サザエのお裾分け

聖書を字義通り&文脈に沿って学び、理解したことの中からのお裾分け。内容は鵜呑みにせず、必ずご自分で聖書を開いて確認してくださいね。聖書理解の助けになれば幸いです。† 栄光在主 †

あゆみ(3)

亡くなる一週間前に信仰告白をしたマスオさん。

その告白を聞いたのは、イエス様と私だけ…だから、私が彼の証しをしなければ誰も彼の信仰を知ることはできないと思い、ここに記しておくことにしました。

 

 

洗礼も間に合わなかった彼の信仰告白は主の御前で有効なのか…無効なのか…?

聖書が『罪に定められる』と伝えるのは、バプテスマを受けない者ではなく『信じない者』だと記しています。

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エペソ2:8~9ーあなたがたは、恵みのゆえに、信仰によって救われたのです。それは、自分自身から出たことではなく、神からの賜物です。

行いによるのではありません。だれも誇ることのないためです。

 

これは、バプテスマも受けておらず、信仰告白をした後に良い行いをする体力も能力も残っていなかったマスオさんの闘病と救いの証しです。

 

【発病】 

2,015年初夏の会社の健康診断で血液検査結果に異常が見つかり、海外出張から戻ったばかりのマスオさんを連れて近所の総合病院へ。

「ここには専門医がいないので、◯◯病院か△△病院へ向かってください。」

そう言われ、不安を胸にタクシーでの移動中、信号で止まった時にふと窓の外に目をやると、『イクソス』という看板が目に飛び込んで来ました。

 

マタイ16:16ーシモン・ペテロが答えて言った。「あなたは、生ける神の御子キリストです。」

 

このシモン・ペテロの信仰告白ギリシャ語の頭文字を並べると『>* ))))>< (魚)=イクソス』になります。

そうか、主が共にいてくださるから、心配しなくても大丈夫なのね…私はそう自分の心を励ましながら病院へ向かいました。

 

原発性マクログロブリン血症…低悪性度の血液のがん、それがこの時の診断でした。

完治はしないものの、進行は年単位と遅く、予後は10年くらいだと。

 

この時は、約一ヶ月程度の入院でしたが、免疫力が下がったマスオさんは10月に感染症で40度の発熱で再入院。

入院させた日の帰り、バスの中からふと目をやった先には『ぶどうの木』という看板が!!

 

ヨハネ15:1ーわたしはまことのぶどうの木であり、わたしの父は農夫です。

 

(ああ、主よ。あなたにとどまります。どうぞ、マスオさんを癒してください。)

そう祈りながら帰宅しました。

 

寛解治癒とは異なる。病気の症状がほぼ消失し、コントロールされた状態。

治療の効果もあり、維持療法も効き、2,015年10月〜2,018年4月までの2年半の間、在宅勤務から始め、海外出張に出ることができるほどに回復し、発病前とほぼ同じような生活を送っていました。

その間、生命には別状の無い上皮がんにも罹患し、血液内科の定期検診、寛解維持療法に合わせて、皮膚科での治療も始まりました。

 

その間に、カツオくんの結婚、そして2,017年6月には初孫イクラちゃんも与えられました。


イクラちゃんとの初めてのクリスマスには腕をふるい、2,018年お正月には家族四代、八人での初めての家族旅行も楽しみました。

どこにでもある普通の生活、これからはワカメくんやタラちゃんたちも結婚し、家族が増えていくのが当たり前だと思っていました。

2,018年の春までは…

 

【再発】 

「今年は忙しいんだよ。出張続きになるかもしれないから、覚悟しててね」

そう言われた矢先、
『その日』は突然やって来ました。

「…これ」と渡された会社の健康診断の結果。血小板 3.6(正常値15.8~34.8)…💦

 

外来での受診。

それまで正常値だった赤血球、ヘモグロビンなども一気に下がり、血小板は2.3。
正常値を維持しているのは白血球だけ。

「残念ですが、再発してますね。入院しましょう」


(あぁ、やっぱり…)
まさか、ここから迷走が始まるとは思ってもいなかった( ;  ; )

 

この時の長期入院中、台風一過の青空の中病院へ向かう途中、教会の真っ白い十字架がぽっかりと浮いているのが目に飛び込んできました。

これで三度目。

まるで「大丈夫だよ」と主が語ってくださっているかのようなしるしとして受け止められました。

 

イクラちゃんの一歳の誕生日は、院内カフェでお祝いすることに。

ヨチヨチ歩きを始めたイクラちゃんを、目を細めて見守っていたマスオおじいちゃんの姿が印象的でした。

 

