新約聖書の書簡を読む時、比較的忘れがちなのが
①誰が
②誰に宛てて
③どのような状況の中で書いた手紙なのか?ということです。
これらのことを意識せずに読むと、『あなた(がた)』も『私たち』もすべて現代のクリスチャンであると『勝手に思い込み、すべて自分に当てはめて理解』してしまいます。
もちろん『適用』としては必要なことですが、この読み方だけでは本来神様が意図していることに至ることは難しくなってしまいます。
異邦人の使徒となったパウロが書いた書簡は、ローマ人への手紙〜ピレモンへの手紙まで、すべて『異邦人の教会』または『異邦人の個人の信者』宛てです。
ガラテヤ2:8ーペテロにみわざをなして、割礼を受けた者への使徒となさった方が、私にもみわざをなして、異邦人への使徒としてくださったのです。
そして、ヘブル人への手紙、ヤコブの手紙、1&2ペテロの手紙、ユダの手紙の五つの書簡は、ユダヤ人信者(メシアニックジュー)に宛てた手紙です。
中でもヤコブの手紙は、ヤコブが殉教したAD62年よりも前、使徒の働き15章のエルサレム会議よりも前に書かれたとも言われ、新約聖書の中で一番先、AD45~50年の間(学者によっては、更に前のAD34~35年頃)に書かれました。
*ヘブル人への手紙…ユダヤ人信者の会衆宛て。
*ヤコブの手紙…一つの会衆宛てではなく、その他の地域に住むユダヤ人信者宛て。
ヤコブ1:1ー神と主イエス・キリストのしもべヤコブが、国外に散っている十二の部族へあいさつを送ります。
マタイ13:55ーこの人は大工の息子ではありませんか。彼の母親はマリヤで、彼の兄弟は、ヤコブ、ヨセフ、シモン、ユダではありませんか。
創世記に登場する『ヤコブ』と同じ “Jacob” (ヘブル語:Yaakov)。
十二使徒の中にも『ヤコブ』という名を持つ弟子が二人いたように、よくあるヘブル語の名前。
マタイ10:2~4ーさて、十二使徒の名は次のとおりである。まず、ペテロと呼ばれるシモンとその兄弟アンデレ、ゼベダイの子ヤコブとその兄弟ヨハネ、 ピリポとバルトロマイ、トマスと取税人マタイ、アルパヨの子ヤコブとタダイ、 熱心党員シモンとイエスを裏切ったイスカリオテ・ユダである。
主の兄弟ヤコブ は、『初代エルサレム教会の指導者』としてはよく知られていますが、『使徒』の一人であったことはあまり知られてないようです。
異邦人の使徒パウロが、ヤコブが使徒であったことをガラテヤ人への手紙の中で証ししています。
ガラテヤ1:19ーしかし、主の兄弟ヤコブは別として、ほかに使徒にはだれにも会いませんでした。
『使徒』には、二つのカテゴリーがあります。
①イエスの公生涯〜復活の目撃者…十二使徒たちが、このカテゴリーです。
使徒1:21~22ーですから、主イエスが私たちといっしょに生活された間、
すなわち、ヨハネのバプテスマから始まって、私たちを離れて天に上げられた日までの間、いつも私たちと行動をともにした者の中から、だれかひとりが、私たちとともにイエスの復活の証人とならなければなりません。
1コリント9:1ー私には自由がないのでしょうか。私は使徒ではないのでしょうか。私は私たちの主イエスを見たのではないのでしょうか。
1コリント15:7ーその後、キリストはヤコブに現われ、それから使徒たち全部に現われました。
イエスの全生涯の間は、他の異父兄弟たちと同様にヤコブも不信者でした。
ヨハネ7:2~5ーさて、仮庵の祭りというユダヤ人の祝いが近づいていた。
そこで、イエスの兄弟たちはイエスに向かって言った。「あなたの弟子たちもあなたがしているわざを見ることができるように、ここを去ってユダヤに行きなさい。
自分から公の場に出たいと思いながら、隠れた所で事を行う者はありません。あなたがこれらの事を行うのなら、自分を世に現しなさい。」
兄弟たちもイエスを信じていなかったのである。
*国外に散っている十二の部族へ…宛先
また『十二の部族へ』とあることから、受取人であるユダヤ人信者たちはイスラエルの十二部族から来ている者たちであり、ユダヤ人の『系図』は神殿に保管されていたため、ローマ軍によって神殿が崩壊されるまでは、彼らが自分がどの部族に属しているかわかっていました。
この手紙が書かれた時はまだ、AD70年のエルサレム、神殿崩壊前だったということがわかる一つの証拠です。
一般的に散っていた人々もいたでしょうし、ステパノの殉教をきっかけに、迫害によってイスラエル国外に散って行った人々もいたでしょう。
使徒8:1ーサウロはステパノを殺すことに賛成していた。その日、エルサレムの教会に対する激しい迫害が起こり、使徒たち以外の者はみな、ユダヤとサマリヤの諸地方に散らされた。
使徒8:4ー他方、散らされた人たちは、みことばを宣べながら巡り歩いた。
使徒11:19~20ーさて、ステパノのことから起こった迫害によって散らされた人々は、フェニキヤ、キプロス、アンテオケまでも進んで行ったが、ユダヤ人以外の者にはだれにも、みことばを語らなかった。 ところが、その中にキプロス人とクレネ人が幾人かいて、アンテオケに来てからはギリシヤ人にも語りかけ、主イエスのことを宣べ伝えた。
