ヘブル10:32ーあなたがたは、光に照らされて後、苦難に会いながら激しい戦いに耐えた初めのころを、思い起こしなさい。
*初めのころ…受取人たちが初めて信者になった頃のこと。初めて光に照らされた頃であり、初めて真実をとらえ、救われた頃のこと。
ヘブル6:4ー一度光を受けて天からの賜物の味を知り、聖霊にあずかる者となり、
ここで著者は、彼らが救われたばかりの期間に限定しています。それは、彼らが初めて信者になった頃、本当の信者として苦難によく耐えていたからです。
*思い起こしなさい…単に『思い出す』という意味ではありません。
ギリシャ語:『注意深く振り返る』の意。
彼らが大胆に示していた過去の現実を思い出し、記憶にとどめておくことを意味する言葉。
背教に対する最初の抑止力は、信仰を持ったばかりの頃を思い起こすことです。
ヘブル10:33ー人々の目の前で、そしりと苦しみとを受けた者もあれば、このようなめにあった人々の仲間になった者もありました。
著者は、受取人たちの苦しみの二つの側面ー直接的と間接的ーをあげています。
①直接的苦しみー『人々の目の前で、そしりと苦しみとを受け』…彼らが個人的に苦しんだもの。
*人々の目の前で…これらのユダヤ人信者を、舞台に連れて来られ、嘲られる道化師のように見ているようなイメージ。彼らは二つの点ー嘲笑や嘲りを意味する『そしり』に苦しみ、彼らの財産に関する『迫害』ーに苦しんだのです。
②間接的苦しみー 『このようなめにあった人々の仲間になった者もあった』…他の信者との付き合いにおいて苦しみました。
彼らが直接的な迫害で苦しまなかった時でさえ、しいたげられていた他の信者とかかわることによって間接的に苦しみました。
そのような時でも、彼らは共に集まることをやめたりはしませんでした。
ヘブル10:34ーあなたがたは、捕らえられている人々を思いやり、また、もっとすぐれた、いつまでも残る財産を持っていることを知っていたので、自分の財産が奪われても、喜んで忍びました。
*思いやり… 内部の苦しみ、の意。
彼らは投獄されている人々に対し、内部の苦しみ(思いやり)がありました。
*自分の財産が奪われても… 外からの剥奪。
彼らは内側からも外側からも剥奪で苦しんだのです。
*喜んで忍び…彼らは二つの理由で喜んでいました。
①天にあるもっとすぐれた財産を持っていることを知っていた。
②天にあるのは、いつまでも残る財産であることを知っていた。
続く35~39節で著者は、同じ忍耐を持って困難に耐え、『キリストの御座の裁き』で彼らの冠を失わないようにと、受取人たちを励ましています。
繰り返しになりますが、これらは彼らのたましいの救いを失うこととは、何も関係ありません。彼らが失うのは、たましいの救いではなく、肉体的ないのちと御国での報酬です。
ヘブル10:35ーですから、あなたがたの確信を投げ捨ててはなりません。それは大きな報いをもたらすものなのです。
*投げ捨ててはなりません… 『あなたがたの確信を』ーつまり、著者が直前で言ったことを考慮し、彼らは確信を投げ捨ててはならないのです。
過去のレッスンがここで、忍耐強くいるように彼らを励ましているのです。
ギリシャ語:『より強くある』の意。
自分たちがかつて持っていた確信を、まるで価値のないもののように『投げ捨ててはならない』と著者は励ましています。
*確信…ここでの『確信』は、単に確信による態度のことではなく、確信による『休み』という意味をも含みます。
彼らは確信という基盤とその上での行動とを持っていたのです。その結果は、勝利を保証するものでした。
彼らが再び忍耐を働かさなければならない理由は、キリストの裁きの御座での報酬を失わないようにするためでした。
背教に対する第二の抑止力は、報酬を失わないことです。
ヘブル10:36ーあなたがたが神のみこころを行って、約束のものを手に入れるために必要なのは忍耐です。
*忍耐…受取人たちは、試練は信仰生活の一部であるということを知る必要がありました。 彼らは更なる信仰を必要としたのではなく、忍耐を必要としていました。
彼らが神の御心を行うためには、忍耐を働かせることが必要でした。
『神の御心を行う』とは、彼らが報酬を得ることを意味します。
*約束のもの…次の二つのことを含む。
① この世における人生において、霊的成熟すること。
②次の世において、キリストの御座の裁きで報酬を受けること。
ヘブル10:37ー「もうしばらくすれば、
来るべき方が来られる。おそくなることはない。
ヘブル10:38ーわたしの義人は信仰によって生きる。
もし、恐れ退くなら、
わたしのこころは彼を喜ばない。」
37~38節で著者は、人の視点からは遅いように思えても、神はご自分の目的を必ず達成されるということを示すために、ハバクク書2:3~4を引用しています。
ハバクク書2:3~4ーこの幻は、定めの時について証言しており、
終わりについて告げ、
まやかしを言ってはいない。
もしおそくなっても、それを待て。
それは必ず来る。遅れることはない。
見よ。彼の心はうぬぼれていて、まっすぐでない。
しかし、正しい人はその信仰によって生きる。
もしも受取人たちが、神はご自分の『時』に目的を達成されると完全に理解するならば、迫害の期間彼らに希望を与えることになります。
しかし、恐れて退くならば、不信仰のしるしとなります。
*正しい人は、その信仰によって生きる…信者のしるしは、信仰によって生きることです。
ヘブル10:39ー私たちは、恐れ退いて滅びる者ではなく、信じていのちを保つ者です。
*私たち…著者と著者が宛てている人々。
39節で著者は、AD70年を間近に控えた当時の『ユダヤ人信者/メシアニック・ジュー』に適用しています。
著者と受取人たちは『恐れ退く人々ではなく、信仰を持った人々ではない』という意味です。
*恐れ退いて滅びる者…それは『不信者』であって、信者は信仰によって生きる者です。
信者は『滅びの子(イスカリオテ)ユダ』のようではなく、ヨハネ13:10~11にあるように初めから救われていない者ではありません。
ヨハネ17:12ーわたしは彼らといっしょにいたとき、あなたがわたしに下さっている御名の中に彼らを保ち、また守りました。彼らのうちだれも滅びた者はなく、ただ滅びの子が滅びました。それは、聖書が成就するためです。
ヨハネ13:10~11ーイエスは彼に言われた。「水浴した者は、足以外は洗う必要がありません。全身きよいのです。あなたがたはきよいのですが、みながそうではありません。」 イエスはご自分を裏切る者を知っておられた。それで、「みながきよいのではない」と言われたのである。
*信じていのちを保つ者…信者のこと。受取人たちは、信仰による救いを得ています。
ポイントは、彼らの苦しみは永遠に続くのではなく、彼らは信仰による救いを得ているので、永遠に救われているということです。
この事実を考慮し、彼らは、神はご自身の目的を達成する時が来るということを知り、忍耐し続けなくてはならないのです。
私たち現代を生きる信仰者は、キリストが空中再臨される時が必ず来るということを知り、忍耐し続けることが求められているのです。