サザエのお裾分け

聖書を字義通り&文脈に沿って学び、理解したことの中からのお裾分け。内容は鵜呑みにせず、必ずご自分で聖書を開いて確認してくださいね。聖書理解の助けになれば幸いです。† 栄光在主 †

ヨハネの黙示録3章

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*『神様のご計画』の表訂正:X 五旬節/ペンテコステ 使徒1:9 →O 使徒2:1~4

 

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 黙示録に出て来る「七つの教会」の後半、三つの教会についてのお裾分けです。その中には、現代の教会も含まれます。今、何をすべきか…主の導きがありますように。

 

 

【サルデスにある教会】

黙示録3:1ー•宛先ーサルデス…「のがれ出る者」という意味です。暗黒時代の教会から分離する者を暗示しています。

 

年代ーAD1517~1648年まで。AD1517年10月31日は、マルティン・ルターがヴィッテンベルク城教会の扉に95か条の提題を掲げた日です。

AD1618~1648年は、最後の宗教戦争(30年戦争)がありました。

 

•キリストの姿ー神の七つの御霊、および七つの星を持つ方。

cf 七つの御霊イザヤ11:2ー主の霊、知恵の霊、悟りの霊、はかりごとの霊、能力の霊、主を知る知識の霊、主を恐れる霊。教会の主としてのキリストを表わしています。

 

•叱責ー生きているとされているが、実は死んでいる。イエスはこの教会の教理を「生きている=正しい」とされていますが、実は行ないが「死んでいる=伴っていない」とされています。

cf ヤコブ2:26ーたましいを離れたからだが、死んだものであるのと同様に、行ないのない信仰は死んでいるのです

 

サルデスにある教会は宗教改革時代の教会の型」です。この時代は、誤った教えに傾いたローマ・カトリック教会からは分離しましたが、その多くが「国家教会」の地位に留まった時代でもありました。例えば…

 

a)ドイツやスカンジナビア諸国ールーテル教会

b)英国ー聖公会

c)スコットランドー長老教会。

d)スイスー改革派教会、など。

 

教えが正しくても、その実質が名目的なクリスチャンばかりでは、神は喜ばれません。信者の霊的成長がなければ新しく救われる人も起こされないからです。霊的幼子ばかりのところに霊的乳飲み子が与えられても、誰も面倒をみれないからです。

 

黙示録3:2~5ー•矯正ーだから主は「目をさましなさい。」といわれます。まず、自分自身が霊的に目をさまし、死にかけている他の人たちを助けるようにと命じておられます。

あなたは先に覚醒する人になりますか?誰かに助けてもらう人になりますか?

 

黙示録3:3ー目をさましたら、次にすることは「どのように福音を受け、また聞いたのかを思い出す」ことです。そして、福音を堅く守り、また悔い改めることです。霊的に死んでいるような教会では、イエスの(空中)再臨=携挙の時、突然の出来事に驚かされることになります。

 

黙示録3:4ーこのような時代の中にあっても、真の信仰に歩んだ多くの信徒たちがいました。

白い衣ー義の衣…キリストにある救いを象徴。真の信者には、この白い衣が約束されました。

 

黙示録3:5いのちの書…人間として誕生すると名前が記され、生きている間に主イエスを救い主として信じることなく死ぬと、名前が消されます。信者になった者の名前だけが、最終的に残る書物です。

 

それとは別に、「小羊のいのちの書」があります。cf 黙示録13:8ー小羊のいのちの書…主イエスを救い主と信じた者の名だけが書き記されます。最終的にはいのちの書と名簿が一致します。

 

白い衣が約束された人々の名前は、いのちの書に記されたまま、永遠に消されることはありません。ハレルヤ!そしてキリストは、その人々を御父の御前で言い表してくださいます。

 

黙示録3:6ー•命令…耳のある者は御霊が諸教会に言われることを聞きなさい。

 

 

