*『神様のご計画』の表訂正:X 五旬節/ペンテコステ 使徒1:9 →O 使徒2:1~4
長老たちって、誰のこと…? 携挙はいつ起こる…? 天使に階級がある…!? さあ、新しい発見があるかな? どうぞ、召し上がれ!
〜ちょっとだけ 復習〜
黙示録のテーマ:1:7ー見よ。彼が雲に乗って来られる。すべての目、ことに彼を突き刺した者たちが、彼を見る。地上の諸族はみな、彼のゆえに嘆く。
アウトライン:1:19ーそこで、あなたの見た事、今ある事、この後に起こる事を書きしるせ。
祝福の約束:1:3ーこの預言のことばを朗読する者と、それを聞いて、そこに書かれていることを心に留める人々は幸いである。時が近づいているからである。
七つの教会ー2~3章。
1)一世紀当時実在していた。
2)教会史の中の各時代の教会の特徴。
3)どの時代の教会にも当てはまる教会のタイプ。
3)の観点から見ると、現在は「ラオデキヤ=背教の時代の教会」ですが、その中にあってもスミルナの教会やフィラデルフィアの教会のように、主に賞賛される教会もあります。既存の教会すべてが背教の教会ではありません。なぜなら神は常に「残りの者たち」をとっておかれるからです。
黙示録3章までで“今ある事”=七つの教会についての記述が終わりました。4章からは“この後に起こる事”について書かれています。そして、その内容はまだ成就していません。
*つまり、ここからは新約聖書における「預言書」となり、みことばを注意深く読み進む必要があるのです。
聖書を理解する時、また黙示録に書かれている【象徴的なことばを理解する時の鉄則】を思い出してください。
1)字義通りに読む。
2)文脈から理解する。
3)象徴的なことばは、黙示録の他の箇所に解説がないか調べる。
4)黙示録以外の聖書箇所でそのことばがどのように使われているか調べる。
黙示録3章と4章の間に「空中再臨」が起こります。
「空中再臨」ということばは聖書にはありませんが、「三位一体」と同じように言葉として出て来なくても出来事として「事実」を表現するのに的確な神学的言葉です。表現的言葉にこだわるのか、素直に事実として受け入れるのか、信仰が試される点です。
なぜなら、エホバの証人のような異端信者は「三位一体ということばは、聖書には出て来ない。それを信じるキリスト教世界はサタン的である。」と教えられているからです。
空中再臨についての記述は、第一テサロニケ4:16~17にあります。賛美歌 ♪世の終わりのラッパ♪ をご存知方は、「ああ ここからだったのか!」と思われるでしょう。
*個人的意見ですが、聖歌隊の方々は礼拝で歌う賛美歌がどの聖書箇所からかをあらかじめ確認し、意味を理解してから歌うと、会衆に賛美を通してみことばとその意味が伝わり、より素晴らしくなると思います。(そういう意味で、礼拝で賛美する聖歌隊員は全員、信者であることが望ましいと言えます。)
第一テサロニケ4:16~17ー主は号令と、御使いのかしらの声と、神のラッパの響きのうちに、ご自身天から下って来られます。それからキリストにある死者が、まず初めによみがえり、
次に、生き残っている私たちが、たちまち彼らといっしょに雲の中に引き上げられ、空中で主と会うのです。このようにして、私たちは、いつまでも主とともにいることになるのです。
天の御国で支度を整えた花婿キリストは、地上の神の家で支度を整えた、花嫁である私たちを迎えに来ます。
それまでに「キリストにある死者」がまずよみがえり、キリストといっしょに降りて来て、「空中で」地上から引き上げられる私たちと会う、と言っています。
キリストが再び地上に戻ってくるのは、7年間の患難時代の終わりです。それまでは天におられるわけですから、そのキリストと私たちはいつまでもともにいるということは、当然天にまで引き上げられることになります。そして、天でキリストの花嫁として結婚式が行なわれるのです。
第一コリント15:51~52ー聞きなさい。私はあなたがたに奥義を告げましょう。私たちはみなが眠ってしまうのではなく、みな変えられるのです。
