ヤコブ2:1ー私の兄弟たち。あなたがたは私たちの栄光の主イエス・キリストを信じる信仰を持っているのですから、人をえこひいきしてはいけません。
*私の兄弟たち…新しいセクションに入ることを示す書き出し。
『私の兄弟たち』と呼んでいることから、受取人たちも信者であることを示しています。
*栄光の主…復活のイエスの現われが、ヤコブにとってどれほどの説得力があったのかを示しています。
1コリント15:7ーその後、キリストはヤコブに現れ、それから使徒たち全部に現れました。
*信仰…福音としてよく知られる内容を指し、それは以下のことです。
1コリント15:3~4ー私があなたがたに最もたいせつなこととして伝えたのは、私も受けたことであって、次のことです。キリストは、聖書の示すとおりに、私たちの罪のために死なれたこと、
また、葬られたこと、また、聖書の示すとおりに、三日目によみがえられたこと、
*人をえこひいきしてはいけません…文字通りの意味は『人をかたよって見てはならない』の意。
言い換えると『人を差別することによって、信仰を妥協してはいけない』ということ。
レビ記19:15ー不正な裁判をしてはならない。弱い者におもねり、また強い者にへつらってはならない。あなたの隣人を正しくさばかなければならない。
ギリシャ語本文では『えこひいきしてはいけない』ということばは、強調された位置にあります。
ヤコブ2:2ーあなたがたの会堂に、金の指輪をはめ、りっぱな服装をした人がはいって来、またみずぼらしい服装をした貧しい人もはいって来たとします。
ヤコブはここで、ごく一般的なユダヤ人信者の集まる普通の会堂=『シナゴーグ』をたとえにあげています。『シナゴーグ』ということばを使うことは、ユダヤ人信者の聞き手にとっては馴染みのある専門用語でした。
しかし、ヤコブはこの書簡の5章では『教会』ということばも用いています。
『シナゴーグ』と『教会』は別々のものではなく、『シナゴーグであり教会である』信者の公の集会であり、『シナゴーグ』は集会の場所を、『教会』はその集会に集う人々を強調することばとして用いています。
*金の指輪…たったひとつの金の指輪がはめられているのではなく、多くの指に金の指輪がはめられている様子。
*りっぱな服…『輝く服』『華やかな服』の意。
1世紀のイスラエルでは、輝くような白い衣は、裕福な人々が着ていました。
*みすぼらしい服装をした貧しい人…貧困に襲われた人、の意。
下品な言い方をすれば、『不潔である』または『粗末である』という意味で、『りっぱな服装をした人』の反対語。
ヤコブ2:3ーあなたがたが、りっぱな服装をした人に目を留めて、「あなたは、こちらの良い席におすわりなさい。」と言い、貧しい人には、「あなたは、そこで立っていなさい。でなければ、私の足もとにすわりなさい。」と言うとすれば、
*目を留めて…好みによって見る、の意。
集会では『輝くような服』に感動し、心からこの裕福な人を歓迎し「こちらの良い席におすわりなさい。」と招き、シナゴーグでの良い席を提供します。
1サムエル16:7ーしかし主はサムエルに仰せられた。「彼の容貌や、背の高さを見てはならない。わたしはかれを退けている。人が見るようには見ないからだ。人はうわべを見るが、主は心を見る。」
*そこで立っていなさい…一方で、貧しい人が入って来ると、その人は「ここに立っていなさい。」と目立たない場所にいるように言いつけます。
*でなければ、私の足もとにすわりなさい…もしくは『足のせ台』の上にではなく、『足のせ台』の下に座っているように、または足もとの床にすわっているようにと言うのです。これが特別待遇であり、差別です。
ヤコブ2:4ーあなたがたは、自分たちの間で差別を設け、悪い考え方で人をさばく者になったのではありませんか。
*差別…二種類の人々に『区別する』『分ける』の意。
ヤコブはここで二つの罪を説明しています。
*自分たちの間で差別を設け…①人を『区別』していませんか?