約4ヶ月半の入院生活を終え、8月25日の退院の日、手続きを終えてエレベーターを待っている時、マスオさんがボソっと呟きました。

「ありがとう、神様。 ありがとう、イエス様。」

初めて自らの口で、神に感謝する言葉を聞いた日。

 

エレベーターの中で一言
「生きて退院できるとは思わなかった…」

そう言って涙ぐんでいました。

 

入院中明るく振る舞っていたのは、家族を心配させないためだったのね。。。

その言葉とマスオさんの優しさに胸が詰まり、涙が溢れてきました。

「この日が来ることをずっと祈ってたのよ」
そう言うのが精一杯。

他には何も言葉が続きませんでした。

 

退院後の日々は、とても穏やかに過ぎていきました。
ソファで横になっていることが多かったけれど、二週間を過ぎたあたりから自分で朝食を用意し出したり、お散歩したり、友人とランチに行ったり、自宅に招いて腕をふるってもてなしたり、一緒に買い物したり…夜は一緒に映画や海外ドラマを観たり。

特に私にとっての至福の時間は、夕食後。

TVを観ているマスオさんの横で、マスオさんの物を編んで過ごす時間。

 

定年退職後は、きっとこんな穏やかな日々をふたりで過ごすんだろうな…と想像していました。

その『先取り』ではありませんように…そう祈りながら。

 

【再々発】 

2,018年年末、皮膚科と血液内科の定期健診。
皮膚がんの組織検査、抜糸、治療が続く中、私は発病時に知り合った骨髄性白血病を患った(後に亡くなった)方の奥様と年に一度のランチに。
再発したこともあり、将来の備えとしてどのような準備が必要か、いろいろお話を伺いました。
その時は、まだまだ先のこととして…。

 

でも、その翌々日、マスオさんの腹部に発疹ができ「帯状疱疹かもしれない」と言い、頭痛も訴えてきました。

週明け、MRIの結果は特に問題無しとのことだったけど、左眼の突出、複視、斜視が始まっていたため、皮膚科の主治医に相談すると「違うと思うけど、念のため検査しましょう。ただ、帯状疱疹による神経障害は耳鼻科になるので、明日の予約を入れておきますね。」と。

 

耳鼻科から形成外科、脳外科にまわされ検査するも特に異常無し。
左眼を開けていると複視になるため、常に閉じて右眼だけで視界を確保する状態。
眼科で診てもらっても原因不明。脳神経科で診てもらっても原因不明。
帯状疱疹の検査結果は陰性。

 

しかし、明らかにおかしいので、一週間外来でステロイドを点滴投与することに。

でも症状は全く改善しないばかりか、日に日に足の力が弱まり、バスの乗り降りが困難になっていきました。

ステロイドの投与が終わる頃には歩行もままならず、遂にタクシー通院、院内車椅子と、12月に入ってから坂道を転がるように悪化していきました。

 

8月の退院時の主治医の話では、「10月下旬に自家造血幹細胞採取、11月に移植、問題無ければ年内退院」だったので、9月には歯科医にも通って準備をしていたのに…。

10月に突如MDSを疑われ、検査となり移植は延期😥

病状悪化でクリスマスを一週間後に控えた12月19日、遂に入院となりました。

 

翌日の診断結果は再々発、中枢神経浸潤による『がん性髄膜炎』。

 

ようやっと診断がついたことにホッとしていた私とは逆に、看護師たちの表情、態度が一瞬にしてサーっと変わりました。
悲しみに満ちたような表情、憐れむような表情、空元気に励ましていく人…何、これ⁈

 

がん性髄膜炎…中枢神経浸潤…ネットで検索すると、予後が悪い情報ばかり…。

マスオさんは最悪の状態で、38度の発熱、毎日のように輸血、口腔全体に口内炎で食事も取れず痩せこけ、右顔面麻痺に左目突出で、まるで別人。

年が明けた2,019年1月、遠方から来てくれた義兄を交えたカンファレンスでは「平均余命6~10ヶ月」と言われました😭

 

年末に会員登録をしたアメリカのリンパ腫の患者の会から、少しずつ情報を得ていたマスオさん。
1月中旬頃、初めて自分の病状を書き込んだところ、ある化学者の目に留まり、その方が知り合いの世界的に権威ある悪性リンパ腫スペシャリストの医師に連絡を取ってくださいました。

その医師は主人の病状に関心を持ち、主治医と連絡を取りたいと申し出てくれたのです。

 

