この箇所は比較的よく知られている聖書箇所であり、神から頂いた肉体のいのちを全うしたという広い意味で、教会での葬儀で聞いたという方も多いと思います。
が、ここでは『第一義的意味』を確認していきたいと思います。
主イエスがこのことを話されたのは、十字架にかかる前の最後の過越の祭りで、弟子たちと過越の食事をしている時でした。
ヨハネ13:1ーさて、過越の祭りの前に、この世を去って父のみもとに行くべき自分の時が来たことを知られたので、世にいる自分のものを愛されたイエスは、その愛を残るところなく示された。
『最後の晩餐』と言われるこの過越の食事の間に、心に悪魔が入っていたイスカリオテ・ユダはイエスを裏切るために出て行きました。
そして、一番弟子のペテロには「鶏が鳴くまでに、あなたは三度わたしを知らないと言います。」と言われました。ヨハネ13:38
それを聞いた弟子たちは、動揺したことでしょう。そのような中で、ヨハネ14章は始まっています。
ヨハネ14:1ー「あなたがたは心を騒がしてはなりません。神を信じ、またわたしを信じなさい。
(ペテロが主を知らないと言うだって!? どういうことだ?)残された11人の弟子たちは、みなそう思ったことでしょう。
そのような弟子たちの動揺を知り、神とイエスを信じ続けるようにと諭されました。
ヨハネ14:2ーわたしの父の家には、住まいがたくさんあります。もしなかったら、あなたがたに言っておいたでしょう。あなたがたのために、わたしは場所を備えに行くのです。
*あなたがたのために、場所を備えに行く…イエスがこの世を去る理由。
*父の家…イエスが備えてくださる場所は『父の家』です。
*住まいがたくさんあります…『住まい』がたくさんあるのに、なぜ『場所を備えに行く』と言われたのでしょう?
これは『教会がキリストの花嫁である』ということと、イスラエルの結婚を知らないと理解するのは難しいかもしれません。
イエスは昇天により天の『父の家(実家)』に帰り、現在 花嫁である『教会時代の信者たち』を迎え、結婚式をするための天幕をおひとりで用意されているのです。
ヨハネ14:3ーわたしが行って、あなたがたに場所を備えたら、また来て、あなたがたをわたしのもとに迎えます。わたしのいる所に、あなたがたをもおらせるためです。
*わたしが行って…このことを話された時、イエスはまだ肉体的に生きて地上にいました。つまり、『地上から天に行く』ということ。
*あなたがたに場所を備えたら…天の父の家に天幕を準備する、の意。
*また来て…天から戻って来る、の意。
*わたしのもとに迎えます…イエスは昇天により父の家にいるので、花嫁である教会時代の信者たちを迎えたら、天の家に連れて帰るということ。
この後、地上は七年間の患難時代になるので、試練の時から信者たちを救い出し守るためです。
黙示録3:10ーあなたが、わたしの忍耐について言ったことばをまもったから、わたしも、地上に住む者たちを試みるために、全世界に来ようとしている試練の時には、あなたを守ろう。
*わたしのいるところ…イエスは、神の選びの民であるイスラエルが民族的回心をするまで、天の父の家に留まっておられます。
*あなたがたをもおらせるためです…キリストを信じる者たちを迎えに来られたら、イスラエルが民族的回心をするまで、ご自分が父の家に準備した場所に花嫁である私たちをおらせるためです。
マタイ23:39ーあなたがたに告げます。『祝福あれ。主の御名によって来られる方に。』とあなたがたが言うときまで、あなたがたは今後決してわたしを見ることはありません。
*あなたがた…ユダヤ人。
ユダヤ人(イスラエル)が民族的に『イエスがメシアである』と回心するときまで、イエスは天におられるため、地上でユダヤ人たちがメシアに会うことはないということ。
イスラエルは『神の初子』ー出エジプト記4:22ーであるため、個人的救いと民族的救いの二つの責任が課せられています。メシアニックジューたちは、信仰により個人的救いを得た人々ですが、民族的救いが起こるのは患難時代最後の三日間です。ホセア5:15~6:3
イエスが父の家で準備している結婚式場となるその天幕は、父の承認が得られなければ、花嫁を迎えに行くことはできません。ですから、イエスは別の箇所でこう言われているのです。
マタイ24:36~37ーただし、その日、その時がいつであるかは、だれも知りません。天の御使いたちも子も知りません。ただ父だけが知っておられます。
人の子が来るのは、ちょうど、ノアの日のようだからです。
黙示録3:3ーだから、あなたがどのように受け、また聞いたのかを思い出しなさい。それを堅く守り、また悔い改めなさい。もし、目をさまさなければ、わたしは盗人のように来る。あなたには、わたしがいつあなたのところに来るか、決してわからない。
つまり、この箇所は第一義的には『携挙』のことについて語られているのす。『携挙』について、聖書は…いつかは分からないと言っています。
1コリント15:52の『終わりのラッパ』と、黙示録11:15の『第七の御使いが吹くラッパ』とを組み合わせて、『携挙は患難時代の中期に起こる』とする患難期中期説を支持する方もおられます。
パウロがコリント人への手紙を記したのはAD55年頃であり、ヨハネが黙示録を記したのはAD90年代半ばです。その間には約40年の隔たりがあり、パウロは『七つのラッパの裁き』については知っていなかったことになります。
パウロが意味した『終わりのラッパ』とは、『携挙の型』と言われる第七の月(チスリの月)の一日『ラッパの祭り』で吹かれる100回目の角笛の音のことです。
また、患難時代の始まりは、反キリストとイスラエルの七年間の契約締結時であることは、ダニエル書の預言から明らかであり、ダニエル書9:27と黙示録から第七のラッパが吹かれるのは患難時代の中期、3年半経った時だということがはっきりしていますから、『いつかはわからない』というイエスのみことばと一致しません。
ダニエル9:27ー彼は一週の間、多くの者と堅い契約を結び、半週の間、いけにえとささげ物とをやめさせる。荒らす忌むべき者が翼に現われる。ついに、定められた絶滅が、荒らす者の上にふりかかる。
また、キリストの再臨は患難時代の終わりの一度だけであるとする患難期後期説を支持する方もおられますが、その場合、『携挙』された直後に地上再臨することになり、何のために携挙されるのか、また、このマタイ14:3の『また来て、あなたがたをわたしのもとに迎えます』という説明がつきません。
患難時代の始まりと期間が七年間ということは預言されているので、『いつかはわからない』というみことばとも矛盾します。
聖書全体とのバランスの中で、矛盾しない解釈を支持すべきでしょう。
ヨハネ14:4ーわたしの行く道はあなたがたも知っています。」
異本:わたしがどこへ行くかあなたがたは知っており、またその道を知っています。
イエスは続く6節で、はっきりと教えておられます。
ヨハネ14:6ーイエスは彼に言われた。「わたしが道であり、真理であり、のちなのです。わたしを通してでなければ、だれひとり父のみもとに来ることはありません。」
*彼…5節で「主よ。どこへいらっしゃるのか、私たちにはわかりません。どうしてその道が私たちにわかりましょう。」と言ったトマスに対しての返事。