*あいさつ…語源は『喜び歌う』『嬉しい』の意。
この書簡が書かれた主な目的は、迫害にあっているユダヤ人信者たちの信仰を強めることでした。また、迫り来るAD70年の裁きを警告し、裁きに備えさせるためでもありました。
新約聖書の中で一番、命令口調な傾向が強い書で1〜5章までの108節中54もの命令形を含んでいます。
ヤコブ書が苦手な方が多い理由はこういうところに原因があるのかもしれませんね。 でも、その命令形は『一世紀のイスラエル国外に散らされたユダヤ人信者たちに対してだった』ということを、まず思い出してください。
この書簡のテーマは、『信仰のテスト』です。 信仰の成長のために、神は試練を通して私を練り、更なる祝福へと導かれるのです。
ローマ5:3~5ーそればかりではなく、患難さえも喜んでいます。それは患難が忍耐を生み出し、
忍耐が練られた品性を生み出し、練られた品性が希望を生み出すと知っているからです。
この希望は失望に終わることがありません。なぜなら、私たちに与えられた聖霊によって、神の愛が私たちの心に注がれているからです。
試練に耐える力を得、希望を持って乗り越えて行くのに役立つのが、ヤコブの手紙です。
『試練』と訳されたギリシャ語『peirasmosー罪への誘惑ー』には、二つの定義があります。
(1)外側から来る試練…信仰の強さと質を明らかにするため、神によって用いられる。
(2)内側から来る誘惑…信仰の聖化ではなく、誘惑する者を明らかにするため。
この両方の意味で、ヤコブはこの単語を用いてこの書簡を記しています。
(1)外側から来る試練ー肯定的なもの
ヤコブ1:2ー私の兄弟たち。さまざまな試練に会うときは、それをこの上もない喜びと思いなさい。
*試練に会う…『罪に陥る』のではなく、予期しない、また避けることのできない状況に人が『会う』という意味。
ルカ10:30でエリコに下る道で強盗に襲われた人や、使徒27:41で船が座礁したように、避けられない状況に陥ることをルカは言っているのであって、罪に陥ることを言っているのではありません。
*喜びと思いなさい…ギリシャ語では、『最高の喜び』『完全な喜び』『純粋な喜び』『多くの喜び』『主にあっての喜び』という意味。
外側から来る試練に打ち勝つ秘訣は、『喜び』にあると言えるでしょう。 主イエスも次のように教えられました。
マタイ5:11~12ーわたしのために人々があなたがたをののしり、迫害し、ありもしないことで悪口を浴びせるとき、あなたがたは幸いです。 喜びなさい。喜びおどりなさい。天ではあなたがたの報いは大きいから。あなたがたより前にいた預言者たちを、人々はそのように迫害したのです。
ヤコブ1:3ー信仰がためされると忍耐が生じるということを、あなたがたは知っているからです。
*知っている…『知る』という二つのギリシャ語のうち、ここでは『経験によって知る』という意味。
つまり、『経験によって外から来る試練は信仰の純粋性をテストし、証明するということを知っている』ということ。
苦しみは、信仰が聖化されるテスト段階だということ。
試練は、信仰の忍耐ではなく、むしろ既にある信仰の強化
であり、
試練を通してもたらされる信仰は、救いへと導く信仰だということ。
『試練』という信仰のテスト中でポジティブな態度をとることにより忍耐を生じさせます。
ローマ5:3~5ーそればかりではなく、患難さえも喜んでいます。それは、患難が忍耐を生み出し、
忍耐が練られた品性を生み出し、練られた品性が希望を生み出すと知っているからです。
この希望は失望に終わることはありません。なぜなら、私たちに与えられた聖霊によって、神の愛が私たちの心に注がれているからです。
ヤコブ1:4ーその忍耐を完全に働かせなさい。そうすれば、あなたがたは、何一つ欠けたところのない、成長を遂げた、完全な者となります。
『その忍耐を完全に働かせなさい』命じています。
完全に働かせた結果、
①何一つ欠けたところのない者となる…罪のない者となるというのではなく、『霊的に成熟した者となる』という意味。
②成長を遂げた完全な者となる…『完全に完成された者となる』という意味。
これら二つの内容の結果として
*何一つ欠けのない…この節で挙げられた二つの特徴以外他には何もない、ということ。
試練と忍耐の関係において、正しい姿勢で試練に臨むなら、忍耐を生み出す結果となります。
ヤコブ1:5ーあなたがたの中に知恵の欠けた人がいるなら、その人は、だれにでも惜しげなく、とがめることなくお与えになる神に願いなさい。そうすればきっと与えられます。
『神の知恵』は、試練を乗り越えるのに必要不可欠。
ヘブル書の著者は『おりにかなった助け』の大切さを強調しています。