これらの信者たちは、主の御前で『社会的な差別で有罪』となるのです。
*悪い考えで人をさばく者になった…②彼らは自らを『裁判官』として差別しているために、ヤコブは彼らを『さばく者』と呼んでいます。彼らの判断は外側の見かけにだけよるものであり、賢明ではありません。彼らの判断は『悪い考え』に基づいたものなのです。
ヤコブ2:5ーよく聞きなさい。愛する兄弟たち。神は、この世の貧しい人たちを選んで信仰に富む者とし、神を愛する者に約束されている御国を相続する者とされたではありませんか。
金持ちへの関心と優遇、貧しい者に対する差別と無礼が、どれほど間違った判断であるかを示すために、ここで神がどう扱われているのか、本当の状況を説明しています。
*愛する兄弟たち…こう呼びかけることにより、彼らが『信者であること』とここから新しいセクションに入ることを示しています。
ここで、ヤコブは『貧しい者たち』に対して三つのことを指摘しています。
①神に選ばれた人々…ほとんどの場合、この世の貧しい人たちは『神に選ばれた人々』だということ。
金持ちも救われることがあるため、『神が貧しい人々だけを選んだ』という意味ではありません。貧困であるということに霊的メリットはないので、『神がすべての貧しい人々を選ばれた』というのでもありません。
貧しい者たちは、神の恵みに基づいて純粋に選ばれたのです。
②信仰に富む者…現在の側面。貧しい人たちは『信仰に富む者』として選ばれました。
貧しい者の富は、彼らの救いと救いの中にあるすべての恵み恵みを含みます。これらの富は、神の恵みによる富であり、この地上における位置的真理ーこの世の貧困とは対照的に霊的に裕福ーなのです。
③御国を相続する者…将来の側面。将来のメシア的王国が貧しい者たちによって、受け継がれることへの言及です。
貧しい者たちはこの『王国』に不動産権利証書を所有しているということです。
ローマ8:17ーもし子どもであるなら、相続人でもあります。私たちがキリストと、栄光をともに受けるために苦難をともにしているなら、私たちは神の相続人であり、キリストとの共同相続人であります。
ただし、『御国を受け継ぐこと』と『御国に入ること』とには違いがあります。
*すべての信者は『神の御国=千年王国』に入ります!
マタイ5:20ーまことに、あなたがたに告げます。もしあなたがたの義が、律法学者やパリサイ人の義にまさるものでないなら、あなたがたは決して天の御国に、はいれません。
*律法学者やパリサイ他人の義…モーセの律法613を守ることによる『行いによる義』。
*まさるもの…メシアであるイエスを信じる『信仰により義』。
*従順な霊的信仰生活を送る者だけが、御国を受け継ぎます!!
ガラテヤ5:19~21ー肉の行いは明白であって、次のようなものです。不品行、汚れ、好色、
偶像礼拝、魔術、敵意、争い、そねみ、憤り、党派心、分裂、分派、
ねたみ、酩酊、遊興、そういった類のものです。前にもあらかじめ言ったように、私は今もあなたがたにあらかじめ言っておきます。こんなことをしている者たちが神の国を相続することはありません。
*キリストの命令に従順な信仰の歩みをした者だけが、メシア的王国で、王であるメシアとともに支配する権限の冠を与えられ、栄光と報酬が与えられるのです。
ヤコブ2:6ーそれなのに、あなたがたは貧しい人を軽蔑したのです。あなたがたをしいたげるのは富んだ人たちではありませんか。また、あなたがたを裁判所に引いて行くのも彼らではありませんか。
*あなたがたは…強調された位置にあり、彼らの罪を強調している。
*貧しい人たちを軽蔑した… 神が貧しい人に敬意を表したのとは対照的に、貧しいひとを軽蔑したということ。
*軽蔑…上司の前で、身を低くかがませることを意味。彼らの態度は、貧しい人にさらに身を低くしてかがむように強要しています。これは、神が選び、命じた方法とは真逆です。
ヤコブは、肯定の答えを期待する疑問文を三つ投げかけます。
①あなたがたをしいたげるのは富んだ人たちではありませんか?
