サザエのお裾分け

聖書を字義通り&文脈に沿って学び、理解したことの中からのお裾分け。内容は鵜呑みにせず、必ずご自分で聖書を開いて確認してくださいね。聖書理解の助けになれば幸いです。† 栄光在主 †

ピリピ人への手紙 〜1:12~30〜

ピリピ1:12ーさて、兄弟たち。私の身に起こったことが、かえって福音を前進させることになったのを知ってもらいたいと思います。

*私の身に起こったこと…パウロが投獄されているということ。 

 

ローマ8:28ー神を愛する人々、すなわち、神のご計画に従って召された人々のためには、神がすべてのことを働かせて益としてくださることを、私たちは知っています。

 

 

ピリピ1:13ー私がキリストのゆえに投獄されている、ということは、親衛隊の全員と、そのほかのすべての人にも明らかになり、

*キリストのゆえに投獄されている…この事実が、キリストに興味すら持たなかった人々の関心を引く結果となったということ。 

 

 

ピリピ1:14ーまた兄弟たちの大多数は、私が投獄されたことにより、主にあって確信を与えられ、恐れることなく、ますます大胆に神のことばを語るようになりました。

*私が投獄されたことにより…福音を恥とせず、投獄されることも臆せずに伝道したパウロの勇気と大胆さが、多くの信者へのチャレンジとなり、励ましとなりました。

 

 

ピリピ1:15ー人々の中にはねたみや争いをもってキリストを宣べ伝える者もいますが、善意をもってする者もいます。

同じキリストを信じる信仰を持つ者であっても、その動機は大きく二つのグループに分かれました。

①ねたみや争いをもってキリストを宣べ伝える者。

②善意をもってキリストを宣べ伝える者。 

 

 

ピリピ1:16一一方の人たちは愛をもってキリストを伝え、私が福音を弁証するために立てられていることを認めていますが、

②善意をもってキリストを宣べ伝える者…愛をもってキリストを伝え、パウロが福音を弁償するために立てられていることを認める人々。真の信者たち。

 

 

ピリピ1:17ー他の人たちは純真な動機からではなく、党派心をもって、キリストを宣べ伝えており、投獄されている私をさらに苦しめるつもりなのです。

①ねたみや争いをもってキリストを宣べ伝える者…純真な動機からではなく、党派心をもって、キリストを宣べ伝えていました。投獄されているパウロをさらに苦しめようというのが、伝道の目的でした。このような動機は、キリストを信じる信仰から出るものではなく、人間的な思いから出るもので、見せかけの信仰・信者です。

 

 

ピリピ1:18ーすると、どういうことになりますか。つまり、見せかけであろうとも、真実であろうとも、あらゆるしかたで、キリストが宣べ伝えられているのであって、このことを私は喜んでいます。そうです、今からも喜ぶことでしょう。

*私は喜んでいます…パウロが喜んでいるポイントは、『どのような動機・理由であれ、キリストが宣べ伝えられている という事実』です。パウロに反感を持ち、敵対してようと、キリストが宣べ伝えられることをこれからも喜ぶ、とパウロは言っています。

 

私たちは、すぐに自分自身のことを気にしますが、パウロは常にキリストに焦点を合わせています。だからこそ、パウロはこう言えるんですね。

1コリント4:16ーですから、私はあなたがたに勧めます。どうか、私にならう者となってください。

 

 

ピリピ1:19ーというわけは、あなたがたの祈りとイエス・キリストの御霊の助けによって、このことが私の救いとなることを私は知っているからです。

*私の救い…自分の利益よりもキリストが宣べ伝えられること、福音が広まることを喜びとしていたパウロにとって、究極的な『救い』とは、現実問題として牢から解き放されることよりも 、キリストの御座の裁きにおいて『無罪』の宣告と報酬を受け取ることでした。

 

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また、パウロたちの働きを通して、福音を信じるに至る者が多く起こされることも、パウロにとっては『喜び』であり、『救い』でした。

 

 

ピリピ1:20ーそれは私の切なる祈りと願いにかなっています。すなわち、どんな場合にも恥じることなく、いつものように今も大胆に語って、生きるにも死ぬにも私の身によって、キリストがあがめられることです。