ヘブル4:16ーですから、私たちは、あわれみを受け、また恵みをいただいて、おりにかなった助けを受けるために、大胆に恵の御座に近づこうではありませんか。
試練に対する『おりにかなった具体的な助け』として、ヤコブは『知恵』をあげ、信者が必要に応じて知恵を求めるように励ましているのです。
『試練の中にいる信者は、知恵を求めなさい!』と命じられています。
*お与えになる神…ギリシャ語では『与え続ける神』『継続的に与えられる神』『知恵を与えるのが好きな神』という意味。
知恵に欠けているならば、神に願わなくてはなりません。
マタイ7:7ー求めなさい。そうすれば与えられます。*求め続けなさい、の意。
捜しなさい。そうすれば見つかります。*捜し続けなさい、の意。
たたきなさい。そうすれば開かれます。*たたき続けなさい、の意。
*だれにでも惜しげなく、とがめることなくお与えになる神…このような祈りに神は必ず答えてくださると約束されました。
神が『知恵を与える』と約束されたのですから、信者は『求め続け』なくてはなりません。
神に知恵を求めることは、神に対する絶対的な『畏怖の念』を持つようになります。
①試練を乗り越えるために、知恵を祈り求めるべきである。
②試練を乗り越えた時には、試練を通して得た知恵をどう用いるのか、さらに神に祈り求めるべきである。
ヤコブ1:6ーただし、少しも疑わずに、信じて願いなさい。疑う人は、風に吹かれて揺れ動く、海の大波のようです。
試練に耐え抜くために知恵を求めるなら、少しも疑わずに信じて願うようにしなくてなりません。
信仰とは『神が必ず意志を持って答えてくださる』と信じることであり、何も疑わずに祈り求め続ける態度が必要です。
*疑い…『信仰』の反対であり、『内側のためらい』を意味する言葉。
*風に吹かれて揺れ動く、海の大波のよう…『波が次々と押し寄せ、風が舞う』という意味。
*揺れる…『風によって左右に、横に揺れる』という意味。
*動く…『風によって上下に、縦に動く』という意味。
『揺れ動く』とは、縦横、前後左右の不安定を意味します。
外側から来る試練の影響力に対し、内側の意志と信仰による安定性を持っていないと、不安定に心が揺れ動く原因となります。
ヤコブ1:7ーそういう人は、主から何かをいただけると思ってはなりません。
*何か…何かの知恵を神からいただけると思ってはならない。
ヤコブ1:8ーそういうのは、二心のある人で、その歩む道のすべてに安定を欠いた人です。
疑いを抱く人は、
①二心のある人…ギリシャ語では『二つのたましい』の意。
疑う人は、一つは『神に仕え』、もう一つは『世に仕える』という二つのたましい、二つの心を持つ人のようです。一方で神を信じますが、他方で神を信じていない状態。
②歩む道のすべてに安定を欠いた人…日常生活のすべての分野で『不安定な状態』が習慣となっている人。日常生活も霊的生活もすべての面で安定さに欠け、祈りも不安なものとなっている人。
キリストの十字架の贖いを信じ、神の子どもとされる特権を与えられた以上、御父を信頼し、御霊の助けを得ながら、主なるキリスト・イエスに従う信仰の歩みを続けられますように。
著者ヤコブはまず、9~11節で『試練と身分(境遇)』の関係について語っています。
ヤコブの手紙は、イエスの『山上の垂訓』との類似点が多くあり、その中の一つが次の9節です。
ヤコブ1:9ー貧しい境遇にある兄弟は、自分の高い身分を誇りとしなさい。
*貧しい境遇にある兄弟…貧困の中にいるユダヤ人信者のこと。
*誇り…『誇る権利があるものを持っている』ということを大声で公言する、という意味。
肉体的に貧しい境遇の中にある信者にとっては、霊的身分を『誇り』とすることができます。それは神の恵みによって持っている『霊的な富』を誇りとする権利があるということです。
主イエスもこのように教えられました。
マタイ5:3ー心の貧しい者は幸いです。天の御国はその人のものだからです。
神は信者を試すために、一部の信者を貧しい境遇に置かれます。
私たちが神の愛を行動で示したい時、愛を必要とする者がいなければできません。
キリスト教は『御利益宗教』ではありません。
「神はすべての信者が裕福になることを望んでいる。」というのは、聖書の真理ではありません。
神は信者が『裕福になることを唱え、それを主張し、目指すこと』を望んではおられません。
残念ながら、それは『繁栄の神学』の影響を受けた、神よりも金に仕えるという間違った信仰の歩みに誘い込む教えです。
次の10~11節でヤコブは、裕福な信者たちについて述べています。
ヤコブ1:10ー富んでいる人は、自分が低くされることに誇りを持ちなさい。なぜなら、富んでいる人は、草の花のように過ぎ去って行くからです。
*富んでいる人…『繁栄している』という境遇が、その人にとっての信仰のテストです。
『富んでいる人』もまた誇ります。しかしその『誇り』は、物質的繁栄ではなく、『自分が低くされること』を誇るのです。富んでいる人は、屈辱を誇らなくてはならないのです。
なぜでしょう?