*しいたげる…王が下の者たちを傷つけたり、弾圧するのに権威を用いている、の意。
七十人訳では、貧困者からの搾取と貧しい者たちを強調して、このことばが使われています
②あなたがたを裁判所に引いて行くのも彼らではありませんか?
*引いて行く…裁判所に強制的に連れて行かれる、の意。
金持ちたちはユダヤ人信者たちから搾取するために、裁判所を使っていました。
ヤコブ2:7ーあなたがたがその名で呼ばれている尊い御名をけがすのも彼らではありませんか。
③あなたがたがその名で呼ばれている尊い御名をけがすのも彼らではありませんか?
*尊い…『美しい』『立派である』『素晴らしい』の意。
この美しく、立派で、素晴らしい御名『イエス』は、人類が救われるために呼び求める神の御名なのです。
使徒4:10 &12ー皆さんも、またイスラエルのすべての人々も、よく知ってください。この人が直って、あなたがたの前に立っているのは、あなたがたが十字架につけ、神が死者の中からよみがえらせたナザレ人イエス・キリストの御名によるのです。
この方以外には、だれによっても救いはありません。世界中でこの御名のほかには、私たちが救われるべき名としては、どのような名も、人間に与えられていないからです。
ローマ10:13ー「主の御名を呼び求める者は、だれでも救われる。」のです。
信者たちはキリストの御名に属しているため、彼らは『キリスト者(クリスチャン)』と呼ばれていました。彼らは『メシア』に属していたのです。
使徒11:26bー弟子たちは、アンテオケで初めて、キリスト者と呼ばれるようになった。
*けがす…ことばによる冒涜。金持ちたちは、イエス・キリストの御名を汚していたのです。
ヤコブ2:8ーもし、ほんとうにあなたがたが、聖書に従って、「あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ。」という最高の律法を守るなら、あなたがたの行ないはりっぱです。
8~11節で、著者ヤコブはどの行いが最高の律法の違反であるかを確認します。
*聖書(Spricture)…成し遂げるべき基準、を意味。
*最高の律法を守るなら…『ゴールに達するように実行する』の意。
この律法を守るというゴールに達するには、他者に敬意を払うか否かによって示されます。『最高の律法』は、モーセの十戒の一つではなく、レビ記19:18で説かれたものです。
レビ記19:18ー復讐してはならない。あなたの国の人々をうらんではならない。あなたの隣人をあなた自身のように愛しなさい。わたしは主である。
この戒律は、マルコ12:28~31で『613あるモーセの律法』の中で二番目に重要な戒めとしてイエスによって引用されました。それが『キリストの律法』『黄金律』と言われるものです。
マルコ12:28~31ー律法学者のひとりが来て、その議論を聞いていたが、イエスがみごとに答えられたのを知って、イエスに尋ねた。「すべての命令の中で、どれが一番たいせつですか。」
イエスは答えられた。「一番たいせつなのはこれです。『イスラエルよ。聞け。われらの神である主は、唯一の主である。
心を尽くし、思いを尽くし、知性を尽くし、力を尽くして、あなたの神である主を愛せよ。』
次にはこれです。『あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ。』この二つより大事な命令は、ほかにありません。」
彼らが、人を差別しないことにより、聖書の命令に従うなら『立派だ』と行いが認められます。経済的な地位により、人を差別するならば『黄金律』『キリストの律法』に違反することになります。
ヤコブ2:9ーしかし、もし人をえこひいきするなら、あなたがたは罪を犯しており、律法によって違反者として責められます。
*えこひいきする…神の義に達していないため、罪を犯すことになります。これは『黄金律』を犯すことであり、結果として罪に定められます。