*キリストがあがめられること…パウロにとっては、自分の肉体が生きるにしても死ぬにしても、パウロの伝道を通してキリストの栄光があらわれることが願いであり、祈りだったのです。

 

 

ピリピ1:21ー私にとっては、生きることはキリスト、死ぬことも益です。

パウロは生きるのもキリストの栄光のため、死ぬのもキリストの栄光のためなら『益』だと考えていました。

 

 

ピリピ1:22ーしかし、もしこの肉体のいのちが続くとしたら、私の働きが豊かな実を結ぶことになるので、どちらを選んだらよいのか、私にはわかりません。

肉体が長く生きていれば、それだけ福音の働きが出来、多くの人々を救いへと導くことが出来るという利点があります。

 

 

ピリピ1:23ー私は、その二つのものの間に板ばさみとなっています。私の願いは、世を去ってキリストとともにいることです。実はそのほうが、はるかにまさっています。

*キリストとともにいること…しかし、肉体の死を迎えると、パウロのたましいはキリストとともに『パラダイス』にいることになり、その方が『はるかにまさっている』と記しています。 

 

 

ピリピ1:24ーしかし、この肉体にとどまることが、あなたがたのためには、もっと必要です。

*この肉体にとどまること聖書的には、肉体の死は『たましい(霊)』と『肉体』が分離することを意味します。

パウロは、霊が肉体から離れてキリストとともにいることと、肉体の中にとどまってピリピの信者を励ますことの方が、ピリピの信者たちにとってもっと必要だという二つの思いの『板ばさみになっている』のです。 

 

 

ピリピ1:25ー私はこのことを確信していますから、あなたがたの信仰の進歩と喜びとのために、私が生きながらえて、あなたがたすべてといっしょにいるようになることを知っています。

*このこと…パウロはこれらの二つの思いの中で、自分の肉体の死によって『自分がキリストとともにいること』よりも、ピリピの信者たちのために肉体にたましいがとどまる『生きながらえて』、ピリピの信者たちの集まりである『教会』の必要を優先すべきだということ。パウロは自分のことよりも、キリストのこと、他の信者のことを優先的に考えて いたのです。

J…Jesusー1番、O…Othersー2番、Y…Yourselfー3番『J.O.Y』が、パウロの優先順位でした。

 

 

ピリピ1:26ーそうなれば、私はもう一度あなたがたのところに行けるので、私のことに関するあなたがたの誇りは、キリスト・イエスにあって増し加わるでしょう。

 *私はもう一度あなたがたのところに行ける…パウロは、ピリピの信者たちのところに行き、励ますことができると確信しています。

 

 

ピリピ1:27ーただ、キリストの福音にふさわしく生活しなさい。そうすれば、私が行ってあなたがたに会うにしても、また離れているにしても、私はあなたがたについて、こう聞くことができるでしょう。あなたがたは霊を一つにしてしっかりと立ち、心を一つにして福音の信仰のために、ともに奮闘しており、

*生活しなさい…別訳:御国の民の生活をしてください

福音を信じ『神の子どもとされた』者は、その福音にふさわしく、天に国籍を持つ者として生活する必要があります。それはキリストの教えを守り、『光の中を歩む』ことです。そして、みことばにより霊的一致、信仰の一致を保ち、キリストの福音のためにともに力を合わせて奮闘することです。

*みことば抜きに霊的一致・信仰の一致はあり得ません。

 

ヨハネ1:12ーしかし、この方を受け入れた人々、すなわち、その名を信じた人々には、神の子どもとされる特権をお与えになった。

 

ピリピ3:20ーけれども、私たちの国籍は天にあります。そこから主イエス・キリストが救い主としておいでになるのを、私たちは待ち望んでいます。

 

エペソ5:8ーあなたがたは、以前は暗やみでしたが、今は、主にあって、光となりました。光の子どもらしく歩みなさい

 

1テサロニケ5:5あなたがたはみな、光の子ども、昼の子どもだからです。私たちは、夜や暗やみの者ではありません。

 

