マタイ12:31~32ーだから、わたしはあなたがたに言います。人はどんな罪も冒瀆も赦していただけます。しかし、聖霊に逆らう冒瀆は赦されません。
また、人の子に逆らうことばを口にする者でも、赦されます。しかし、聖霊に逆らうことを言う者は、だれであっても、この世であろうと次に来る世であろうと、赦されません。
私の今までの理解は、『聖霊の働きを単なる “偶然” としているうちは、キリスト・イエスを信じるには至らないので、そのまま肉体の死を迎えたときに救いのチャンスを永遠に失い、今の世においても、千年王国においても(もちろん永遠の御国においても)赦されることなく、永遠の滅びである燃える火と硫黄との池に入れられる。』というものでした。
その解釈は間違いではありません。しかし、それは『第二義的解釈』でした。
イエスがこう話される少し前に、パリサイ人たちとの『ベルゼブル論争』があり、第一義的な意味としては、この発言は『ベルゼブル論争』と関係した中で、『この時代のユダヤ人』に適応して述べられたものと理解するべきものです。
地上諸国の中から神が選び、ご自分の民として『律法と預言書』という啓示を与えられ、罪の滅びから贖い出すために与えられた神のひとり子メシアの初臨を拒んだ『世代』に対する裁きの預言なのです。
メシアの初臨をイスラエルの指導者がきちんと見極め、民をメシアを受け入れるように指導し、民が揃ってメシアとして来られたイエスを信じ、受け入れたのなら、彼らが待ち望んでいた『メシア的王国』はすぐにも『その世代』に与えられるはずでした。
もちろんイエスは罪ある人々のために十字架の贖罪の死と復活を経なければなりませんでしたが、復活後すぐに『第二神殿』に『王の王』として着座されるだけでよかったのです。そのため『第二神殿』は主の命令によって建設されたのに、『シャカイナグローリー』は戻って来なかったのです。
それは後に『シャカイナグローリー』そのものである神の御子が、第二神殿に入るためです。第二神殿は、御子を迎え入れる『器』として存在していればよかったからです。
ベルゼブル論争の結果、イスラエルの民はバプテスマのヨハネがメシアを迎えるための道備えをしたにも関わらず、パリサイ人たちの誤った指導を、自分たちの見たこと、経験したことを検証することなく鵜呑みにし、救いにあと一歩まで近づいていながらメシアを拒否したのです。イエスは当時の指導者たちを次のように糾弾しています。
マタイ23:13ーしかし、忌まわしいものだ。偽善の律法学者、パリサイ人たち。あなたがたは、人々から天の御国をさえぎっているのです。自分もはいらず、はいろうとしている人々をもはいらせないのです。
しかし、神はこの『世代』をすぐに裁かれたのではありません。
イエスが十字架につかれたのが、AD30年。エルサレムの神殿と町が、ローマ軍により崩壊されたのは、AD70年。つまり『試みの数』と言われる『40』年の間、この『世代』の悔い改めの機会と時間を与えてくださいました。
十字架の死から復活し『40』日間、復活のからだを弟子たちに示して励まされ、人々が見ている前で天に上り、ペンテコステには『もうひとりの助け主』として聖霊を送られ、使徒や弟子たちを通して福音を語らせ、ユダヤ人だけでなく異邦人にも福音を伝え、救われる者を多く起こしてくださいました。
この『世代』が、この『40』年の間に救われるためには、何をしなければならないかを、使徒の働き2:14~39でペテロが宣べています。その中で彼は、ふたつのことを命じています。cf 使徒2:38
①悔い改めなさい。…悪霊のかしら『ベルゼブル』と呼ばれているイエスを、『メシア』だと考え方を変えなさい。
②イエス・キリストの名によってバプテスマを受けなさい。…『ベルゼブル論争』のユダヤ教の指導者の意見を受け入れた『同世代』から、『イエス・キリストの名によるバプテスマ』を受けて、彼らから分離しなさい。
なぜなら、AD70年には『神殿崩壊』『エルサレム滅亡』という裁きが迫っているからです。ヘブル人への手紙は、ペテロのこのような伝道を伝え聞いたことにより、ユダヤ教からキリスト教に回心した『この世代』が、迫害の中で再び形だけでもユダヤ教に戻ろうと考えていた人々に、AD70年の裁きに巻き込まれないようにと警鐘を与えるものだったのです。
ヘブル6:4~6ー一度光を受けて天からの賜物の味を知り、聖霊にあずかる者となり、
神のすばらしいみことばと、後にやがて来る世の力とを味わったうえで、
しかも堕落してしまうならば、そういう人をもう一度悔い改めに立ち返らせることはできません。彼らは、自分で神の子をもう一度十字架にかけて、恥辱を与える人たちだからです。
*この箇所は『難解』とされていますが、ヘブル人への手紙の受取人たちがこの時ユダヤ教に戻り、いけにえを捧げに神殿に行く生活になれば、AD70年の裁きに巻き込まれることになるということです。それは彼らはメシアを信じる信仰により霊的には救われてはいますが、肉体的には神殿崩壊と運命を共にすることを意味します。
*霊的な救いを失うことはありませんが、肉体的な救いのために御子が再び十字架にかかることはないのです。
『救い』というと、私たちはすぐに『霊的救い』のことを思います。しかし聖書が伝えている『救い・助け』(ギリシャ語:ソゾ)には、二つの意味があります。
『霊的救い』と『肉体的救い』です。この二つの意味を混同するからこそ、異邦人による様々な解釈が生まれてしまうのです。
【肉体的救い・助け】
大暴風からの助け。
マタイ8:25ー「主よ。助けてください。私たちはおぼれそうです。」
使徒27:20ー太陽も星も見えない日が幾日も続き、激しい暴風が吹きまくるので、私たち助かる最後の望みも今や絶たれようとしていた。
ガリラヤ湖で沈みそうになった時。
水の上を歩くペテロ 〜マタイ14:22~34〜 - サザエのお裾分け
マタイ14:30ーところが、風を見て、こわくなり、沈みかけたので叫び出し、「主よ。助けてください。」と言った。
十字架からの救い。
ヨハネ12:27ー今わたしの心は騒いでいる。何と言おうか。『父よ。この時からわたしをお救いください。』と言おうか。いや。このためにこそ、わたしはこの時に至ったのです。
【霊的救い】
ヨハネ3:17ー神が御子を世に遣わされた、世をさばくためではなく、世が救われるためである。
ヨハネ12:47ーだれかが、わたしの言うことを聞いてそれを守らなくても、わたしはその人をさばきません。わたしは世をさばくために来たのではなく、世を救うために来たからです。
使徒4:12ーこの方以外には、だれによっても救いはありません。世界中でこの御名のほかには、私たちが救われるべき名としては、どのような名も、人間には与えられていないからです。
1コリント5:5ーこのような者をサタンに引き渡したのです。それは彼の肉が滅ぼされるためですが、それによって彼の霊が主の日に救われるためです。
こうして、メシア初臨の『世代』からは『メシア的王国(千年王国)』は取り去られ、再びユダヤ人に『メシア的王国』への招きが与えられるのは、患難時代ということになります。そのときには、患難時代を生き延びたユダヤ人全員が悔い改めて、イエスをメシアと信じ、受け入れ、「祝福あれ。主の御名によって来られる方に。」と言う時、彼らの祈りに応えて、イエスの地上再臨が起こるのです。
ローマ11:26ーこうして、イスラエルはみな救われる、ということです。
聖霊の導きにより、みことばの時代背景、文脈によって、正しく解釈することができますように。