ヤコブの手紙の受取手(聞き手)であるユダヤ人信者たちの多くは、キリストの十字架によりモーセの律法は無効になったにも関わらず、律法が彼らのためにまだ有効であると確信していました。
使徒21:20ー彼らはそれを聞いて神をほめたたえ、パウロにこう言った。「兄弟よ。ご承知のように、ユダヤ人の中で信仰にはいっている者は幾万となくありますが、みな律法に熱心な人たちです。
【罪と違反の区別】
罪…神の基準に足りないこと。この場合の基準は、レビ記19:18と『キリストの黄金律』。
違反…特定の戒め、命令に対する故意の違反。
新約聖書27巻の中で一番最初に書かれたのがこの書簡のため、書かれた時にはまだすべたが完全に明らかにされたわけではありませんでした。そのため、モーセの律法でさえ、彼らの行動に対し、降りな証言をして有罪判決を下すという時代でした。
ローマ2:12ー律法なしに罪を犯した者はすべて、律法なしに滅び、律法の下にあって罪を犯した者はすべて、律法によってさばかれます。
ヤコブ2:10ー律法全体を守っても、一つの点でつまずくなら、その人はすべてを犯した者となったのです。
『律法』というと『モーセの十戒』を思い浮かべる方は多いとおもいますが、実際には『613』あるのがモーセの律法です。そしてこれらの一つでも破った者は、たとえ他の612の律法を守ったとしても、『律法の違反者』となるのです。そして、律法の一つでも破ることによって、その人は律法の全てを違反した者として神から見られるということです。
ヤコブ2:11ーなぜなら、「姦淫してはならない」と言われた方は、「殺してはならない」とも言われたからです。そこで、姦淫しなくても人殺しをすれば、あなたは律法の違反者となったのです。
*なぜなら…ヤコブは、10節の理由を『律法のすべての戒律は同じ神からきている』と述べています。言い換えると、全く同一の神がこれらすべての戒律を授けたということであり、613ある全律法は同じ権威者の印が押されているということです。そのため、律法の一つにでも違反するということは、すべての律法を制定された方に対して、抵抗することになります。
これら二つの戒律の反転であり、ともに『愛の律法に違反』します。
モーセの律法は、613全てを守り行うか、メシアの十字架によりすべてを無効とするかの二者択一なのです。
ローマ10:4ーキリストが律法を終わらせられたので、信じる人はみな義と認められるのです。
ヤコブ2:12ー自由の律法によってさばかれる者らしく語り、またそのように行いなさい。
『黄金律』の原則は、メシアの律法の原則です。
*語り…ことばによって明らかにされる手段、の意。
*行いなさい…行動によって明らかにされる手段、の意。
*さばかれる者らしく…将来の出来事を指します。それは『キリストの律法』に言及し、ユダヤ人信者をモーセの律法にパリサイ派による形式主義的解釈からの解放を提供します。この『さばき』とは、信者だけが立つ『キリストの御座のさばき』であり、誰一人『有罪判決』になることはありません。
ヤコブはことばで言い表すことの証拠として、行いを強調しているため、信者はことばと行いによって示す必要があると述べています。
ヤコブ2:13ーあわれみを示したことのない者に対するさばきは、あわれみのないさばきです。あわれみは、さばきに向かって勝ち誇るのです。
*あわれみ…『キリストの律法』はあわれみに準じたさばきです。他者に対するあわれみの欠如は、自分に返ってくるということ。
ここでいう『さばき』とは、キリストの御座のさばきのことです。
Ⅱコリント5:10ーなぜなら、私たちはみな、キリストのさばきの座に現れて、善であれ悪であれ、各自その肉体にあってした行為に応じて報いを受けることになるからです。
*勝ち誇る…『自慢する』『有頂天になる』の意。
ポイントは、
*あわれみを示す…あわれみを手に入れる、の意。
*さばきを示す…判断を手に入れる、の意。
