サザエのお裾分け

聖書を字義通り&文脈に沿って学び、理解したことの中からのお裾分け。内容は鵜呑みにせず、必ずご自分で聖書を開いて確認してくださいね。聖書理解の助けになれば幸いです。† 栄光在主 †

『断食』は律法?キリストの命令?

先日『断食』についてのアンケートをとってみたところ、『今でも断食は必要であり、定期的にすべきである』と考えるクリスチャンが19%もおられました。

 

クリスチャンのための断食道場があったり、断食をして祈るように勧められたりしますが、その聖書的根拠はどこにあるのでしょう?

 

613あるモーセの律法を基にするユダヤ教の三本柱は、『施し・祈り・断食』です。

主の祈りで有名な山上の垂訓ーマタイ5~7章ーの構成もこれらの三つが中心に置かれています。

マタイ6:3~4施し

マタイ6:9~13祈り

マタイ6:16~18断食

 

モーセの律法が中心の『律法の時代』が終わったのは、キリストの十字架の死の時ですから、エス様の生前の教えは現在の教会時代の教えというより、律法が有効だった時のユダヤ人に対する教えが中心です。

 

 マタイ17:19~21そのとき、弟子たちはそっとイエスのもとに来て、言った。「なぜ、私たちには悪霊を追い出せなかったのですか。」

エスは言われた。「あなたがたの信仰が薄いからです。まことに、あなたがたに告げます。もし、からし種ほどの信仰があったら、この山に、『ここからあそこに移れ』と言えば移るのです。どんなことでも、あなたがたにできないことはありません。

〔ただし、この種のものは、祈り断食によらなければ出て行きません。〕」

 

エスは初臨時に「悪霊の追い出しには、祈りと断食が必要だ」と教えられましたが、これもモーセの律法が有効だった時の教えであり、イエスをメシアとして失脚させようと、世界中から悪霊たちがイスラエルに集結していた時代です。

 

律法の書(Torah)とは、創世記〜申命記までのモーセ五書のことですから、断食についてどこで命じられているのかを確認する必要があります。

 

レビ記16:29

【新改訳】

以下のことはあなたがたに、永遠のおきてとなる。第七の月の十日には、あなたがたは身を戒めなければならない。この国に生まれた者も、あなたがたの中の在留異国人も、どんな仕事もしてはならない。

 

【新共同訳】

以下は、あなたたちの守るべき不変の定めである。第七の月の十日にはあなたたちは苦行をする。何の仕事もしてはならない。土地に生まれた者も、あなたたちのもとに寄留している者も同様である。

 

【口語訳】

これはあなたがたが永久に守るべき定めである。すなわち、七月になって、その月の十日に、あなたがたは身を悩まし、何の仕事もしてはならない。この国に生れた者も、あなたがたのうちに宿っている寄留者も、そうしなければならない。

 

*身を戒め、苦行をする、身を悩まし…新改訳、新共同訳、口語訳それぞれ訳出に違いがありますが、ヘブル語では『ネフェシュを苦しめる』という意味になり、「たましいを苦しめるほどの悔い改めをする」ということです。

高齢者や病人以外は、第七のチスリの月の十日の『贖罪の日』には、公的の断食が命じられていました。

律法によって命じられている『断食』は、ヨム・キプール(贖罪の日)だけです。

 

モーセの律法は、奴隷生活をしていたエジプトから解放され、自由人となったイスラエル民族に対し、神に救い出された『自由人としていかに生きるべきか』の指針を与えるためのものであり、イスラエルの民をキリストに導く養育係であり、キリストの十字架の贖いを信じるユダヤ人たちは律法からも贖い出された人々なのです。

エジプトでの奴隷生活から救い出されていない異邦人は、初めから関わってはいません。

 

レビ記23:27「特にこの第七月の十日は贖罪の日、あなたがたのための聖なる会合となる。あなたがたは身を戒めて、火によるささげ物を主にささげなければならない。

 

贖罪の日に断食をしない場合、罰則がありました。 

レビ記23:29その日に身を戒めない者はだれでも、その民から断ち切られる

 

レビ記23:32これは、あなたがたの全き休みの安息である。あなたがたは身を戒める。すなわち、その月の九日の夕方には、その夕方から次の夕方まで、あなたがたの安息を守らなければならない。」

*安息…ここでは、土曜日の安息日のことではなく、第七のチスリの月の十日の『贖罪の日』のことです。 

 

もしも、キリスト教の断食道場を名乗りながら、断食の根拠を旧約聖書に置いているのなら、それはモーセの律法に従っていることになるでしょう。

もしも、モーセの律法の一つである断食の命令を守り行うのなら、ほかの612の律法も守り行う義務が生じます。

 

ヤコブ2:10~11律法全体を守っても、一つの点でつまずくなら、その人はすべてを犯した者となったのです。

なぜなら、「姦淫してはならない」と言われた方は、「殺してはならない」とも言われたからです。姦淫しなくても人殺しをすれば、あなたは律法の違反者となったのです。

 

ガラテヤ3:10ーというのは、律法の行いによる人々はすべて、のろいのもとにあるからです。こう書いてあります。「律法の書に書いてある、すべてのことを堅く守って実行しなければ、だれでもみな、のろわれる。」

 

もしも、断食の目的をダイエット、健康のためだとするならば、 それはもはやキリスト教とは関係がなくなります。神の栄光を現わすことにはならないからです。

  

もしもイエス様に倣う断食をすると言う人でも、日数まで真似ることはできないでしょう。

マタイ4:2ーそして、四十日四十夜断食したあとで、空腹を覚えられた。

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また、もし本当にイエス様に倣っての断食であるならば、道場のような公の場ではなく、個人的にすべきものではないでしょうか?