その人がどれほど罪を認め、救いを求めたとしても、その救いをお金で買うことはできないからです。
富んでいる人であっても貧しい人と同じ原則で、神に近づかなくてはならないからです。それは『神の恵みによって、信仰によって救われる』からです。
エペソ2:8~9ーあなたがたは、恵みのゆえに、信仰によって救われたのです。それは自分自身から出たことではなく、神からの賜物です。
行ないによるのではありません。だれも誇ることのないためです。
・神はすべての人の救いのために御子を遣わされた…恵み
・福音を受け入れ、御子を信じる…信仰による決心
・神は、信仰による応答した者を選ぶ…救い
ヤコブ1:11ー太陽が熱風を伴って上って来ると、草を枯らしてしまいます。すると、その花は落ち、美しい姿は滅びます。同じように、富んでいる人も、働きの最中に消えて行くのです。
イザヤ40:6b~7ーすべての人は草。
その栄光は、みな野の花のようだ。
主のいぶきがその上に吹くと、
草は枯れ、花はしぼむ。
まことに民は草だ。
イスラエルの地では、3月下旬〜4月上旬にかけてさまざまな野の花が咲き、5月には熱風を伴う東風が吹くので、燃え尽き枯れてしまいます。
このように富める人も、その財産も一時的なものに過ぎないということを教えています。
富める人は神よりも信じるに足るものとして、そのような財力に頼るうぬぼれを認めなくてはならないのです。
花の外見的美しさ、いのちがはかないように、富める人の肉体のいのちのはかなさに適用し、そのようなものは『一時的である』ことを教えています。
『永遠のいのち』は富める者も、貧しい者と同じ方法で神から与えられるものです。
ヤコブ1:12ー試練に耐える人は幸いです。耐え抜いて良しと認められた人は、神を愛する者に約束された、いのちの冠を受けるからです。
報酬は二つあります。
一つは『この世』で、もう一つは『次の世(千年王国)』での報酬です。
*幸い…感情的な意味ではなく、内側に起こる主にある『幸福感』を指す。
この世での『報酬』は、内側の祝福です。このような幸福は、外側の状況に左右されません。
人は試練なくして祝福されることはありません。主イエスも山上の垂訓でそのことを教えています。忍耐強さにより、人生における内側の幸せを楽しむことができるのです。
マタイ5:1~12ーこの群衆を見て、イエスは山に登り、おすわりになると、弟子たちがみもとに来た。
そこで、イエスは口を開き、彼らに教えて、言われた。
「心の貧しい者は幸いです。天の御国はその人たちのものだから。
悲しむ者は幸いです。その人たちは慰められるから。
柔和な者は幸いです。その人たちは地を受け継ぐから。
義に飢え渇く者は幸いです。その人たちは満ち足りるから。
あわれみ深い者は幸いです。その人たちはあわれみを受けるから。
心のきよい者は幸いです。その人たちは神を見るから。
平和をつくる者は幸いです。その人たちは神の子どもと呼ばれるから。
義のために迫害されている者は幸いです。天の御国はその人たちのものだから。
わたしのために人々があなたがたをののしり、迫害し、ありもしないことで悪口を浴びせるとき、あなたがたは幸いです。
喜びなさい。喜びおどりなさい。天ではあなたがたの報いは大きいから。あなたがたより前にいた預言者たちを、人々はそのように迫害したのです。
*いのちの冠…将来の千年王国で受ける報酬
12節によれば、外側から襲ってくる試練の中での霊的戦いに勝利した者に与えると、主が約束された冠です。
黙示録では、患難時代の殉教者たちにも、同じ冠が与えられることが約束されています。
黙示録2:10ーあなたが受けようとしている苦しみを恐れてはいけない。見よ。悪魔はあなたがたをためすために、あなたがたのうちにある人たちを牢に投げ入れようとしている。あなたがたは十日の間苦しみを受ける。死に至るまで忠実でありなさい。そうすれば、私はあなたにいのちの冠を与えよう。
幸いにも、『殉教』はこの冠を受けるための唯一の方法ではありません。
『いのちの冠』は、キリストの御座の裁きで与えられる五つの冠の中の一つです
これらの冠は、外側からの試練の苦しみに耐え、神に知恵を祈り求め、忍耐を持って試練を乗り越えた信者に、キリストの御座の裁きにおいて与えられます。
それは、神に『良しと認められた時』『信仰のテストが終わった時』です。
この冠の目的は、受取人がキリストの王国(千年王国)で行使する権限の程度を決めるためのものであり、千年王国のどこで、どのようにキリストとともに支配するのかを決めるためです。
これは福音書には記されてないイエスの約束であり、異父兄弟のヤコブに知らされた約束です。
主イエスを本当に愛する人々は、忍耐強く外側からの試練に耐え抜きます。