あわれみ深い神様は、信者を責めたくないと思っておられます。神はあわれみを示したいと望んでおられます。しかし、あわれみを示したことのない者は、責められる結果となるのです。
ヤコブ2:14ー私の兄弟たち。だれかが自分には信仰があると言っても、その人に行いがないなら、何の役に立ちましょう。そのような信仰がその人を救うことができるでしょうか。
*私の兄弟たち…ここからまた、新しいセクションに入ることを示す呼びかけ。
*信仰があると言っても行いがないなら…著者ヤコブの説明は、パウロの教理と矛盾しているかのように思えますが、ヤコブとパウロは二つの異なる視点から語っているということを理解すれば、何の矛盾もありません。
*言う…この人は繰り返し『信仰がある』と言っている、の意。これはその人にとっての生活習慣であり、常に口先だけで『信仰がある』と言って回っているということ。常に『信者のふり』をしていますが、彼の主張をサポートする証拠が不足した状態にあります。
*そのような信仰がその人を救うことができるでしょうか…行いの伴わない信仰が、少しでも本当に救いに導くことができると思っているのか?、の意。明らかな答えは『いいえ』です。ここでのポイントは、『救いを伴う信仰』です。
〜ライリースタディバイブルのコメント〜
“行いのない、死んだ見せかけだけの信仰が、人を救えるのか? ヤコブは、私たちは行いによって救われると言っているのではなく、行いの伴わない信仰は死んだ信仰だと言っている。ヤコブは、信仰による義を説くパウロの教理が間違いだと言っているのではなく、それを普及させようとしている。パウロとヤコブは共に、キリストを信じ、行いの伴う生きた信仰を定義している。本物の信仰は『死んでいる』ものではなく、行いの実を結ばないことはないのである。”
【異なる視点の五つの特徴】
①状況
パウロ…義とされる方法であり、律法尊重主義を打ち消していました。
ヤコブ…義とされた個人の人生に関してであり、道徳律廃棄論(神の恵みによる信仰であり、我々はもう従うべき律法も戒律もないという確信)を打ち消していました。
②『行い』という言葉の意味
パウロ…『行い』=律法の行い。
ヤコブ…『行い』=愛と信仰の表れ。
③『義』の意味
パウロ…『義』=無罪判決を意味。『律法による行い』という意味で、『義』と認められる人はだれもいないということを意味していました。
ヤコブ…『義』=弁護を意味。愛と信仰による行いによって示されなければならないという、『信仰による義』を意味していました。
④意図
パウロ…二つの『救いの方法』として、『行いによる救い』と『恵みと信仰による救い』を対比させること。
ヤコブ…二つの『信仰』として、『生きた信仰』と『死んだ信仰』を対比させること。
⑤行いの場所
パウロ…『義の手段』としての行いに反対しました。
ヤコブ…既に『義』とされた人々の生活における行いに賛成しました。
【ヤコブ書の観察における六つの注意点】
❶ヤコブの言う『義』は、救済論ではなく、『救いを知る方法』として『良い行い』へと信者の行動を促すものでした。
❷信仰と行いの間に『対立』があるのではなく、『死んだ信仰』と『生きた信仰』との間にあります。
❸パウロの主張が『教義上の目的にある』のに対し、ヤコブの主張はむしろ『実際的な目的』にあります。
❹ヤコブのポイントは、行いの伴う信仰こそ『救われた人の信仰』だということ。
❺『生きた信仰』は、行いによって証明されます。
❻『救い』に関する限り、『信仰』と『行い』は二つの対立する要素だということ。
*マタイ7:21~27の『山上の垂訓』でも、信仰と行いの原則について記されています。
ヤコブ2:15ーもし、兄弟また姉妹のだれかが、着る物がなく、また、毎日の食べ物にもこと欠いているようなときに、
ヤコブは、15節で『具体例』をあげています。
*兄弟または姉妹…その人が『信者』であることを示すことば。性的な区別をすることなく、信者に対する義務を示しています。日々の生活に困窮する兄弟、または姉妹のこと。