終わりのラッパとともに、たちまち、一瞬のうちにです。ラッパが鳴ると、死者は朽ちないものによみがえり、私たちは変えられるのです。
空中再臨の時、キリストにある死者は主と同じ栄光のからだによみがえり、キリストにあって生き残っている者たちは、一瞬にして栄光のからだに変えられる、とパウロは言っています。そしてそれが奥義だと…
これらのことを踏まえた上で、黙示録4章を読むと、3章までの著者ヨハネの視点が変わっている事に気付くはずです。
黙示録4:1ーその後、私は見た…これから起こることをヨハネは見たのです。ヨハネは「天」に招かれています。
つまり、3章までの視点は地上ですが、ここから視点は天に変わります。
天に一つの門があった…ヨハネ10:9aーわたしは門です。だれでも、わたしを通ってはいるなら、救われます
天には「開いた門が一つ」あるとヨハネは言っています。
エデンの園の出入り口も東側に一つだけ、幕屋に入る「庭の門」も東側に一つだけでした。東は太陽が昇る方角です。
つまり、世の光として来られた「イエスというただ一つの門」を通らなければ、神のもとには近づけないのです。
幕屋の庭の門以外のところから忍び込もうとする者は、殺されました。道であり、門であるイエス以外のところから救いを求めても、永遠のいのちには至らないのです。惑わされないように注意が必要です。
初めの声…黙示録1:10ー私は、主の日に御霊に感じ、私のうしろにラッパの音のような大きな声を聞いた。この時の「声」と同じです。
「この後、必ず起こる事をあなたに示そう。」…神は「この後、必ず起こる事」と言われています。
それを①ヨハネに示し、ヨハネが書き留め、②それを私たちが今読み、学んでいるのです。つまり、黙示録を字義通り信じるということは、神を信じることなのです。
「聖書のこの箇所は信じられるけど、ここは〜…」とか「ここはおとぎ話しです」とか選択制で信じる人がたまにいますが、誰がその区別を付けているのでしょう?それこそが人間主観のラオデキヤの教会です。聖書はこう言っています。
第二テモテ3:16ー聖書はすべて、神の霊感によるもので、教えと戒めと矯正と義の訓練とのために有益です。
黙示録4:2ー1)ヨハネは「御霊に感じて」天に上げられました。つまり、肉体ごとではなく、ヨハネの霊だけが天に上げられたということです。
2)これは携挙ではありません。携挙は肉体ごと天に上げられます。
3)天には一つの御座がありました。その御座には父なる神が着かれてました。
ここでちょっと想像力を働かせてみてください。
ある日、突然「携挙」は起こります。私たちはそれを待ち望む者ですが、そのことが起こることを知らない人々が、未信者だけでなく信者の中にも大勢います。その時の様子を、主は語られています。
マタイ24:36~42ーただし、その日、その時がいつであるかは、だれも知りません。天の御使いたちも子も知りません。ただ父だけが知っておられます。
人の子が来るのは、ちょうど、ノアの日のようだからです。
洪水前の日々は、ノアが箱舟にはいるその日まで、人々は、飲んだり、食べたり、めとったり、とついだりしていました。
そして、洪水が来てすべての物をさらってしまうまで、彼らはわからなかったのです。人の子が来るのも、そのとおりです。
その時、畑にふたりいると、ひとりは取られ、ひとりは残されます。だから、目をさましていなさい。あなたがたは、自分の主がいつ来られるのか、知らないからです。
イエスさまは、「その日」をノアの洪水を例に話されました。2011.3.11の津波を経験した日本人なら、このたとえの意味がよく分かると思います。一瞬にして、日常生活が奪われるのです。
突然、愛する家族が、同僚が、級友が、携挙され自分だけが残されるのです。パイロットがクリスチャンだったら?電車やバスに運転手がクリスチャンだったら?治療中の医師がクリスチャンだったら?…一瞬にして天に上げられたら、地上はどうなることでしょう?
