す〜っと読めてしまう譬え話ですが、立ち止まってその意味をじっくり考えてみたことはありますか?
イエス様が教えられた “『土台』とは、何を指すのか?” 、説明できますか?
わかっているつもりでも、いざ誰かに説明するとなると、言葉に詰まってしまうことってありますよね!?
ルカ6:46ーなぜ、わたしを『主よ、主よ』と呼びながら、わたしの言うことを行わないのですか。
*『主よ、主よ』…イエスさまのことを『主』と認め、告白するのは聖霊の働きだと聖書は述べています。
1コリント12:3ーですから、私は、あなたがたに次のことを教えておきます。神の御霊によって語る者はだれも、「イエスはのろわれよ」と言わず、また、聖霊によるのでなければ、だれも、「イエスは主です」と言うことはできません。
しかし、大事なのは1コリント15:2のみことばでしょう。ここではより分かりやすい【新共同訳】を引用します。
1コリント15:2ーどんな言葉でわたしが福音を告げ知らせたか、しっかり覚えていれば、あなたがたはこの福音によって救われます。さもないと、あなたがたが信じたこと自体が、無駄になってしまうでしょう。
異邦人の教会宛てである『コリント人への手紙』の著者パウロは、パウロが告げ知らせた『福音』によって救われるのであるから、パウロがどんな『福音』を伝えたか『覚えているように』と言っています。
つまり、ただ口先だけで「主よ、主よ」と言うことはできても、その意味をきちんと理解しているかどうかが重要だということです。
そのことをイエスさまは譬えでもって教えておられるのです。
ルカ6:47ーわたしのもとに来て、わたしのことばを聞き、それを行う人たちがどんな人に似ているか、あなたがたに示しましょう。
主に喜ばれる信仰者とは
①イエスのもとに来て
②イエスのことば(=みことば)を聞き
③イエスの命令を行う者、です。
みことばを聞いたり、読んだりし、理解しなければ、それを『行う』ことはできません。
ルカ6:48ーその人は、地面を深く掘り下げ、岩の上に土台を据えて、それから家を建てた人に似ています。洪水になり、川の水がその家に押し寄せたときも、しっかり建てられていたから、びくともしませんでした。
*岩…象徴的に用いられている時は『イエス』を意味します。
1コリント10:4ーみな同じ御霊の飲み物を飲みました。というのは、彼らについて来た御霊の岩から飲んだからです。その岩とはキリストです。
*土台…福音の三要素
1コリント15:3~5ー私があなたがたに最もたいせつなこととして伝えたのは、私も受けたことであって、次のことです。キリストは、聖書の示すとおりに、私たちの罪のために死なれたこと、
また、葬られたこと、また、聖書の示すとおりに、三日目によみがえられたこと、
また、ケパに現れ、それから十二弟子に現れたことです。
*家…信仰生活
*洪水…人生の試練
パウロが『最も大切なこと』として伝えた福音の三要素をしっかりと理解し、キリストという『土台』のうえに深く根ざした信仰は、みことばによって養われ、支えられるので、どんな逆境に中にあっても希望を見失うことなく、信仰に留まることができるのです。
詩篇119:71ー苦しみに会ったことは、私にとってしあわせでした。
私はそれであなたのおきてを学びました。
ローマ8:28ー神を愛する人々、すなわち、神のご計画に従って召された人々のためには、神がすべてのことを働かせて益としてくださることを、私たちは知っています。
ヤコブ1:2ーわたしの兄弟たち。さまざまな試練に会うときは、それをこの上もない喜びと思いなさい。
これは、まことの信仰によってのみなせるものです。
ルカ6:49ー聞いても実行しない人は、土台なしで地面に家を建てた人に似ています。川の水が押し寄せると、家は一ぺんに倒れてしまい、そのこわれ方はひどいものとなりました。」
*聞いても実行しない人…日曜日に礼拝に行っても、聞いたみことばをちゃんと聖書で確認しないと、帰宅途中でもう忘れてしまう可能性があります。私たちが心に留めるべきは、誰かの証しではなく、キリストのみことばです!
詩篇119:11ーあなたに罪を犯さないため、
私は、あなたのことばを心にたくわえました。
使徒17:11bー非常に熱心にみことばを聞き、はたしてそのとおりかどうかと毎日聖書を調べた。
*みことばは、みことばで確認することが必要です。そのためにも脚注を使うことをお勧めします。
*土台なしで家を建てた人…信仰の『土台』が、1コリント15:3~5でパウロが述べた最も大切な『福音の三要素』になく、牧師や組織にある人、クリスチャンというステータスに重きを置いている人、 神の祝福だけを求めている人など、キリスト以外のものに『信仰の土台』を置いている人は、この世の試練にあった時、自分の思い描いたとおりにならない時など簡単に躓いてしまい、信仰から離れて行ってしまいます。
もしも
①キリストは、私(たち)の罪のために身代わりとして『十字架で死なれ』、
②キリスト自身は、罪のない者として『葬られ』、
③聖書にあるように『三日目によみがえられた』、
という福音の三要素のどれか一つにでも「アーメン」と言えないのであれば、その人はまだ『求道者』であって、救いを得てはいません。
たとえ教会で洗礼(バプテスマ)を受けていたとしても…です。
『クリスチャンもどき』の信仰から、土台をキリストに深く据えた『まことのクリスチャン』としての信仰の歩みができますように。