主治医も快諾してくださり、アメリカの医師のチームの中枢神経の専門医から助言がありました。私には、神の介入のような出来事でした。

2月下旬、抗がん剤の投与が始まると同時に、私は息子たちとT病院、N病院へセカンドオピニオンを聞きに行きました。

時々、発熱や眼の痛みを訴えつつも、4月中旬には髄液内のがん細胞の減少に伴い、麻痺してた足も、弱化した両腕も少しずつ回復。

4月中旬からは歩行訓練が始まりました。


癒しの奇跡としか言いようがない出来事でした。

「イエス様、今はまだ車椅子での移動ですが、あなたは癒し主だと信じます。

どうか自分の足で再び立って、歩いて退院することができますように。

それによってマスオさんが、イエス様こそ癒し主、救い主であることを受け入れることができますように。

神様の栄光をあらわしてください。主の御名によって祈ります。アーメン」

毎日の面会の帰りの私の祈りになっていました。


そこからは見る見る回復。5月に入ると、一人で1~2歩歩ける程に。
幼子が歩き始めたような喜びでした。
GW明けからは杖一本での歩行訓練となり、髄液内のがん細胞はついに1にまで減少しました。

 

5月下旬には退院に向けて大部屋に移動し、病院からは介護保険の申請をするように勧められ、

6月7日、半年強の入院生活を終え、遂に祈ったとおりマスオさんは自分の足で歩いて退院しました。
イクラちゃんの2歳の誕生日も迎え、6月末のPET CTの結果も異常無し…ということで、以前住んでいた時にお世話になったオーストラリアの友人たちに会いに行くことを決めました。

 

要介護3と認定され、7月から週3回、リハビリに通うことに。
皮膚がんの治療も再開し、7月22日には日帰りでの手術も受け、渡豪前の検診でも皮膚科、血液内科共に異常無し。

 

オーストラリア滞在中は、歩行も階段の上り下りも頑張ったマスオさん。
友人・知人たちとの会話、景色、食事、その全てが主人に力を与えているようでした。
食欲は増し、6kgくらい体重が増加してビックリ!
でも、旅の途中から左手の小指から徐々に痺れが増し、握力が弱くなってきました。

 

余命半年〜10ヶ月…そう言われていたので、(この旅が最後になるかもしれない)

そんな不安が常にあり、マスオさんが会いたい人たちと話したいだけ話せるように…私は荷物整理や身の回りの世話に徹し、彼が友人たちと話している時は極力邪魔にならないように、聖書を読んだり、SNSをしたりして過ごしていました。

 

帰国直前になると、右腕にリンパ腫も確認できると訴えてきました。
とても嫌な予感…😱

 

【再々再発】
やはり再々再発でした。
あまりのショックに私は不信仰に陥り、癒しのしるしとなるような物がどこかにないかと、気がつくと探していました。が、いくら目を凝らしても何も与えられません。

 

過去の三度(完全数)しるしを与えてくださった主は、みことばを通して「わたしの恵みは、あなたに十分である。しるしはすでに与えられたのだから、今回は信仰に立ちなさい。」と教えておられるようでした。

 

Ⅱコリント12:9ーしかし、主は、「わたしの恵みは、あなたに十分である。というのは、わたしの力は、弱さのうちに完全に現れるからである。」と言われたのです。ですから、私は、キリストの力が私をおおうために、むしろ大いに喜んで私の弱さを誇りましょう。

 

このみことばを思い出した時、不信仰を悔い改めました。 

再び主の癒しのみわざが起こることを信じて祈り続けました。

 

8月末〜12月上旬まで3ヶ月超の入院生活を終え、ワカメ君とタラちゃんに付き添われて退院してきました。

私はマスオさんの退院日の未明から体調を崩し、退院した日の夕方にはタラちゃんに付き添われて救急搬送され入院。

絶食を命じられ、採血や点滴をした腕は、次々と痣になり、マスオさんの辛さの何分の一かを経験させられました。

 

幸い、五日間で退院でき、2,019~2,020年の年末年始は夫婦共に元気に過ごすことができました。

マスオさんは得意な料理の腕を振るってクリスマスディナーを用意、私はおせち料理を担当。家族も揃い、賑やかな年末年始でした。

マスオさんはとても体調が良いらしく、友人との食事に出かけたり、買い物を楽しんだり、リハビリを兼ねて散歩したりしていました。

今思うと、神様からのプレゼントの日々だったように思います。

 

【再再々再発】 

そんな穏やかな日々はそんなに長くは続かず、2,020年1月中旬には風邪のひき始めのような咳をし出しました。

それが嚥下機能低下のサインでした。

 

あっと言う間に、鍋料理のような柔らかく煮た野菜しか喉を通らなくなり、1月20日には再々再々発で入院。

2月末までは毎日面会に行けましたが、コロナ禍で面会は原則禁止に💦😭

 