このような人々には、この世において『内側の幸せ』が保証され、千年王国という次の世で『いのちの冠』が保証されています。
このような報酬は、この世での霊的生活の活力となります。
(2)内側から起こる誘惑ー否定的
外側から来る『試練』が、信者を聖化へと導くためのものであるのに対し、内側からの『誘惑』は信仰のテストに落とすためにサタン😈が用いるものです。
ヤコブ1:13ーだれでも誘惑に会ったとき、神によって誘惑された、と言ってはいけません。神は悪に誘惑されることのない方であり、ご自分でだれを誘惑なさることもありません。
ここでヤコブははっきりと『誘惑は神から来るのではない』 と否定しています。なぜなら『神は悪に誘惑されることのない方であり、ご自分でだれを誘惑なさることもない』からです。
*誘惑なさることはない…誘惑不可能、の意。
ヤコブの議論は神のご性質に基づくものであり、神は悪に立つことはなく、悪に誘惑されることもなく、悪とはまったく無縁のお方だということです。
神が信仰のテストとして『試練』を送られる時、神は信者を悪へと誘惑することが目的ではありません。神は信者に罪を犯させるようなことはなさいません。そのため、人は『神によって誘惑された』と言うことはできないのです。
ヤコブ1:14ー人はそれぞれ自分の欲に引かれ、おびき寄せられて、誘惑されるのです。
*人はそれぞれ自分の欲に引かれ…内側からの誘惑の起源は『人』にあります。
*引かれ…餌によって誘われる、の意。
*おびき寄せられ…釣りのフックのように罠で誘惑する、の意。欲に惑わされることを強調しています。
14節が現在形で書かれているのは、誘惑が絶え間なく襲って来ては、信者を罪に誘い込もうとするからです。ある時 誘惑に対し勝利できたとしても、いつも勝利できるとは限らないので、信者は常に用心する必要があります。
ヤコブ1:15ー欲がはらむと罪を生み、罪が熟すると死を生みます。
ここでヤコブは、罪の誘惑と結果を妊娠、出産に例えて説明しています。
*欲がはらむと…誘惑の大元は外側にあるのではなく、自分自身の内側に持つ『欲望』にあります。
*罪を生みます…その『欲望』の始まりは『欲求』にあり、無意識のうちに『おびき寄せられる』こともあります。しかしその『欲望』が『誘惑』に変わり、意志が同意すると『罪』となります。罪は一度生まれたら、いのちがあるかのように成長し続けます。
*死を生みます…罪が完全な成長を遂げると『罪の成熟期』となり、死をもたらします。
1コリント15:3~4の福音を信じた者は、たましいの救いを得ており、それを失うことはありません。
1コリント15:3~4ー私があなたがたに最もたいせつなこととして伝えたのは、私も受けたことであって、次のことです。キリストは、聖書の示すとおりに、私たちの罪のために死なれたこと、
また、葬られたこと、また、聖書の示すとおりに、三日目によみがえられたこと、
しかし信者であっても罪に陥ります。悔い改めと罪の告白によってその罪を終わらせない限り、罪の結果として肉体的な死にいざわなれることがあります。箴言7章や1コリント5:1~5には、不品行の罪を犯した信者の例が記されています。
愚か者を懲らしめるための足かせのように、
ただちに女につき従い、
ついには、矢が肝を射通し、
鳥がわなに飛び込むように、
自分のいのちがかかっているのを知らない。
1コリント5:5ーこのような者をサタンに引き渡したのです。それは彼の肉が滅ぼされるためですが、それによって彼の霊が主の日に救われるためです。
欲望に意志が同意すると罪を生み、罪が成長を遂げると死を生むのです。
信者にとっては『肉体の死』ですが、不信者にとってそれは『永遠の死』を意味します。
【肉体の死へ至らせるプロセス】
①欲望。
②はらむ…欲望が誘惑となる時
③罪が生まれる…罪の行為
④成長…罪の常習化
⑤死…罪が熟すと『死』というもう一つの結果をもたらす
人間は信者であろうとなかろうと、この『誘惑』のプロセスに会います。
しかし、信者だけがどの時点でも、この『誘惑』に打ち勝つ霊的力を持っています。
1ヨハネの手紙1:9ーもし、私たちが自分の罪を言い表すなら、神は真実で正しい方ですから、その罪を赦し、すべての悪から私たちをきよめてくださいます。
ヤコブ1:16ー愛する兄弟たち。だまされないようにしなさい。
*愛する兄弟たち…ヤコブ書の区分の特徴は、『私の兄弟たち』『愛する兄弟たち』というユダヤ人信者である読者に向けた呼びかけ。
*だまされないようにしなさい…主題の提示。ヤコブは信者であるユダヤ人たちに、だまされたり、堕落しないように警告しています。
誘惑の本当の源と、その対処における信者の責任は重要です!