貧しいエルサレム教会の指導者であったヤコブにとって、これは現実的な問題でした。
使徒4:34~35ー彼らの中には、ひとりも乏しいものがなかった。地所や家を持っている者は、それを売り、代金を携えて来て、
使徒たちの足元に置き、その金は必要に従っておのおのに分け与えられたからである。
使徒6:1ーそのころ、弟子たちがふえるにつれて、ギリシャ語を使うユダヤ人たちが、ヘブル語を使うユダヤ人たちに対して苦情を申し立てた。彼らのうちのやもめたちが、毎日の配給でなおざりにされていたからである。
使徒11:29~30ーそこで、弟子たちは、それぞれの力に応じて、ユダヤに住んでいる兄弟たちに救援の物を送ることに決めた。彼らはそれを実行して、バルナバとサウロの手によって長老たちに送った。
ヤコブ2:16ーあなたがたのうちのだれかが、その人たちに、「安心して行きなさい。暖かになり、十分に食べなさい」と言っても、もしからだに必要な物を与えないなら、何の役に立つでしょう。
ここでヤコブは、『行い』の間違った対応を示します。
『死んだ信仰』の反応は、簡単に「安心して行きなさい。」と返すだけです。具体的な助けは何もありません。
*安心して行きなさい…ユダヤ人たちの別れの挨拶として一般的なことばでした。
1サムエル1:17ーエリは答えて言った。「安心して行きなさい。イスラエルの神が、あなたの願ったその願いをかなえてくださるように。」
1サムエル20:42ーヨナタンはダビデに言った。「では、安心して行きなさい。私たち二人は、『主が、私とあなた、また、私の子孫とあなたの子孫との間の永遠の証人です』と言って、主の御名によって誓ったのです。」こうしてダビデは立ち去った。ヨナタンは町へ帰って行った。
マルコ5:34ーそこで、イエスは彼女にこう言われた。「娘よ。あなたの信仰があなたを直したのです。安心して帰りなさい。病気にかからず、すこやかでいなさい。」
使徒16:36ーそこで看守は、この命令をパウロに伝えて、「長官たちが、あなたがたを釈放するようにと、使いをよこしました。どうぞ、ここを出て、ご無事に行ってください」と言った。
*暖かになり、十分に食べなさい…死んだ信仰は、裸であることに対し「暖かになりなさい」、また空腹であることに対し「十分に食べなさい」と素晴らしい言葉かけをします。その意味は、『神があなたに暖かな服と食事をくださるように』というもので、確かにその通り、神は私たちの必要を満たしてくださいます。
しかし神は、『仲間の信者を通して、必要を満たすという方法』を選ばれるのです。
『死んだ行い』の人は、困っているいる人の身体的必要を満たすのではなく、素晴らしい言葉だけを与えます。しかしここでの問題は、『行いのない信仰』です。この場合、素晴らしい言葉が『何の役に立つのか?』ということです。
ヤコブ2:17ーそれと同じように、信仰も、もし行いがなかったなら、それだけでは、死んだものです。
*それと同じように…『このように』と同じ意味。
*死んだもの…行いの伴わない信仰は、表面的に死んでいるだけでなく、内面的(霊的)にも死んでいる、いのちのないものです。救いによる信仰は、信仰の実である行いが伴うものであるため、このような信仰は本当の救いに至る信仰ではないのです。
マタイ5:14~16ーあなたがたは、世の光です。山の上にある町は隠れることができません。
また、あかりをつけて、それを枡の下に置く者はありません。燭台の上に置きます。そうすれば、家にいる人々全部を照らします。
このように、あなたがたの光を人々の前で輝かせ、人々があなたがたの良い行いを見て、天におられるあなたがたの父をあがめるようにしなさい。
ガラテヤ5:22~23ーしかし、御霊の実は、愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、