フィラデルフィアにある教会】

黙示録3:7ー•宛先ーフィラデルフィア…「兄弟愛」という意味です。

年代ーAD1648~1900年頃まで

AD1648年ーウェストリア条約締結され、神聖ローマ帝国は事実上解体されました。

 

•キリストの姿ー聖なる方、真実な方、ダビデのかぎを持っている方、彼が開くとだれも閉じるものがなく、彼が閉じるとだれも開く者がない方。

 

黙示録3:8~11ー•賞賛ーフィラデルフィアの教会もスミルナの教会(迫害時代の教会)同様、叱責のことばはありません。

 

黙示録3:8ー1)主イエスご自身が、だれも閉ざすことのできない門を開かれましたーcf ヨハネ10:7b−わたしは羊の門です。 

 

AD1700年から約200年の間、世界中で宣教師たちに閉ざされた国々はほとんどありませんでした。フィラデルフィアの教会は、大宣教時代の型です。

 

黙示録3:9ー2)サタンの会衆に属する者、ユダヤ人だと自称している者…聖書では明確にされていませんが、カルト宗教ととることができます。

 

この時代(19世紀の終わり)に、ジョセフ・スミス・ジュニアによってモルモン教=「末日聖徒イエス・キリスト教会」が、

またチャールズ・テーゼ・ラッセルによりエホバの証人=「ものみの塔聖書冊子協会」が誕生しました。

*どちらもアメリカで誕生し、三位一体や地獄否定から始まりました。

 

3)彼らをあなたの足もとに来てひれ伏させ…偽りの神を信じて来た者たちに、真の神を信じる者が神に愛される者たちであることをお示しになるということ。

 

黙示録3:10ー4)この教会は、全世界に来ようとしている試練の時から守られます。これは、7年間の患難時代を通過しないという約束です。

つまり患難時代の始まる前に「携挙」があり、真の教会=普遍的教会は天に挙げられるということです。

*6章以降の患難時代の記述に「教会」という言葉はありません。

 

黙示録3:11ー私はすぐに来る…空中再臨。あなたの持っているもの…信仰

cf 第2テモテ3:14~15ーけれどもあなたは、学んで確信したところにとどまっていなさい。あなたは自分がどの人たちからそれを学んだかを知っており、また、幼いころから聖書に親しんで来たことを知っているからです。聖書はあなたに知恵を与えてキリスト・イエスに対する信仰による救いを受けさせることができるのです。

 

黙示録3:12ー5)この教会に属する者たちは、千年王国において高い地位(神の聖所の柱)と新しい三つの名が約束されています。

新しい三つの名

a)主イエスの神の名=御父の名。

b)主イエスの神のもとを出て、天から下って来る新しいエルサレムの名=完成された天国の名。

c)主イエスの新しい名。

 

黙示録3:13ー•命令ー耳のある者は御霊が諸教会に言われることを聞きなさい。 

主よ、今日も私たちの霊の耳を開いてくださり、あなたのみ言葉を喜んで聞く者としてください。アーメン。

 

 

【ラオデキヤにある教会】

黙示録3:14ー•宛先ーラオデキヤ…「人々が支配する」という意味です。

•年代ーAD1900年〜現代。

つまり、「今 私たちはラオデキヤの教会時代=背教の時代に生きている」ということです。

 

•キリストの姿ーアーメンである方、忠実で、真実な証人、神に造られたものの根源である方。 

ここではイエスの忠実さと真実さが強調されています。それはこの教会が不真実な教会だからです。

人々が支配している教会とは、主の臨在のない、聖霊がいない教会、「人間中心主義の教会」のことです。

 

•賞賛ー何もありません。

 

黙示録3:15~17ー•叱責ー1)この教会の実態は「熱くも冷たくもない、生温い教会」なのです。神は熱いか冷たいかであって欲しいと望まれているとは、どういうことでしょうか?