信者は、罪に陥った自分の決定の全責任をとらなくてはなりません。
ヤコブ1:17ーすべての良い贈り物、また、すべての完全な賜物は上から来るのであって、光を造られた父から下るのです。父には移り変わりや、移り行く影はありません。
*すべての良い贈り物、完全な賜物… 良いものの源は、神にあります。
*良い…役に立つ、有益である、の意。
*完全な…完璧な、何一つ欠けのない、の意。
*上から来る…地上からではなく、天上から来ることを意味。
この節も現在形のため、これらの良い贈り物が上(神)から絶えず次々と下り、果てしなく継続するということを強調しています。
ヤコブ1:18ー父はみこころのままに、真理のことばをもって私たちをお生みになりました。私たちを、いわば被造物の初穂にするためなのです。
*みこころのままに…真理のみことばによって、の意。
罪が死を生み出すのに対して、神はみこころのままに(ご自身の意志をもって)霊的ないのちを生み出されます。
ローマ10:17ーそのように、信仰は聞くことから始まり、聞くことは、キリストについてのみことばによるのです。
1コリント4:15ーたといあなたがたに、キリストにある養育係が一万人あろうとも、父は多くあるはずがありません。この私が福音によって、キリスト・イエスにあって、あなたがたを生んだのです。
・恵み…神はすべての人の救いのために御子を遣わされた。
・信仰による決心…福音を受け入れ、御子を信じる。
・救い…神は、信仰による応答した者を選ばれる。
人間の自由意志が奪われた救いは、もはや救いではありません。
*私たちをお生みになりました…上から来るもう一つの良い贈り物は、信者の救いである『新しい国』での誕生です。
*被造物の初穂…信者のポジション。ヤコブが特に『一世紀のユダヤ人信者たち』にこの手紙を書いているということを考慮すると、『初穂』とは当時のユダヤ人信者(メシアニックジュー)を指すと理解できます。現在の異邦人信者を指しているという解釈より、当時のユダヤ人信者を指して『初穂』と解釈する方が自然でしょう。
聖書全体の中での『初穂』という概念は、より多くの者が後に続くという意味があります。
1コリント15:20ーしかし、今やキリストは、眠った者の初穂として死者の中からよみがえられました。
*キリストは『復活の初穂』であり、キリストを信じる者(旧約時代は、聖書の神を信じる者)がキリストの後に続く復活を遂げることになります。
1コリント16:15ー兄弟たちよ。あなたがにすすめます。ご承知のように、ステパナの家族は、アカヤの初穂であって聖徒たちのために熱心に奉仕してくれました。
黙示録14:4ー彼らは女によって汚されたことのない人々である。彼らは童貞なのである。彼らは、小羊が行く所には、どこにでもついて行く。彼らは、神および小羊にささげられる初穂として、人々の中から贖われたのである。
*携挙により、教会時代の信者たちが全員挙げられた後の地上で、患難時代に救われる人々の『初穂』となるのが、14万4千人のユダヤ人たちであり、彼らの伝道を通して世界規模のリバイバルが起こります。
新約聖書の書簡のみことばだからといって、何でもかんでもすべて私たち現代の異邦人信者に当てはめて理解するのではなく、書かれた当時の背景をよく吟味しながら『第一義的意味』を掴むことが大切です。
ヤコブの手紙のテーマは『信仰の証明』です。
信仰は、神のみことばに対する応答によって試されます。
ヤコブ1:19ー愛する兄弟たち。あなたがたはそのことを知っているのです。しかし、だれでも、聞くには早く、語るにはおそく、怒るにはおそいようにしなさい。
*知っている…ヤコブは『知っていること』として、三つの概念を述べています。
①手紙の受取人であるユダヤ人信者たちは、『聞くには早く』なる必要があります。
神のみことばを熱心に聞き、理解する準備を必要としています。
当時は、すべての信者や信者の家族単位でさえ、聖書の写しを持つことは不可能でした。そのため、みことばは暗記され、暗唱されました。初代教会では信仰の歩みに対する指示を聞くのと同じくらい、みことばの暗唱がなされました。ヤコブがこの書簡を書いた時点では、新約聖書はまだ何も書かれていなかったため、このことは特に重要でした。
ユダヤ教会堂でも同じように、律法の書が読まれ、説明されることにより、聴衆はみことばを理解し、律法を守るように努めていました。
ネヘミヤ記8:8ー彼らが神の律法の書をはっきりと読んで説明したので、民は読まれたことを理解した。
信者たちがみことばの朗読とその解釈を聞きに集まった時、弟子訓練のスタートは『みことばを聞く』ことからのため、彼らは早く聞く体制に入るように準備し『聞くには早い者』である必要がありました。
②彼らは『語るにはおそく』なければなりませんでした。