3月には、主治医に呼ばれて二度目の余命宣告を受けました。

「強い抗がん剤を使っても再発する間隔がどんどん短くなってきています。

今回は抗がん剤治療をせずに、在宅緩和ケアという選択もあります。

これからは、月単位で考えてください。

5月頃には新薬も使えるようになりますが、治療を続けても新薬に漕ぎ付けるかどうか…いずれにせよ、どこかのタイミングで在宅緩和ケアに切り替えることを考えてください。」

 

マスオさんの決断は、最後にもう一度抗がん剤治療をし、新薬に繋げるというものでした。

カンファレンスの後、病院側の配慮でそのままその部屋でふたりきりで話す時間をくれました。

 

この後一時的に、悪性リンパ腫の合併症の一つである低ナトリウム血症を発症し、一日のうちのほとんど眠っている状態にまでなりました。

そのタイミングで介護認定の確認が入り、要介護3→要介護5に変更になりました。

 

治療に関しては本人の意思を尊重しつつも、まだ信仰告白をしていない彼のたましいの行き先に関しては、なんとしてもパラダイスに送る必要がありました。

しかし、この時点ではまだまだ生きる気満々のマスオさんは、頑として福音を受け入れようとはしませんでした。

その頑なに主を拒む態度がひたすら悲しかったです😭

 

病院側が残された時間が短いこと、抗がん剤の副作用を配慮し、無菌室(個室)に移動させてくれたので、コロナ禍にあっても時間制限なくガラス越しに面会することができました。

それでも他の患者さんや看護師たちに配慮し、週に二回着替えや差し入れを届けに行った時に顔を見て、少し話して帰っていました。

 

シャワーも介助が必要だったり、悪化した時は尿管カテーテルやオムツが必要になったりしたマスオさんは、「神様に謙虚にさせらている」と言っていました。

 

「僕は罪深いから、罪人の祈りはきいてくれないよね…」

「だからこそ、神の御子イエスが人となって罪人の中に来てくださったんだよ。

神と罪人とをご自分の十字架で和解させるために。

素直に示された罪を告白して、あなたの祈りを伝えてみたら?

主は聞いてくださるよ。」

「今までにどんな祈りが叶えられたの?」

「いろいろ叶えられたよ」と、マスオさんが知っていることをいくつか例に出して答えました。

「でも、御心にかなうなら、だよ。主権は神様にあり、神が最善をなさるのだから。

そこを忘れると、自分が神のようになっちゃうから気をつけてね。」

 

きっと「治りたい、生きていたい。」という強い願いがあったのでしょう。

もちろん私もイエス様の癒しの奇跡が起こることを願い、期待し、祈り続けていましたが、同時に常にダニエルの三人の友人たちの信仰の姿勢が頭にありました。

 

ダニエル書3:17~18ーもし、そうなれば、私たちの仕える神は、火の燃える炉から私たちを救い出すことができます。王よ。神は私たちをあなたの手から救い出します。

しかし、もしそうでなくても、王よ、ご承知ください。私たちはあなたの神々に仕えず、あなたが立てた金の像を拝むこともしません。」

 

最悪に備えつつ、最善を期待する姿勢、バランスを保つ必要があるということを自分自身に言い聞かせていました。

 

【一時退院】

6月26日、無菌室での2クールの強い抗がん剤治療を終え、外来でPET CTを撮ってリンパ腫の状況を診るために、新薬投与開始前に十日間の予定で一時退院することになりました。

  

いつもはある程度元気になって退院するのに、今回の退院は覇気がなく、弱々しく、身体はガリガリに痩せていました。

それでも、家族揃ってイクラちゃんの誕生日のお祝いをした時は、唐揚げ、コブサラダ、大好物の海老🍤、ハヤシライス少量を食べて、私たちを驚かせました。

「飲み込めるの?」

「飲み込むコツをつかめたみたい」

 

翌日は、友人から頂いた米沢牛ですきやき。

(これだけ普通食を食べれるなら、在宅期間中に少しでも体重を増やして体力をつけられるかもしれない)そんな淡い希望をもちました。

 

しかし、二日後には吐き気と嘔吐に襲われ、

息子たちに「ごめんね。こんなはずじゃなかったのに…」と謝っていました。

急遽入院覚悟で受診しましたが、レントゲンやPET CTの結果、血圧、血液検査の結果には異常がなかったため、吐き気止めを入れた点滴処置だけを受けて帰宅。

今思うと、主治医は自宅で過ごす残り少ない日々だから、敢えて入院させなかったのではないかと思います。

 