 

熱い…信仰的に熱心に神を慕い求め、みことばにより養われ、従順に神に従う者たちです。彼らは豊かに御霊の実ガラテヤ5:22~23)を結びます。


そういう人は、教会の指導者から聞くことを、心に蓄えたみことばと御霊の助けによって、瞬時に聖書と一致しているかどうか判断することができるので、『熱い信仰』を主は喜ばれるのだと思います。


教会の奉仕に忙しくしていることだけが『熱い』のではありません。

 

冷たい…不信者の場合は「神はいない」という立場を極める人たちのことでしょう。何故、神は冷たい者もよろこばれるのでしょうか?それは、「神はいない」を立証しようとすればするほど、「神はいる」という事実の壁にぶち当たるからです。

 

リュー・ウォレスは中東、ヨーロッパ各地を回りながら、多くの資料を集め、聖書の内容は作り話であることを証明しようとしました。しかし第二章を書き始めたところで、神はおられる!という事実にぶつかり、「我が主、我が神」と告白しました。その後、彼が書いたのは、有名な歴史小説ベン・ハー』なのです。


しかし、この文脈では『ラオデキヤの教会』の人々に向けてなので、『冷たい』と言われているのは不信者ではありません。信者です。


ならば、どういう状態を『冷たい』というのでしょう?

おそらく、指導者から聞いたことに対し何でも鵜呑みにせず、本当かどうか疑いを持って聞く姿勢を指しているのではないでしょうか?


使徒17:11ーここのユダヤ人は、テサロニケにいる者たちよりも良い人たちで、非常に熱心にみことばを聞き、はたしてそのとおりかどうかと毎日聖書を調べた。

 

黙示録3:16ーしかし、熱くも冷たくもないこの教会は生温いので、主イエスは「わたしの口からあなたを吐き出そう」と言われています。


*生温い…日頃から熱心にみことばを求めて学ぶことをせず、教会の指導者から聞いたことを、みことばで検証することもせず、日曜日に教会に通い、教会の奉仕当番をこなすだけの状態。形だけの信仰生活のことではないでしょうか?つまり、見せかけの信仰。キリストの福音を信じてはいない、不信者のことです。

 

黙示録3:17ー2)自分は富んでいる。豊かになった。…物質的に豊かになっても、霊的に貧しく、盲目でみじめであるというのが、ラオデキヤの教会の特徴であり、現代の教会の特徴でもあるのです。

 

黙示録3:18~19ー•矯正ーラオデキヤは、フィラデルフィアの南東約76kmにある町で、ローマ時代には富裕なことで知られていました。金融業、毛織物、目薬で有名な町でした。それにかけて、主イエスは「金」「白い衣」「目薬」と言っています。

 

金ーcf 第1ペテロ1:7ー信仰の試練は、火を通して精錬されてもなお朽ちて行く金よりも尊いのであって、イエス・キリストの現われのときに賞賛と光栄と栄誉に至るものであることがわかります。

 

白い衣ー義の衣。

 

目薬ーみことばの意味がよくわかるようにするためのもの。

3)この教会は本物の信仰、主イエスによる義の衣、霊的な目が開け、みことばがよく分かるようになるための目薬を「買いなさい」ー代価を払ってでも手に入れるように、と勧められています。

 

黙示録3:19ー4)愛する者をしかったり、懲らしめたりする…このような教会であっても、主は「愛する者」と呼ばれています。そして、悔い改めを勧めておられます。

 

神の一方的な呼びかけである「愛する者」ということばに甘んじているだけでよいのでしょうか?

神の命令「悔い改めなさい」に従って、応答していきたいものです。主の口から吐き出されることのないように…

 

黙示録3:20これは、誤って適応されることが非常に多いみことばです。

「見よ。わたしは戸の外に立ってたたく」…新改訳聖書では、ひらがなで「わたし」と表記されているのは、神の発言です。

*人間の発言の場合は、すべて「私」と漢字での表記で区別されているので「わたくし」と読んで区別することが可能です。

 

ここでは「わたし」とひらがな表記なので、外から戸をたたいているのは、主イエスだということがわかります。では、どこの「戸」をたたいているのでしょうか?

