ヘブル書11章には四つの観察があります。
①著者のポイント…旧約の義人たちの信仰の歩みを例にあげ、迫害の苦しさにユダヤ教に回帰しようとしている受取人たちに『信仰から離れるということは、旧約の義人たちから離れるということだ』と説得。
②どのように忍耐力を働かせるか…著者は、ヘブル10:35~39で受取人たちに忍耐力を働かせるように励ましました。ここでは『旧約の義人たちがどのように忍耐したかを示す』ために、旧約聖書から多くの例を挙げています。
③受取人たちが倣うことのできる多くの例をあげています。
④信仰…この章での『鍵』となる言葉。24回『信仰』と訳されています。例外は二つ:『真実な方』と『信じ』と訳出。
ヘブル11:1ー信仰は望んでいる事がらを保証し、目に見えないものを確信させるものです。
1節は『信仰の特徴』であって、信仰の定義ではありません。
著者は、『信仰の説明』をしています。ここでは『救いに導く信仰』について述べているのではなく、目に見えない将来の保障をする事柄について述べています。
『将来の事柄』というのは、天地創造のような『過去の事柄』と同様に、信仰によって確信していくものだということです。
望んでいる事柄を『待ち望む』のが、信仰です。
望んでいる将来の事柄がまだ確かになっていないため、忍耐力が必要なのです。
実質的であっても主観的であっても、受取人たちが望む神の祝福に現実味を持たせる基盤は、『聖書のみことば』です。
*確信…ギリシャ語:『エレゴス』は、二つの異なる意味を持ちます。
①証明…見えないものの確実性に言及。
②確信…確実性の感覚を与えることを意味。
名詞として、こことⅡテモテ3:16で使われています。
Ⅱテモテ3:16ー聖書はすべて、神の霊感によるもので、教えと戒めと矯正と義の訓練とのために有益です。
『証明』であっても『確信』であっても、基本的に信仰のある人は『その信念を生き抜くということ』『信仰を生き抜くということ』『その心と霊が真実であると確信しているということ』です。
著者が確信しているものとは、
『目には見えないけれど実際にはある、イエスの祭司としての勤め、祈りによる神へのアクセス、霊的成熟への保証、罪の完全な赦しなど』です。
著者は、これらのものは見ることはできないけれども、事実であることを知っているのです。これらのことが真実であると確信させることが『信仰の基本』です。
同じように、将来の空中再臨(携挙)の出来事も目には見えないことですが、信仰を通して現実となるのです。
信仰は、実在するもう一つの目に見えない世界を保証します。
ヘブル11:2ー昔の人々はこの信仰によって称賛されました。
*昔の人々…これが新しい概念ではないことを証明しています。
次にリストアップされる旧約の義人たちのこと。彼らは『この信仰』によって賞賛された人々です。
ギリシャ語では受動態で書かれています。
それは、父祖たちが信仰の歩みを証言したのではなく、旧約聖書の義人たちの信仰を目撃したものたちにより証言され、目撃者たちが『彼らの信仰が本物だった』と言う事実に基づいていることを意味します。
旧約聖書の義人たちは、神からの約束を受け取り、その約束を当然の権利として要求し、約束を受け取るまで根気よく耐えた人々です。
神もまた、彼らの信仰が本物であったと証言されています。
ヘブル11:3ー信仰によって、私たちは、この世界が神のことばで造られたことを悟り、したがって、見えるものが目に見えるものからできたのではないことを悟るのです。
3節では、一つの主要な例が挙げられています。
天地創造は、信仰によって受け入れられなければならないものです。
なぜなら、その時、人はまだ誰一人として存在していなかったからです。
人は天地創造の過程を観察するために造られてはいなかったのだから…。
ヨブ記38:4ーわたしが地の基を定めたとき、
あなたはどこにいたのか。
あなたに悟ることができるなら、告げてみよ。
天地創造を記したモーセも、その経緯を記録するために存在したのではありませんでした。
信仰は、まだ見ていない将来の事柄だけでなく、見ることのできない過去の事柄に対しても影響を与えます。
『神の創造は無からなされた』ことを意味し、自然界、世界は神がコントロールされるものです。
ギリシャ語では『時代』を意味し、すべての時代の管理に言及します。
『創造』は起こりました。信者はそれを見てはいませんが、神によって創造されたと信じています。
*この世界が神のことばで造られた…本物の信仰は、本物の知識を生じさせます。
*ことば…ギリシャ語:『リーマ』、話されたことば、の意。
創世記1:3ー神は仰せられた。「光があれ。」すると光があった。
神が仰せられると、それは出来たのです。
*見えるものが、目に見えるものからできたのではなく…この世界は、神の意志の表現によって生じたのであり、無から創造されたのです。
*信仰によって〜悟るのです…天地創造における神の力の現れは、すべての信者に信仰によって信じるように求めています。
信仰は、常に将来のこととは限りません。時には、過去のことにも言及します。
神を見ることなく、信者は、神の存在と被造物が神の存在を証ししていると認識しています。
もし、見ていない過去の事柄に対する信仰が十分あるならば、まだ見ていない将来の事柄に対する信仰もまた十分あるということです。
逆にいえば、過去の神による無からの天地創造を信じることができなければ、将来のキリストの再臨も千年王国も信じることは難しくなり、自分が救われているか否かも確信を持つことは難しくなるということでしょう。