しかも、地上に残される人々は聖書のみことばを知らない、神を信じない人々です。何が起こったのか想像すらつかず、好き勝手な憶測が飛び交うでしょう。無法地帯や暴動も起きるでしょう。
しかし、神はそれらのことが確実に起こる事実として、ヨハネを通して先付けで私たちに示して下さっているのが、黙示録の内容なのです。
黙示録4:3ー碧玉…「潔さ」を表わす。明るい緑色の石。赤めのう…「贖い」を表わす。燃えるような赤。緑玉…「賛美」を表わす。緑。虹…「契約」を表わす。cfノア契約のしるし。ご存知七色。天での第一印象は「色」でした。cf 黙示録21:19~20
黙示録4:4ー24の座、24人の長老たちが座っていた…「24人の長老たち」をどう理解するかで、終末論、着地点が大きく変わってきます。「天使」ととる方々は、携挙の時期が「患難期中説」「患難期後説」か「携挙無し説」のいずれかで、神さまのご計画は「人類救済」だと主張されると思います。
しかし神の目的が「人類救済」だとすると、それは「人間中心主義」であり、「神中心」ではなくなります。聖書は神を無視した生き方(不信仰)を「罪」だと一貫して言っています。イザヤもパウロもはっきりと神の目的を、人間の生きる目的を記しています。
イザヤ43:7ーわたしの名で呼ばれるすべての者は、
わたしの栄光のために、わたしがこれを創造し、
これを形造り、これを造った。
イザヤ43:21ーわたしのために造ったこの民は
わたしの栄誉を宣べ伝えよう。
第一コリント10:31ーこういうわけで、あなたがたは、食べるにも、飲むにも、何をするにも、ただ神の栄光を現わすためにしなさい。
私自身は、ヘブル的視点での解釈で原則に沿って「字義通りの解釈」で理解しています。
1)彼らは御座の回りに座っていた…御座は天にあるので、彼らがいる所も天です。
2)彼らは白い衣を着ていました…罪赦された者に与えられる「義の衣」です。このことから天使ではなく「聖徒たち」だと分かります。
なぜなら、罪を犯した御使いたちのための「救い主」「贖い主」は用意されていないからです。
第二ペテロ2:4ー神は、罪を犯した御使いたちを、容赦せず、地獄に引き渡し、さばきの時まで暗やみの穴の中に閉じ込めてしまわれました。(これは創世記6章の墮天使たちのことです。)
創世記6章のネフィリム誕生に関与しなかった墮天使が空中の権威を持つ支配者であるサタンに従って活動しています。
cf エペソ2:1~2ーあなたがたは自分の罪過と罪との中に死んでいた者であって、そのころは、それらの罪の中にあってこの世の流れに従い、空中の権威を持つ支配者として今も不従順の子らの中に働いている霊に従って、歩んでいました。
サタンとなった墮天使ルシファーが神に敵対した時に、人間と同じように自由意志を持つ被造物である天使たちも二者択一を迫られました。天で神に従い続けるのか、墮天使ルシファーに従い神に敵対し、自ら墮天使となるのか。
その時、サタン側についた天使の数は、黙示録12:4から全体の1/3であることがわかります。天使は人間のように結婚して子を産んだりはしないので、神の創造の時点で総数は決まっています。
その天使たちの自由意志が、神に仕えることにあるのか、または墮天使ルシファー同様、自ら神のようになりたいという高慢になり、神に敵対する者となるのかのテストだったとも言えるでしょう。
サタン側についた1/3の天使は「墮天使」となり、その中でも特に重い罪を犯した墮天使が、創世記6章のネフィリムの産みの親ということです。彼らは神のさばきを待つ「暗やみの穴の中」であるタータラスに閉じ込められ、そこから地獄の燃える火の中へ直行便で送られます。残りの2/3が、現役の聖なる天使です。
1/3の墮天使のうち、タータラスに閉じ込められていない墮天使たちは、千年王国の始まる前に神のさばきを待つ場所「アビス」に閉じ込められ、千年王国の終わりに一度解き放たれます。それから、永遠のさばきの場である「ゲヘナ=燃える火の池」へ送られます。
3)彼らは金の冠をかぶっていました。金の冠…忠実に信仰生活を送った者に与えられる冠。
cf 第一コリント9:23ーまた闘技をする者は、あらゆることについて自制します。彼らは朽ちる冠を受けるためにそうするのですが、私たちは朽ちない冠を受けるためにそうするのです。
4)「長老」ということばが「天使」を指す例は、聖書に出てきません。このことばは、キリストを信じた聖徒のリーダーたちを指すことばです。教会の指導的立場の者を指します。
5)24人…ダビデがレビ人を24の組に分けたことと関連していると思われます。cf 第一歴代誌24:1、4。
