マタイ12章の『ベルゼブル論争』までは、福音の優先順位は『ユダヤ人』にありました。しかし『ベルゼブル論争』によりユダヤ人が民族としてメシアとして来られたイエスを拒否して以降、キリストの福音は異邦人にも及ぶようになりました。
マタイ15:21~28でも、ユダヤ人と異邦人の救いの優先順位について書かれています。
新約時代だからと言って、ユダヤ人が救いから漏れたわけではなく、異邦人信者がユダヤ人に約束された契約を引き継いだわけでもありません。
私たち異邦人信者は信仰により、契約の一部に接ぎ木されたにすぎないのです。
それでもその祝福の大きさに感謝する者でありたいですね。
マタイ15:21ーそれから、イエスはそこを去って、ツロとシドンの地方に立ちのかれた。
*そこから…イエスがパリサイ人や律法学者と議論されたゲネサレの地。cf マタイ14:34~20
*ツロ…イスラエルのガリラヤ国境から北へ約20kmのところにある海港都市。
*シドン…ツロの北方約35kmのところにある貿易港。
マタイ15:22ーすると、その地方のカナン人の女が出て来て、叫び声をあげて言った。
「主よ。ダビデの子よ。私をあわれんでください。娘がひどく悪例に取りつかれているのです。」
*叫び声をあげて…叫び続けて、の意。
この女性の問題は何ですか?(“叫び続けていること”ではないですよ。^^;;)
このようなことは、現代社会ではどのようなことに見られますか?
*私をあわれんでください…自分の娘の身に起きたことを『自分のこと』として捉えています。母心(母性愛)ですね。
マタイ15:23ーしかし、イエスは彼女に一言もお答えにならなかった。そこで、弟子たちはみもとに来て、「あの女を返してやってください。叫びながらあとについて来るのです」と言ってイエスに願った。
なぜイエスは彼女に一言もお答えにならなかったのでしょう?
弟子たちは、彼女に対しどのように感じていたでしょう?
ここにユダヤ人の異邦人に対する姿勢が垣間見えますね。
彼らは『神の選びの民』としての自負があったのでしょう。
マタイ15:24ーしかし、イエスは答えて、「わたしは、イスラエルの失われた羊以外のところには遣わされていません」と言われた。
ここでイエスが答えたのは、弟子たちの言葉に対してですが、イエスのこのことばには、どのような思いが込められていますか?
*イスラエルの滅びた羊…このときはまだ十字架の贖い前であり、神の選びの民であり契約の民であるユダヤ人に伝道範囲が絞られていました。メシア的王国である『神の国』の特権の優先順位は、まずユダヤ人にあり、彼らがメシアを受け入れ救われ、彼らを通して異邦人へと福音が伝えられるはずだったのです。
*異邦人伝道が大々的に行なわれるようになったのは、ユダヤ人が民族的にメシアを拒否してからです。
マタイ21:43ーだから、わたしはあなたがたに言います。神の国はあなたがたから取り去られ、神の国の実を結ぶ国民に与えられます。
マタイ15:25ーしかし、その女は来て、イエスの前にひれ伏して、「主よ。私をお助けください」と言った。
自分の訴えには何も答えず、弟子たちに対してのみ答えられる…その内容は、冷たいとも感じられるものでした。
それでも引き下がらないこの女性をどう思いますか?
何が彼女をそうさせているのでしょう?
*私をお助けください…悪霊に取り憑かれているのは彼女の娘でしたが、彼女はここでも『自分の問題』として捉えています。
マタイ15:26ーすると。イエスは答えて、「子どもたちのパンを取り上げて、小犬に投げてやるのはよくないことです」と言われた。
イエスは初めて彼女に声をかけられました。イエスは、彼女に何を教えようとされていますか?
*パン…メシア、神のみことば。
*子どもたち…神の選びの民であるユダヤ人。
*小犬…飼い犬を意味し、ここでは異邦人のこと。(犬…野良犬。cf ルカ16:21)
マタイ15:27ーしかし、女は言った。「主よ。そのとおりです。ただ、小犬でも主人の食卓から落ちるパンくずはいただきます。」
自分のことを『小犬』呼ばわりされたら、どう思うでしょう。その言葉に傷つき、怒ってその場を離れてしまったとしたら、この女の娘は癒されたでしょうか?
彼女はイエスのこのことばを、どのように受け止めていますか?
そこには彼女のどのような心がありますか?
箴言15:33ー主を恐れることは知恵の訓戒である。謙遜は栄誉に先立つ。
箴言18:12ー人の心の高慢は破滅に先立ち、謙遜は栄誉に先立つ。
彼女は『異邦人』であるという自覚がちゃんとありました。その上で、主に依り頼んでいるのです。
私たちはどうでしょう?
神の選びの民であるユダヤ人を退け、自分たちこそ『霊的イスラエル』と称し、高慢な思いになっていないでしょうか?
マタイ15:28ーそのとき、イエスは彼女に答えて言われた。「ああ、あなたの信仰はりっぱです。その願いどおりになるように。」すると。彼女の娘はその時から直った。
イエスは彼女の信仰をほめていますが、どのような点を『立派だ』とほめておられるのでしょうか?
*その願いどおりになるように…彼女の願いとは、何でしょう?
①22節「私をあわれんでください。」?
②25節「私をお助けください。」?
③それとも…?
彼女の娘はどうなりましたか?
あなたは「願うとおりになるように」と言われたら、何が叶うと思いますか?
問題が起きたとき、私たちはどうすべきなのでしょう?
その問題を解決するのに、必要なものとは何だと思いますか?
問題の根本的な解決は、どこにあると思いますか?