柔和、自制です。このようなものを禁ずる律法はありません。
ヤコブ2:18ーさらに、こう言う人もあるでしょう。「あなたは信仰を持っているが、私は行いを持っています。行いのないあなたの信仰を、私に見せてください。私は、行いによって、私の信仰をあなたに見せてあげます。」
*信仰と行い…信仰は目に見えず、行いは目に見えます。
*見せる…証明する、の意。
ポイントは、信仰そのものには形がなく、何も目に見えないため、行い無しに信仰があるということを証明することはできないということです。ですから、行いの伴わない『信者』は、信仰があるということを証明することができないのです。したがって、ここでは、『信仰の存在を、目に見える行いによって示しなさい』という意味です。
『行い』と『信仰』は切り離すことができません。
救いは恵みにより、信仰によってですが、救われた結果の信仰は行いを伴う信仰である必要があるのです。
ヤコブ2:19ーあなたは、神はおひとりだと信じています。りっぱなことです。ですが、悪霊どももそう信じて、身震いしています。
*神はおひとりだ…おそらく、この節は有名な “Shema Israel(イスラエルよ。聞け。)” で始まる申命記のみことばの引用であると思われます。
申命記6:4ー聞きなさい。イスラエル。主は私たちの神。主はただひとりである。
これは、正統派ユダヤ人の信仰の基本的なものです。
一世紀のヤコブの時代の礼拝において、ユダヤ人信者に復唱されていたものであり、今日の礼拝においても多くのユダヤ人信者によって復唱されている聖句です。
*悪霊どももそう信じて…すべての悪霊どもも、神はおひとりだけだと信じています。
マルコ1:23~24ーすると、すぐにまた、その会堂に汚れた霊につかれた人がいて、叫んで言った。
「ナザレの人イエス。いったい私たちに何をしようというのです。あなたは私たちを滅ぼしに来たのでしょう。私はあなたがどなたか知っています。神の聖者です。」
*身震いして…文字通りのギリシャ語は、『表面がザラザラした』『逆立つ』という意味であり、悪霊たちがおひとりの神に直面する時の反応を示すことば。
髪が逆立ち、鳥肌が立つような恐怖を感じている様子を想像できます。
行いの伴わない信仰は、たとえ正しい神学であっても、何の役にも立たないのです。
ヤコブ2:20ーああ愚かな人よ。あなたは行いのない信仰がむなしいことを知りたいと思いますか。
*愚かな…虚しい、の意。
霊的な歩みではなく、救いという点に関しては、何ももたらさない、の意。
それは何も生み出すことができず、道徳的な感覚が欠如した状態。
*知りたいと思いますか…知ろうとする意思はありますか?、の意。
ヤコブ2:21ー私たちの父アブラハムは、その子イサクを祭壇にささげたとき、行いによって義と認められたではありませんか。
*私たちの父アブラハム…ユダヤ人たちが日常的に用いるフレーズ。
ここで改めてこの書簡がユダヤ人信者によって、ユダヤ人に向けて書かれたことを証明しています。パウロもまた、ユダヤ人としての背景を明らかにするのに同じ表現を用いています。
ローマ4:16~17ーそのようなわけで、世界の相続人となることは、信仰によるのです。それは、恵みによるためであり、こうして約束がすべての子孫に、すなわち、律法を持っている人々にだけでなく、アブラハムの信仰にならう人々にの保証されるためなのです。
「わたしは、あなたをあらゆる国の人々の父とした」と書いてあるとおりに、アブラハムは私たちすべての者の父なのです。
このことは、彼が信じた神、すなわち死者を生かし、無いものを有るもののようにお呼びになる方の御前で、そうなのです。
ガラテヤ3:7ーですから、信仰による人々こそ、アブラハムの子孫だと知りなさい。
ガラテヤ3:29ーもしあなたがたがキリストのものであれば、それによってアブラハムの子孫であり、約束による相続人なのです。