ヘブル5:1ー大祭司はみな、人々の中から選ばれ、神に仕える事がらについて人々に代わるものとして、任命を受けたのです。それは罪のために、ささげものといけにえとをささげるためです。
これらのことから、「24人の長老たち」とは「教会」のことを指していると解釈した方が、全体とも調和して理解できます。だとすると、教会は患難時代が始まる前に携挙によって天へと引き上げられていることになります。(天での結婚式のため) これが、私が納得している「患難期前携挙説」です。
黙示録4:5ー神の七つのともしび=七つの御霊。
イザヤ11:2ーその上に、主の霊がとどまる。
それは知恵と悟りの霊、
はかりごとと能力の霊、
主を知る知識と主を恐れる霊である。
神の御座の側に御霊もまた臨在されています。
黙示録4:6ー水晶に似たガラスの海…完成された天の御国には、海はありません。
黙示録21:1ーまた私は、新しい天と新しい地とを見た。以前の天と、以前の地は過ぎ去り、もはや海もない。
黙示録22:1aー御使いはまた、私に水晶のように光るいのちの水の川を見せた。
四つの生き物ー天使を指すと思われる。また、神の主権の違った四つの面。その生き物が、父なる神を礼拝していました。
黙示録4:7ー第一の生き物は、ししのようであり…マタイー尊厳と力。
第二の生き物は、雄牛のようであり…マルコー忍耐と働き。
第三の生き物は、人間のようであり…ルカー神の創造の冠。知性と理性。
第四の生き物は、空飛ぶわしのよう…ヨハネー主権と最高の支配。
四福音書によって、神の御子、主イエスが証しされました。
マタイによる福音書ーユダヤ人に向けて「救い主」としてのキリスト。
マルコによる福音書ー異邦人(特にローマ人)へ向けて「王」としてのキリスト。
ルカによる福音書ー異邦人(特にギリシャ人)へ向けて「僕」としてのキリスト。
ヨハネによる福音書ー世界中の人々へ「神の子」としてのキリストが示されました。
これらの証しにより、イエスは「100%神であり、100%人間であった」ことが分かります。神を信じるとは、これらの証言である聖書のことばを、「神のことば」として受け取り、信頼することです。
黙示録4:8ー六つの翼、飛ぶ姿、「聖なるかな、聖なるかな、聖なるかな」と叫ぶことばなどから判断すると、この四つの生き物は、イザヤ書に登場したセラフィムであることが分かります。
イザヤ6:2~3ーセラフィムがその上に立っていた。彼らはそれぞれ六つの翼があり、おのおのその二つで顔をおおい、二つで両足をおおい、二つで飛んでおり、互いに呼びかわして言っていた。「聖なる、聖なる、聖なる、万軍の主。その栄光は全地に満つ。」
天使には階級があります。一般の天使ー無名…下位。ミカエルやガブリエルなど、名のある天使ー天使長。セラフィムーイザヤ書と黙示録にのみ登場。単数形は「セラフ」ー燃えている者の意。ケルビムー最高位の天使たち。単数形は「ケルブ」。新約聖書には一カ所のみ登場…へブル9:5。サタンは元ケルブでした。
イザヤ書では彼らの顔や形状は説明されてません。それは黙示録で啓示されました。黙示録でもイザヤ書でも「聖なる」と三回繰り返されていることに注目してください。父なる神の側で仕えている天使が「聖なる」と三回言っているのは、三位一体の神を礼拝するのにとふさわしいと思いませんか?
黙示録4:9ー彼らは、父なる神に、栄光、誉れ、感謝をささげています。
黙示録4:10ーセラフィムの礼拝に合わせて、24人の長老たちも礼拝しています。
1)彼らは、父なる神の御前にひれ伏している。
2)永遠に生きておられる方を拝んでいます。
3)彼らは自分の冠を御座の前に投げ出しています。
冠を御座の前に投げ出す…投げ出したからといって、永久に冠を神様にお返しするという意味ではなく、賛美と感謝が繰り返されていることから、継続して冠を投げ出しているという意味でしょう。
天の御国でも与えられた賜物を用いて神の栄光を表わし冠(栄光)を受け、それを携えて礼拝に行くイメージです。
黙示録4:11ーcf 黙示録5:12ー彼らは大声で言った。
「ほふられた小羊は、力と、富と、知恵と、勢いと、誉れと、栄光と、賛美を受けるにふさわしい方です。」
コロサイ1:16~17ーなぜなら、万物は御子にあって造られたからです。天にあるもの、地にあるもの、見えるもの、また見えないもの、王座も主権も支配も権威も、すべて御子によって造られたのです。万物は、御子によって造られ、御子のために造られたのです。
御子は、万物よりも先に存在し、万物は御子にあって成り立っています。
ヨハネ10:30ー私と父とは一つです。
アーメン。