、イエスのからだは幕が隔ての役割をしていたように、イエスに対する『隔ての壁』として用いられていました。イエスが死んだ時、幕である肉体が裂かれ、受取人たちが神に近づくことができるようになりました。
へブル10:21ーまた、私たちには、神の家をつかさどる、この偉大な祭司があります。
勧告に対する二つ目の根拠は、21節で述べられているこの大祭司の偉大さです。
メルキゼデクの位の大祭司は、地上の家ではなく、天にある神の家をつかさどる大祭司です。 天の家はすべて良いものです。
ヘブル10:22ーそのようなわけで、私たちは、心に血の注ぎを受けて邪悪な良心をきよめられ、からだをきよい水で洗われたのですから、全き信仰をもって、真心から神に近づこうではありませんか。
【四つの勧告】~ヘブル10:19~39 ~
①信頼への勧告:神に近づこうではありませんか
*近づこうではありませんか…『神を礼拝する』という意味における宗教的儀式用語。
ギリシャ語の現在進行形の命令形であり、緊急性、義務であることを意味。
信者は神に近づき続けなくてはなりません。
礼拝において、神に近づく方法の二つの要素
A)真心から神に近づく…『全き献身』『表面的ではなく心からの献身』を意味。
B)全き信仰をもって神に近づく…『成熟した信仰』『大人の信仰』『確信に満ちた力強い信仰』を意味。
神は約束されたことを必ず実行することができるお方なので、信者は神の約束を信じるという信仰によって生きるのです。
神に近づくことの意味
1)心に血の注ぎを受けて邪悪な良心をきよめられ…受取人たちに強調点があり、彼らが義と宣言された時、義とみなされ、罪から解放されています。それは彼らが最初に信じた時に起こり、現在に至るまで続いており、彼らは『位置的きよめの中』にいるということ。
2)からだをきよい水で洗われた…現実的きよめ。ギリシャ語では『浸す』の意。
新生したことの結果としてのきよめをあらわす。
エペソ5:26ーキリストがそうされたのは、みことばにより、水の洗いをもって、教会をきよめて聖なるものとするためであり、
テトス3:5ー神は、私たちが行った義のわざによってではなく、ご自分のあわれみのゆえに、聖霊による、新生と更新との洗いをもって私たちを救ってくださいました。
イエスは、信者が地上にいる間ずっと、信者をきよめ続けておられるのですー実質的、日常的きよめ。
ヘブル10:23ー約束された方は真実な方ですから、私たちは動揺しないで、しっかりと希望を告白しようではありませんか。
②希望の勧告:しっかりと希望を告白しようではありませんか
この希望の内容は、イエスが本当にメシアであるということです。
受取人たちを救いの中に保つのは神であり、その神が永遠の平安の中に保ち、きよめ続けてくださるのです。
しかし、その永遠の平安の中にしっかりとつかまる(とどまり続ける)のは、人間(信者)側です。 とどまり続ける目的は、優柔不断にならずに、しっかりと希望を持つため。
*動揺しないで…『土台にしっかりとまっすぐに立つ』の意。
約束された方が、真実なお方だからこそ『堅く立つ』必要があります。
※信者がそこにとどまり続けることによって救われるのではなく、とどまり続けることにより、彼らが本当に救われていることを示すことができる、ということ。
とどまり続けることが、救われていることの目に見える証拠だということ。
とどまり続けないということは、信者がもともと救われていなかったという意味ではありませんが、救いを得ているという十分な証拠とはなりません。
彼らは救われたがゆえに、神が彼らを救いの中に保たれるのですから、その応答として、彼らの救いの確固たる証拠を示し、個人的救いの保証をするために、キリストにしっかりと立つ必要があるのです。
ヘブル10:24ーまた、互いに勧め合って、愛と善行を促すように注意し合おうではありませんか。
③愛への勧告:お互いに勧め合って
*勧め…ヘブル3:1では『考え』と訳されていることば。『非常に慎重な調査をする』『よく考慮する』の意。ここでの『勧め』の目的は、誤りを見つけたり、人を非難するのではなく、愛と善行を促すこと。
愛は内側の態度であり、善行は外に向けた行動。
受取人たちが外部に愛を示す方法は、善行によって。
ヨハネ14:15ーもしあなたがたがわたしを愛するなら、あなたがたはわたしの戒めを守るはずです。
受取人たちは、イエスの戒めを守ることによってイエスに愛される者になるのではなく、イエスの戒めに従うことによって、イエスに対する愛を示すことになります。
兄弟たちに愛を示す方法は、彼らに対し善行をすることによってです。