彼らが聞いたことを完全に理解する時間を取ることなく、早急に話さないように注意を払う必要がある、という意味。
聞いたことに対し、よく吟味する必要があるということです。
ルカはこの点において、ベレヤのユダヤ人信者たちを次のように記しています。
使徒17:11ーここのユダヤ人は、テサロニケにいる者たちよりも良い人たちで、非常に熱心にみことばを聞き、はたしてそのとおりかどうかと毎日聖書を調べた。
ユダヤ人の会衆は、組織化されず、自由な傾向があったため、みことばの読み手が大声で朗読している間に、談話し始めることは容易でした。みことばが朗読される際、彼らに必要だったのは『敬虔な沈黙』でした。
③彼らは『怒るにはおそく』ある必要がありました。
みことばに対して、またみことばが要求することに対して、憤慨したり、怒りを抱いてはならない、という意味。
ヤコブ1:20ー人の怒りは、神の義を実現するものではありません。
*人の怒りは、神の義を実現するものではありません…これら『三つの概念』が必要である理由。
『神の義』は、旧・新約聖書のゴールです。ここで言う『神の義』は、神の御前にまっすぐであることを意味し、日常生活における神を敬う『義』であり、その『義』を正当化する行いのことです。
ヤコブ1:21ーですから、すべての汚れやあふれる悪を捨て去り、心に植えつけられたみことばを、すなおに受け入れなさい。みことばは、あなたがたのたましいを救うことができます。
使徒17:11ーここのユダヤ人たちは、テサロニケにいる者たちよりも良い人たちで、非常に熱心にみことばを聞き、はたしてそのとおりかどうかと毎日聖書を調べた。
1テサロニケ2:13ーこういうわけで、私たちとしてもまた、絶えず神に感謝しています。あなたがたは、私たちから神の使信のことばを受けたとき、それを人間のことばとしてではなく、事実どおりに神のことばとして受け入れてくれたからです。この神のことばは、信じているあなたがたのうちに働いているのです。
神の『みことばを受け取る』二つの意味。
①否定的…『すべての汚れやあふれる悪を捨て去る』必要があるということ。
*すべての汚れ…文字通り『埃や汚物』を意味。比喩的に、欲望と悪に対する情熱、不道徳、不純物など、道徳的に違反するすべての事柄を指す。
信者は、あふれる悪、豊富な悪、すべての悪(不正)を取り除かなくてはなりません。もし、不正が隠蔽されるなら、信者はみことばも日常生活の感謝も受け取ることができなくなります。
*捨て去る…衣服などを『剥ぎ取る』という意味。
ヤコブは『すべての汚れやあふれる悪を捨て去る』ことを、救いの必要条件としてではなく、弟子訓練におけるみことばを受け取るための必要条件としています。
②肯定的…みことばはあなたがたのたましいを救うことができます。
『みことばに聞き従う』という姿勢で、みことばが語るメッセージに耳を傾ける必要があります。
*すなおに…みことばを受け取る方法。みことばに対する心の姿勢。よく教えを聞こうとする姿勢。
みことばを教える人も聞く人も、妥協したり、その本来の意味を変えようとしたりするのではなく、みことばが言わんとすることに対し、自分自身を服従させなくてはいけません。
なぜなら『みことばはたましいを救うことができる』からです。最初に信じた瞬間に、新しく生まれた心に植え付けられ、根を張って成長するからです。心で保存されたみことばは、たましいに受け入れられて成長します。それにより『心に植え付けられたみことばが、たましいを救うことができる』のです。
ヤコブ1:22ーまた、みことばを実行する人になりなさい。自分を欺いて、ただ聞くだけの者であってはいけません。
これは大切な命令です。みことばを受け入れた後は、積極的にみことばに聞き従い、行動に移さなくてはなりません。
*聞くだけの者… 『〜だけ』という言葉を用いて、信者にとってみことばの『聞き手』であること、『聞くには早く』あることは必要であると同時に、そこに止まっていてはいけないということです。なぜなら『聞くだけの者』は、みことばの命令や指導には従わないからです。『聞くだけの者』は、自分勝手な間違った推測をして自分を欺くことになるからです。
*欺く…『分別のない』もしくは『間違った推測』を意味。
『聞くだけの者』は、自分の怠惰な姿勢を敬虔として正当化するという罪を犯しています。
ヤコブ1:23ーみことばを聞いても行わない人がいるなら、その人は自分の生まれつきの顔を鏡で見る人のようです。
みことばをただ聞くだけの、実行しない者は、鏡に映る自分の欠陥を見る者に似ています。
*鏡…小さな手鏡、の意。
当時の手鏡は、よく磨かれた真鍮、銀、または金などが用いられていました。現代の物とは違い、それらは鮮明に映し出すことはできませんでしたが、自分の欠点を見つけるには十分な役割を果たしていました。
