第四の警告は、少し厳しい内容になっています。
ここでは、故意に犯す罪の危険性に対する警告です。
ヘブル10:26ーもし私たちが、真理の知識を受けて後、ことさらに罪を犯し続けるならば、罪のためのいけにえは、もはや残されていません。
ヘブル書の著者がこれまでに扱ってきた真理を拒む『信者たち』に対し、原則を教えているのが26節です。
25節で著者は『来るべき裁きの日』に対する警告を与えました。
もし、受取人/読者たちがその警告に注意を払わなければ、その裁きに巻き込まれることになるのです。
その『来るべき裁き』とは、ヘブル書が書かれた当時は『AD70年の裁き』のことであり、それを現代に適用するのなら、これから来る『七年間の患難時代』ということになります。
一世紀当時ヘブル書の著者が警告を与えたように、使徒ヨハネは教会時代の信者たちに警告を与えています。警告の受取人は共に『信者』です。
黙示録2:22ー見よ。わたしは、この女を病の床に投げ込もう。また、この女と姦淫を行う者たちも、この女の行いを離れて悔い改めなければ、大きな患難の中に投げ込もう。
*ことさらに…故意に、の意。 ギリシャ語では強調される位置にあり、『故意に私たちが罪を犯し続けるならば』という意味。
これは、彼らは無知のゆえに罪を犯しているのではなく、故意に罪を犯していることを示しています。故意にということは、無知や弱さから犯す罪ではなく、事前に計画され、よく考慮され、決断された罪のことです。
彼らは、キリストを一旦離れ、形だけでもユダヤ教に戻って、神殿でいけにえをささげれば自分たちに対する迫害は止むだろうと考え、実行に移そうとしていたのです。
従って『真理の知識を受けて後、ことさらに罪を犯し続けるならば』と、著者は信者である受取人たちに警告していたのです。
*知識…ここで使われているギリシャ語は、単に『知識』だけの意味ではなく、『完全な知識』を意味することばです。
受取人(信者)たちには、すでにその『完全な知識』がありました。
この書簡を読んだ後、故意にユダヤ教に戻ると言って譲らないならば、それは彼らの背きの重大さと罪の大きさを示すことになります。
このような場合、罪のためのいけにえはもはや残されていません。
メシアであるイエスが拒否されてしまっては、彼らには罪のためのいけにえはは他に何も無いからです。イエスは彼らの最後のいけにえでした。
姦淫…レビ記20:10ー人がもし、他人の妻と姦通するなら、すなわちその隣人の妻と姦通するなら、姦通した男も女も必ず殺されなければならない。
殺人…レビ記24:17ーかりそめにも人を打ち殺す者は、必ず殺される。
*ただし(申命記19:4ー殺人者がそこにのがれて生きることができる場合は次のとおり。知らずに隣人を殺し、以前からその人を憎んでいなかった場合である。)
神への冒瀆…レビ記24:16ー主の御名を冒瀆する者は必ず殺されなければならない。全会衆は必ずその者に石を投げて殺さなければならない。在留異国人でも。この国に生まれた者でも。御名を冒瀆するなら、殺される。
親をのろう者…レビ記20:9ーだれでも自分の父あるいは母をのろう者は、必ず殺されな
ければならない。彼は自分の父あるいは母をのろった。その血の責任は彼にある。
『姦淫、殺人、神への冒瀆、親をのろう罪』を含む特定の罪のためのいけにえがなかった旧約聖書の律法主義に、再び基づくことになるからです。
これらの罪を犯した者は、身代わりとなるいけにえが無いので、罪を犯したその人自身が肉体の死をもって償わなくてはなりませんでした。
イエスの十字架は、霊的にすべての罪を永遠にカバーしていますが、この世の生活における十字架がカバーしない罪がここにあります。
Q:では、彼らがこの世に生きている間、『イエスの血が役に立たない罪』とはどういうことなのでしょう?