ヘブル10:25ーある人々のように、いっしょに集まることをやめたりしないで、かえって励まし合い、かの日が近づいているのを見て、ますますそうしようではありませんか。
④最後の勧告:いっしょに集まることをやめたりしないように
*集まることをやめる…ギリシャ語:『完全に捨てる』の意。信者としていっしょに集まることを『完全に捨ててはいけない』の意。
*いっしょに集まる…ギリシャ語では、場所ではなく、信者の集まりとしての『シナゴーグ』を含むことば。
信者として『いっしょに集まる』ことは、とても重要です。
教会は信者が集まり、互いに会う所ですが、聖書は週のどの日に教会で集まらなくてはならないかは命じてはいません。その決定をするのは、個々の教会に任されています。
日曜日でも、金曜日でも土曜日でも、その他のどんな日でも、信者が共に集まることは許されているのです。
ローマ14:5ーある日を、他の日に比べて、大事だと考える人もいますが、どの日も同じだと考える人もいます。それぞれ自分の心の中で確信を持ちなさい。
未信者のご主人に反対され、日曜日に教会に行かれない友人のために、月曜日の日中にその友人と共に集まれる教会の兄弟姉妹が集って、メッセージを共に聞き、主にある交わりをすることも許されているのです。
しかし、信者が共に集まることが命じられているのに、教会が集まることを止めることは許容されてはいません。
「人に従うより、神に従うべきです。
*かの日が近づいているのを見て…著者が書き送っているユダヤ人信者たちの中には、迫害のためにすでに他の信者たちとの関係を断ち始めた人々がいました。彼らはいっしょに集まることを拒否していました。しかし、信者たちはいっしょに集まることを止めてはいけないのです。
特に来たるべきAD70年の裁きを前に、互いに勧め合い、励まし合うためにいっしょに集まることはとても重要でした。
『いっしょに集まる』という勧告は、①信頼への勧告、②希望の勧告、③愛の勧告の三つを成し遂げるためです。
*ますますそうしようではありませんか…この時代のユダヤ人信者たちには、非常に重要でした。
『ますます』…緊急を強調することば。緊急である理由は『かの日』が来たるべき裁きの日であり、その日が刻一刻と近づいている時でした。
『来たるべき裁きの日』…民族として、イエスのメシア性をサタンの力によるものとした『ベルゼブル論争』ーマタイ12章ーによりメシアを拒否し、またイエスの裁判では、十字架につける責任を自分たちと子孫とが負うと宣言した世代に対する裁きで、エルサレムと神殿が崩壊されるというAD70年の裁きです。
十字架から裁きまでは40年間という悔い改めの期間が設けられていました。
イエスは裁きが来ることを警告されていました。
マタイ24:1~2ーイエスが宮を出て行かれるとき、弟子たちが近寄って来て、イエスに宮の建物をさし示した。
そこで、イエスは彼らに答えて言われた。「このすべての物に目をみはっているのでしょう。まことに、あなたがたに告げます。ここでは、石がくずされずに、積まれたまま残ることは決してありません。」
ルカ19:41~44ーエルサレムに近くなったころ、都を見られたイエスは、その都のために泣いて、
言われた。「おまえも、もし、この日のうちに、平和のことを知っていたのなら。しかし今は、そのことがおまえの目から隠されている。
やがておまえの敵が、おまえに対して塁を築き、回りを取り巻き、四方から攻め寄せ、
そしておまえとその中の子どもたちを地にたたきつけ、おまえの中で、一つの石もほかの石の上に積まれたままでは残されない日が、やって来る。それはおまえが、神の訪れの時を知らなかったからだ。」
ルカ21:20~24ーしかし、エルサレムが軍隊に囲まれるのを見たら、そのときには、その滅亡が近づいたことを悟りなさい。
そのとき、ユダヤにいる人々は山へ逃げなさい。都の中にいる人々は、そこから立ちのきなさい。いなかにいる者たちは、都に入ってはいけません。
これは、書かれているすべてのことが成就する報復の日だからです。
その日、哀れなのは身重の女と乳飲み子を持つ女です。この地に大きな苦難が臨み、この民に御怒りが臨むからです。
人々は、剣の刃に倒れ、捕虜となってあらゆる国に連れて行かれ、異邦人の時の終わるまで、エルサレムは異邦人に踏み荒らされます。
AD70年の裁きの期間は、最後の裁きである患難時代の『型』でもあります。
それはメシアを拒否したユダヤ人たちだけでなく、メシアを拒否する現代の人々が経験するものであり、当時と同じように刻一刻と『その時』が迫っているのです。
様々な理由で地域教会の集まりに集えないのであれば、スモールグループや家庭集会などの小さな集まりにでも集う場所が与えられ、共にみことばを学び、祈り合い、励まし合うことができますように。ー祈ー