 

マタイ6:16~18ー断食するときには、偽善者たちのようにやつれた顔つきをしてはいけません。彼らは、断食していることが人に見えるようにと、その顔をやつすのです。まことに、あなたがたに告げます。彼らはすでに自分の報いを受け取っているのです。

しかし、あなたが断食するときには、自分の頭に油を塗り、顔を洗いなさい。

それは、断食していることが、人には見られないで、隠れたところにおられるあなたの父にみられるためです。そうすれば、隠れた所で見ておられるあなたの父が報いてくださいます。

*ただし、この教えは山上の垂訓の一部であり、モーセの律法が有効だったときのユダヤ人たちに対するものです。

 

では、キリストの十字架以降の新約時代の教えの中に『断食』についての教えがあるでしょうか?

 

使徒の働きには、初代教会時代、福音が広がり異邦人信者が増えるに伴い、律法による割礼を受けなければ救われないとする人々と対立が起こりました。使徒15章参照

パリサイ派ユダヤ主義的メシアニックジューたちは、それまでの教えの影響が強く残っていたのです。パリサイ人たちは、異邦人がユダヤ教に回心するには割礼を受けなければならないとしていました。イエス様は十字架前にそのことを責めておられます。

 

マタイ23:15ー忌まわしいものだ。偽善の律法学者、パリサイ人たち。改宗者をひとりつくるのに、海と陸とを飛び回り、改宗者ができると、その人を自分よりも倍悪いゲヘナの子にするからです。

 

 救いは、神の民イスラエルのみと考えていたパリサイ派ユダヤ主義的メシアニックジューたちは、『信仰による義』よりも割礼を受けて一旦ユダヤ人と同じようになり、その上でメシアを信じなければならないと考えていました。

 

使徒15:3ーしかし、パリサイ派の者で信者になった人々が立ち上がり、「異邦人にも割礼を受けさせ、また、モーセの律法を守ることを命じるべきである。」と言った。

 

しかし、それでは律法を守り行うという『行いによる義』となってしまうため、この問題をどうするかを話し合うために、使徒たちと長老たちが集まったのが『エルサレム会議』です。

 

神の選びの民イスラエルユダヤ人にとってモーセの律法は、約束の地での法律であり、日々の生活における慣習でもありました。イエスをメシアだと信じた後であっても、約束の地でも、また離散の地であってもユダヤ人としてのアイデンティティーでもありました。初代教会時代の始まりのメシアニックジュー中心の時は、特に問題はありませんでしたが、異邦人信者が増えるにつれ、律法から除外されていた異邦人はどこまで律法を守るべきかが問題となったのです。

 

モーセの律法はすでにキリストの十字架で無効にされ、ユダヤ人であっても律法の要求から完全に解放されています。

律法が与えられたユダヤ人の場合、メシアニックジューとなってもキリストの恵みの原則に違反せず、他者に強制しない限り、豚肉を食べる自由も食べない自由もあり、服装や土曜日の安息日を守る自由もあります。

 

しかし、律法を実行したからといって、神から義と認められるわけはなく、また、実行する前よりきよくなるわけでもありません。

律法を実行したからといって、その人がユダヤ性を高めたり、霊的になるわけでもなく、また、褒められるわけでもありません。

 

ましてや、初めからモーセの律法の対象外である異邦人信者の場合は、モーセの律法を守ることを課せられたことはないのです。

もし、教会時代の今、律法が命じる断食がすべてのクリスチャンに課せられているのなら、キリストの命令を伝えた使徒たちの教えに中に繰り返し命じられているはずです。

 

しかし、『エルサレム会議』で決められたことの中には、断食の命令はありません。

使徒15:28~29聖霊と私たちは、次のぜひ必要な事のほかは、あなたがたにその上、どんな重荷も負わせないことを決めました。

すなわち、偶像に供えた物と、血と、絞め殺した物と、不品行とを避けることです。これらのことを注意深く避けていれば、それで結構です。以上。」

 

キリストの律法において、いつ、どのように断食するのかという細かな命令はいっさいありません。エルサレム会議でも命じられていないのは、『する必要がない』からです。

 

ただ什一献金と同じく適用として、自分自身が断食する自由はありますが、どのような断食をしたら聖書的だとか言うこともできません。ましてや、他の人に強制したり、断食していることを誇ることもできません。

 

誤解が生じる一番の理由は、モーセの律法が誰に与えられたのかということに対する理解不足だと思います。ここをきちんと理解していないと、自分でも負いきれない不要な重荷を負うことになるので気をつけたいものです。

 

osusowake.hatenablog.com

 

使徒27:9ーかなりの日数が経過しており、断食の季節もすでに過ぎていたため、もう航海は危険であったので、パウロは人々に注意して、

*断食の季節…第七(チスリ)の月(9〜10月)の十日の贖罪の日のこと。

9月中旬以降、地中海は海が荒れるため航海は危険とされ、11月中旬から3月上旬までは航海が完全禁止、さらに5月中旬までは航海は危険とされていました。

 

パウロたち聖書筆者たちはユダヤ人として、随所に旧約聖書の律法を土台として記しています。

私たち異邦人信者は、守り行うために律法を学ぶのではなく、新約聖書のみことばをより深く理解するために律法を学ぶ必要があります。

そして、私たちが守り行うのは、キリストの律法であり、それらを伝えたのがパウロたち使徒たちの教えです。

 

福音書のキリストの教えは、まだ律法が有効だったときのユダヤ人たちに対する教えが中心ですから、異邦人の使徒となって異邦人の教会や異邦人信者個人に多くの書簡を書き記したパウロの手紙をよく理解し、実行することが求められています。