 

ピリピ1:28ーまた、どんなことがあっても、反対者たちに驚かされることはないと。それは、彼らにとっては滅びのしるしであり、あなたがたにとっては救いのしるしです。これは神から出たことです。

みことばによる霊的一致・信仰の一致を保っているならば、反対者たちを恐れたり、驚かされたりすることはありません。みことばは『神の武具』の中で唯一、敵を攻撃できる武器ですから。

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キリストを信じない者たちには、福音に対する不信仰が『滅びのしるし』ですが、信じる者にとってキリストの福音は『救いのしるし』です。

 

マルコ9:40ーわたしたちに反対しない者は、わたしたちの味方です。

*わたしたち新改訳聖書では、神(御父もしくは御子)が言われた時は『わたし』とひらがなで記されています。『私』と漢字で表記されている時は、人間が言ったことばです。

 

ローマ8:31ーでは、これらのことからどう言えるでしょう。神が私たちの味方であるなら、だれが私たちに敵対できるでしょう。

 

 

ピリピ1:29ーあなたがたは、キリストのために、キリストを信じる信仰だけでなく、キリストのための苦しみをも賜ったのです。

 *キリストのための苦しみ…苦難、迫害、試練等、外側から来る苦しみは、神から来るものです。神はそれらを通して、私たちを『御国の子』として訓練されるのです。

 

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神からの恵みを受け、救われた者は、神からの訓練も受けることになります。

ヘブル12:7ー訓練と思って耐え忍びなさい。神はあなたがたを子として扱っておられるのです。父が懲らしめることをしない子がいるでしょうか。

 

 

ピリピ1:30ーあなたがたは、私について先に見たこと、また、私についていま聞いているのと同じ戦いを経験しているのです。

*同じ戦い…パウロが既に経験して来たのと同じ戦いを、ピリピの信者たちも経験していました。パウロが経験したこととは… 

 

Ⅱ コリント11:23~28ー彼らはキリストのしもべですか。私は狂気したように言いますが、私は彼ら以上にそうなのです。私の労苦は彼らよりも多く、牢に入れられたことも多く、またむち打たれたことは数えきれず、死に直面したこともしばしばでした。

ユダヤ人から三十九のむちを受けたことが五度、

むちで打たれたことが三度、石で打たれたことが一度、難船したことが三度あり、一昼夜、海上を漂ったこともあります。

幾度も旅をし、川の難、盗賊の難、同国民から受ける難、異邦人から受ける難、都市の難、荒野の難、海上の難、にせ兄弟の難に会い、

労し苦しみ、たびたび眠られぬ夜を過ごし、飢え渇き、しばしば食べ物もなく、寒さに凍え、裸でいたこともありました。

このような外から来ることのほかに、日々私に押しかかるすべての教会への心づかいがあります。

 

Ⅱ コリント12:10ーですから、私は、キリストのために、弱さ、侮辱、苦痛、迫害、困難に甘んじています。なぜなら、私が弱いときにこそ、私は強いからです。

 

Ⅱ テモテ3:12ー確かに、キリスト・イエスにあって敬虔に生きようと願う者はみな、迫害を受けます。

 

キリストは、次のように預言されています。

ヨハネ15:20ーしもべはその主人にまさるものではない、とわたしがあなたがたに言ったことばを覚えておきなさい。もし人々がわたしを迫害したなら、あなたがたをも迫害します。もし彼らがわたしのことばを守ったなら、あなたがたのことばをも守ります。

 

 

もしも「まだ、迫害に会ったことが一度もない。」と言う方がおられたら、霊的幼子でこの世と妥協した生き方をしているのかもしれません。

みことばに従って生きようとするならば、サタンの支配下にある『この世』の流れに逆らうことになりますから、当然戦いが起こることになります。

パウロは、愛弟子テモテに次のように書き送っています。

Ⅱ テモテ4:7ー私は勇敢に戦い、走るべき道のりを走り終え、信仰を守り通しました。

 

私たちもこの世での肉体の人生を終える時、パウロのように言えるよう『今日』という日を、キリストに従って、悔いなく歩むことができますように。