ヤコブ2:22ーあなたの見ているとおり、彼の信仰は彼の行いとともに働いたのであり、信仰は行いによって全うされ、
ここでは、創世記22章の『アブラハムの行い』が、彼の信仰を全うしたと記されています。
*あなたの見ているとおり…当然の結論、または推論。
*信仰は行いによって全うされ…この節も、信仰と行いは切り離すことができないことに強調点があり、信仰が先にあったことを意味しています。
『全うされた』とは、文字通り『完成された』という意味です。
ヤコブ2:23ーそして、「アブラハムは神を信じ、その信仰が彼の義とみなされた」という聖書のことばが実現し、彼は神の友と呼ばれたのです。
*聖書のことばが実現し…ある意味、これはアブラハムの信仰が、行いによって成熟、または完成に至るという将来を予告する要素を示します。
実現する特定の箇所は、
創世記15:6ー彼は主を信じた。主はそれを彼の義と認めた。
創世記22:1~18ー一人息子イサクをささげる。
*義とみなされた…数える、計算する、という意味。その人の信用度を意味する。
行いの伴う信仰の結果は、アブラハムは以前にも増して神に近い者とされ、『神の友』として知られるようになりました。
Ⅱ 歴代誌20:7ー私たちの神よ。あなたはこの地の住民をあなたの民イスラエルの前から追い払い、これをとこしえにあなたの友アブラハムのすえに賜ったのではありませんか。
イザヤ41:8ーしかし、わたしのしもべ、イスラエルよ。
わたしが選んだヤコブ、
わたしの友、アブラハムのすえよ。
ヤコブ2:24ー人は行いによって義と認められるのであって、信仰だけによるのではないことがわかるでしょう。
*行いによって義とされる…行いが、信仰によって救われていることを証しする、の意。
ヤコブ2:25ー同様に、遊女ラハブも、使者たちを招き入れ、別の道から送り出したため、その行いによって義と認められたではありませんか。
ここでヤコブは、行いによって義とされる一つの例をあげています。
*同様に…最初のアブラハムの例に続く、二つ目の例をあげ、同じ真理を教えています。
*遊女ラハブ…ラハブのタイトル。信者になる前の彼女の職業に起因しています。
ヨシュア記2:1ーヌンの子ヨシュアは、シティムからひそかにふたりの者を斥候として遣わして、言った。「行って、あの地とエリコを偵察しなさい。」彼らは行って、ラハブという名の遊女の家に入り、そこに泊まった。
ラハブの特筆すべき行いは、斥候たちを招き入れた中に見られる彼女の信仰です。ギリシャ語では、ラハブは斥候たちを歓迎し、もてなしたという意味になります。ラハブの信仰は、自分の民であるエリコの町のカナン人に対する反逆でしたが、二人はただの斥候ではなく、彼女と彼女の家族に対する神の遣いだと認識する信仰だったということです。
また、彼女の信仰には、二人の斥候を別の道から送り出したという行動が伴いました。
ヨシュア記2:1~22
ヤコブ2:26ーたましいを離れたからだが、死んだものであるのと同様に、行いのない信仰は、死んでいるのです。
*たましいを離れたからだが、死んだもの…聖書的には、人間の死とは『たましいとからだの分離』です。人間の物質的な部分と、非物質的な部分が分離した時、肉体の死となります。
同じように、行いのない信仰は、死んだ信仰だとヤコブは言っています。
信仰から行いが離れた結果、霊的に死んだ信仰、救いに至らない信仰であり、救いに至る信仰は行いの伴う信仰だということです。それはまた、救い主であるキリスト・イエスに服従するか否かということです。
人の救いに必要なのは、キリストを信じ、信頼するということです。
そして、キリストを信じるというのは、1コリント15:3~4でパウロが最もたいせつなこととして伝えたこと、『キリストは私たちの罪のために死なれたこと、葬られたこと、そして聖書の示すとおりに三日目によみがえられたこと』です。
本当にこの福音を信じ、救いを得た者は、必ず信仰による行いが伴うのです。