1コリント13:12ー今、私たちは鏡にぼんやり映るものを見ていますが、その時には顔と顔とを合わせて見ることになります。今、私は一部分しか知りませんが、その時には、私が完全に知られているのと同じように、私も完全に知ることになります。
『聞くだけの者』は、自分をながめてから立ち去ると、自分がどのようだったかすぐに忘れてしまうのです。髪を直すのか、シャツを入れるのか、気づいたのにも関わらず何もせずに過ごすことになるのです。
ヤコブ1:24ー自分をながめてから立ち去ると、すぐにそれがどのようであったかを忘れてしまいます。
*自分をながめて…ちょっと見るというのではなく、自分に直すところはないか点検するようにじっくり見るという意味。
〜三つのキーワード〜
①見る…『注意して見る』という言葉が使われています。『見る』ことにより、何をすべきか『行動』が決まります。
②去る…完了形が用いられています。その人が行動を起こすことなく、それまでの『見る』という行動から去ること。
③忘れる…その人がもう鏡の前にはいないことを強調。そのため、すべての自分の欠点を忘れてしまうということ。
ヤコブ1:25ーところが、完全な律法、すなわち自由の律法を一心に見つめて離れない人は、すぐに忘れる聞き手にはならないで、事を実行する人になります。こういう人は、その行いによって祝福されます。
*実行する人…みことばに対する従順は、自然な応答として起こる行動。実行する人にとって、みことばは『自由の律法』です。
*見つめて離れない人…より注意深く『見る』ために『かがんで見る』という意味。また『凝視し続ける』『目を釘付けにする』『注視する』という意味。
みことばを『聞くだけの者』は、鏡を出して自分の欠点を確認するだけですが、『実行する者』は、日常のことから少し離れ、鏡で自分自身をよく点検し対処しようとします。それが『みことばを実行する者』の適用であり、そういう人は『完全な律法を一心に見つめている人』です。
古い金属製の鏡とは対照的に、神のみことばの鏡は、霊的な不完全さを鮮明に映し出すことができます。
神のみことばは、自由をもたらす完全な律法、自由の律法と呼ばれています。
ヨハネ8:32ーそして、あなたがたは真理を知り、真理はあなたがたを自由にします。
それは『モーセの律法』ではなく、『キリストの律法』です。
ローマ8:2ーなぜなら、キリスト・イエスにあるいのちの御霊の原理が、罪と死の原理からあなたを解放したからです。
*こういう人は、その行いによって祝福されます…みことばを行うことによって祝福され、将来も祝福されるのです。自らすすんで神の意志を行うことは、本当の幸せ秘訣です。
ヤコブ1:26ー自分は宗教に熱心であると思っても、自分の舌にくつわをかけず、自分の心を欺いているなら、そのような人の宗教はむなしいものです。
*宗教…神に対して畏怖の念を持っている人、の意。
表面的で儀式的なパフォーマンスを強調する『虚しい宗教』。
*くつわをかける…導く、くつわで抑制して保つ、の意。
いくら儀式的に宗教熱心に見えても、自分の舌を制御することはできません。そういう人は、周囲に思われているほど信仰深くないことを示し、自分を欺いているとヤコブは述べています。
*むなしい…七十人訳聖書では、異教徒の偶像や偶像崇拝者に対して用いられていることば。
儀式的な宗教の単なる従順は、実を結ばす、むなしく、意味のないものです。神や人の前に価値を持たないので、宗教が意図するゴールに礼拝者を導くことはできません。
ヤコブ1:27ー父なる神の御前できよく汚れのない宗教は、孤児や、やもめたちが困っているときに世話をし、この世から自分をきよく守ることです。
一方、本当の宗教は、常に神の基準と調和しています。
神は神として、信者の宗教的実践を評価します。親子関係に置いてもそうであるように、御父は神として、子どもとなった信者をとても愛しておられ、子どもたちの関心事から目を離さずにおられます。
本当の宗教は、表面的にも内面的にも調和がとれたものです。
*訪問する…ちょっと訪れる、行って見て来る、の意。
具体的に孤児ややもめたちの世話をするために訪ねて行くことは、古いユダヤ人のならわしでした。当時の孤児ややもめは、社会を代表する貧困層であり、モーセの律法で特別に保護されていました。出エジプト記22:21~22、申命記10:18、27:19
*この世…ギリシャ語:コスモス…神の支配下ではなく、サタンの支配下における世界のシステムを指す。
本当の宗教は、舌を制御し、母子家庭ややもめを訪ね、世の汚れからきよく守るという態度によって明らかにされます。
それに対し、『聞くだけの者』は、神が要求されることから遠く離れているのです。
*きよく守る…この世との接触から汚されることのない状態でいることを意味。
ヤコブの手紙は、イスラエル国外に離散しているメシアニックジューに宛てた書ですが、私たち異邦人信者も信仰の成長の上で多くのことを学べますね。