 

有名な宗教画の影響からか、そう解釈されたゆえかは分かりませんが、多くは「私たち人間の心の戸」だと思われています。その戸は、取っ手が内側にしかなく、戸の外に立っているイエス様には、開けることが出来ないのだと…聞いた覚えはないですか?

 

実際にそのような戸があったら、欠陥品ですよね!? 建築基準法にひっかかりません?

主は強盗ではないので、私たちの心をこじ開けてまで侵入して来ることはありません。ですが、文脈から「個人の心の戸」と理解できるでしょうか?

 

これは、ラオデキヤの教会の戸です。教会の戸なら、取っ手は内側にも外側にもあるでしょう。出入り自由なのですから。問題は取っ手ではないのです。

*主イエスが教会から「閉め出されている」ことなのです。

 

教会の中で神を礼拝している「つもり」が、「人々が支配する」教会と化しているので、肝心な主を教会から閉め出し、内側からかぎをかけている状態なのです。

 

神のみことばを使って、人間側の勝手な聖書解釈(私的解釈)や人間の思いや考えが語られるケースさえあるのです。

 

以前通っていた教会の牧師は、礼拝説教の中で大きな声で「私たちが天の御国に入れるかどうかはわかりませんが…」と言われ、私は椅子からコケそうになりました。

 

この教会の「救い」に対する理解は、「信仰+行ない」だったのです。だから、イエスを信じる信仰だけでは、天の御国に行くという「救いの確信」がなく、良い行ないが必要なので常に自己嫌悪や不安との戦いの中に置かれ、喜びや感謝がない状態が続いているのです。cf エペソ2:8~10

 

そのような教会に対して、主は教会の外側から「開けてくれ」「入れてくれ」と戸をたたいておられるのです。

 

次に、「だれでもわたしの声を聞いて戸をあけるなら、わたしは彼のところにはいって、彼とともに食事をし、彼もわたしとともに食事をする」とありますが、イエスはどこに「入る」といわれていますか?

 

「教会の中」とは言われてないことにきづきましたか?

 

ここで初めて、主イエスとの個人的な関係へと入っていくのです。教会の中の誰か一人が戸を開けただけでは、主イエスが教会の中に入るとは言われてはないのです。戸を開けた本人とイエスさまとの個人的な「食事=親しい関係、交わり」に入るのです。

 

教会で傷ついた私の友人は「繋がる教会がないことが一番辛かった。神さまの前に罪を犯している気がして常に責められていた。でもイエス様が戸をたたく小さな音を聞き戸を開けてお迎えしたつもりが『こっちへおいで、食事に行こう』と連れ出されたのだ。素晴らしい主との個人的な交わりの中へ。そして新しい別な主を信じる兄弟姉妹との交わりのちゃんと用意されていた。」と喜んで、証ししていました。

 

背教の源はサタンの働きです。その内容は、様々です。

a)三位一体の否定。b)キリストの神性の否定。c)聖霊の働きの否定。d)食事制限、結婚制限等、信者の自由の制限。e)再臨の否定。f)みことばの否定などです。

 

新しい教えが出て来た時には、みことばで確認することが必要です。人間の教えがみことばよりも重んじられる場合は、イエスを戸の外に締め出している教会と言えるでしょう。

cf 使徒5:29bー人に従うより、神に従うべきです。アーメン。

 

黙示録3:21ー•約束ー神のみことばに忠実に従う者は、勝利を得る者です。そして主とともに王として地上の王国である千年王国を治めるようになるのです。 

•命令ー耳のある者は御霊が諸教会に言われることを聞きなさい。

 

聖書は

1)字義通りに読む。

2)文脈に沿って読む。

3)みことばに付け足したり、差し引いたりしない。cf 申命記4:2

*異端の教えは、付け足したり差し引いたりしているので、要注意です。

4)みことばを私的解釈しない。cf 第2ペテロ1:20

5)みことばをみことばによって確認する。cf 使徒の働き17:11

 

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映画ベンハーの一場面