A:彼らの罪は、神の御前で永遠に取り除かれていますが、全体の文脈において、彼らが信者となり、完全な警告を受けた後に故意に犯す罪の性質を示しているのです。
それがたとえ間違っているとわかっていても犯し続ける罪であり、文脈上それは『ユダヤ教に戻り、そこにとどまること』を意味します。
その結果、「イエスがメシアである」と彼らが以前告白したことの拒絶へとつながります。さらに、29節によると、この罪は御子のみわざ、御父のみわざ、御霊のみわざの三つの要素を公然と非難することを含んでいます。
このような罪のためのいけにえは残っておらず、そのため個人的裁きの対象となるのです。繰り返しになりますが、それは『霊的な死』ではなく、『肉体的な死』です。
この文脈における裁きの性質は、三つのものを意味します。
1)肉体的な死…10:28~29
2)AD70年の裁きによる肉体的な死…10:25, 27
3)御国での報酬の損失…10:35~36
この背景にあるのが、
民数記15:29~31ーイスラエル人のうちの、この国に生まれた者にも、あなたがたのうちにいる在留異国人にも、あやまって罪を犯す者には、あなたがたと同一のおしえがなければならない。
国に生まれた者でも、在留異国人でも、故意に罪を犯す者は、主を冒瀆する者であって、その者は民の間から断たれなければならない。
主のことばを侮り、その命令を破ったなら、必ず断ち切られ、その咎を負う。」
それは幾つかの『特定の罪』に対しては、いけにえとなる動物の規定がなかったことを示しています。
原理としては、信者が犯すすべての罪は神の御前に永遠に赦されているが、この世で犯すすべての罪が調整されるということではないということです。
ヘブル10:27ーただ、さばきと、逆らう人たちを焼き尽くす激しい火とを、恐れながら待つよりほかはないのです。
*恐れながら待つよりほかはない…彼らの背信の二つ目の結果。
裁きは『唯一の救いへの道』を拒絶することによる唯一の結果です。
故意の背信の罪に対するいけにえは無いので、その代わりに『激しい焼き尽くす火が、逆らう人々を襲う』という裁きを受けることになるのです。
これはエルサレムの町と神殿が、ローマ軍により火によって破壊されたAD70年の肉体的裁きです。
ヘブル10:28ーだれでもモーセの律法を無視する者は、二、三の証人のことばに基づいて、あわれみを受けることなく死刑に処せられます。
モーセの律法の下では二、三人の証人のことばによって死刑ー肉体的死ーとなりました。
ここで、モーセよりも偉大な方に背を向ける人々は、AD70年に肉体の死に苦しむことになること伝えています。
ヘブル10:29ーまして、神の御子を踏みつけ、自分を聖なるものとした契約の血を汚れたものとみなし、恵みの御霊を侮る者は、どんなに重い処罰に値するか、考えてみなさい。
*恵みの御霊を侮る者…この理由で、彼らは肉体的に死ぬことになります。
*重い処罰に値するか…恵みの時代の裁きは、モーセの律法の下での裁きよりも厳しいものだと、著者は記しています。
モーセの律法を拒否する者は罰せられました。
もし、イエスがモーセより優れているのであれば、イエスに背を向けて拒むなら より重い罰を受けることになります。
*処罰…ギリシャ語では独特の言葉の一つで、新約聖書でここだけに使われています。
Q:何が背教となるのでしょう?
A:三位一体のみわざを拒むことです。
①神の御子を踏みつけ…『役に立たないものとされる』『軽蔑する』『目に余る侮辱』を意味。
御子をこの世に送り、神の御子だと宣言された御父の働きを拒むことを意味します。
②自分を聖なるものとした契約の血を汚れたものとみなし…『もし彼らがユダヤ教に戻るなら』の意。
彼らは信仰により、すでに御子の血によってきよめられていました。彼らは『位置的きよめ』にありましたが、ここでユダヤ教に戻ることにより、そのきよめに背を向ける危険にさらされていました。
*『聖なるものとした契約の血』を考えてみなさい…『神の小羊』であるイエスの血を、普通の人間の血と同じものとして扱うことを意味します。
それはイエスの血を汚れたものとみなし、その結果、イエスは自分自身の罪のために罰せられたことを意味します。
キリストの血を無視することは、子なる神を拒むことになるのです。
③恵みの御霊を侮る…御霊に対する傲慢な攻撃を含みます。
*侮る…傲慢と故意による不当な扱いをもたらすこと。それは聖霊に対する侮辱です。
聖霊は、新生ときよめの働きをなさるお方です。
聖霊の働きに背を向けることによって、受取人/読者たちはマタイ12章の『ベルゼブル論争』で赦されない罪を犯したユダヤ人たちの世代と同じ罪を犯すことになります。
イエスのメシア性を悪魔のわざとすることは、聖霊に対する冒瀆です。
実際に彼らユダヤ人信者たちがユダヤ教に戻るなら、彼ら肉体の死に直面することになりました。逆戻りするということは、三位一体の神のみわざを目に見える方法で拒否することになるからです。
『赦されない罪』とは、聖霊に対する冒瀆なのです。
30~31節で著者は、裁きの理由を述べています。
それは、神のご性質によるのです。
ヘブル10:30ー私たちは、「復讐はわたしのすることである。わたしが報いをする」、また、「主がその民をさばかれる」と言われる方を知っています。
著者は、旧約聖書から二つの節をひとつに引用して、神が裁かられることを証明しています。
最初の引用は、復讐が神の唯一の特権であることを教えています。
申命記32:35ー復讐と報いとは、わたしのもの、
それは、彼らの足がよろめくときのため。
彼らのわざわいの日は近く、
来るべきことが、すみやかに来るからだ。」
二つ目の引用で、神がご自分の民を裁くことを教えています。
申命記32:36ー主は御民をかばい、
主のしもべらをあわれむ。
彼らの力が去って行き、
奴隷も、自由の者も、
いなくなるのを見られるときに。
ヘブル書の受取人たちは神の民であるので 、もし彼らが背教するならば、神が彼らをお裁きになるのです。
31節で著者は、次のように結んでいます。
ヘブル10:31ー生ける神の手の中に陥ることは恐ろしいことです。
*生ける神…彼らがもし背教の罪を犯すなら、神はわかっておられるということ。
従って、神は彼らを裁かれるのです。
*恐ろしい裁き…肉体的な裁きのことであって、霊的には彼らは救われています!