吐き気は二日程で治り、再び経口食を取れるようになりましたが、食べられる量は激減していました。

さらに、胸や背中の痛みとの闘いになり、夜も眠れない状況になっていました。

 

唯一の希望は、7月に再入院して新薬での治療をすることでした。

ここまで漕ぎ付けたのだから、必ず新薬が効いて回復する。

私が信じるイエス様は救い主であり、癒し主だから、マスオさんのたましいを救い、からだも癒してくださる。そしたら、二人三脚で救い主/癒し主を証ししながら、同じ病気で苦しんでいる人や主が遣わされる所どこにでも行こう。

そう心に決めて祈っていました。

 

7月6日に再入院し、その翌日、新薬の投与が始まった夜に痙攣を起こして、家族が呼ばれました。

検査の結果、脳に転移が見られると…。

私はキリストの福音を語り、信じるように促しましたが「信じない。僕はまだ死なない!」とはねられました。

 

「まだ死なない」と言い、落ち着きを取り戻したマスオさんの生命力を信じて、主に託してこの夜は家族は全員帰宅。

 

でも、翌日から高熱を出し、誤嚥性肺炎を併発。

抗生物質が投与され大事には至りませんでしたが、誤嚥を防ぐために胃管挿入になりました。

それも長くは続かず、11日には背中や足の痛みでパニックを起こし、再び家族が呼ばれました。この日から家族が交代で24時間付き添うことになりました。

日に日に弱っていく中で、病院側からは退院して在宅緩和ケアに切り替えるように通達され、不安の中で緩和ケアに向けての準備が進んでいきました。

 

鎮痛剤の麻薬が投与され、せん妄が出たりして覚醒している時間がだんだん少なくなる中、息子たちが遠方の親戚や友人たちとTV電話を繋いで会話をさせたりしていました。

 

信仰告白】 

時間が無い…💦

7月14日、私と二人きりでいる時に、覚醒していた僅かな時間(伝えるなら今だ!)と思い、話しかけました。

 

「ねぇ、「僕は罪深い」と言っていたけど、その罪のために神の御子イエス様は十字架で死なれ、マスオさんの身代わりになって死んでくださったと信じる?」

「うん」

「でも、イエス様ご自身には罪はないから、罪の無い者として葬られたと信じる?」

「うん」

「聖書に従って三日目に復活されたことを信じる?

そうしたら、マスオさんも携挙の時に復活してまた私とも会えるんだよ。信じる?」

 「うん」

 

それまでとは違い、とても素直に一つ一つの質問にポジティブな答えが返ってきました。 

(やったー!遂に、キリストの福音を受け入れてくれた!!これでもう死後のたましいを心配せずに済む。クリスチャンの妻としての務めを果たせた…)

そんな安堵感を覚えました。

 

osusowake.hatenablog.com

 

時間がどのくらい残されているのかもわからないので、マスオさんにとって必要なことが記されている箇所を選んで、聖書朗読を聞かせることにしました。

マスオさんの耳元で、死後の永遠のいのちがあることを伝えるヨハネ福音書11章とか、キリストの福音、携挙、千年王国などを記す1コリント人への手紙15章を聞かせました。

 

どのくらい理解できていたのはわかりませんが、

嫌がることなく、時に目の端に光る物を見せながら聞いていました。

 

ヨハネ11:26ーまた、生きていてわたしを信じる者は、決して死ぬことがありません。

このことを信じますか。

 

1コリント15:3~5ー私があなたがたに最も大切なこととして伝えたのは、私も受けたことであって、次のことです。キリストは、聖書の示すとおりに、私たちの罪のために死なれたこと、

また、葬られたこと、また、聖書の示すとおりに、三日目によみがえられたこと、

また、ケパに現れ、それから十二弟子に現れたことです。

 

1コリント15:17~19ーそして、もしキリストがよみがえらなかったのなら、あなたがたの信仰はむなしく、あなたがたは今もなお、自分の罪の中にいるのです。

そうだったら、キリストにあって眠った者たちは、滅んでしまったのです。

もし、私たちがこの世にあってキリストに単なる希望を置いているだけなら、私たちは、すべての人の中で一番哀れな者です。 

 

1コリント15:23ーしかし、おのおのにその順番があります。まず初穂であるキリスト、次にキリストの再臨のときキリストに属している者です。 

 

1コリント15:51~52ー聞きなさい。私はあなたがたに奥義を告げましょう。私たちはみな、眠ることになるのではなく変えられるのです。

終わりのラッパとともに、たちまち、一瞬のうちにです。ラッパが鳴ると、死者は 口な朽ちないものによみがえり、私たちは変えられるのです。

 

osusowake.hatenablog.com

 

そして、サタンに対し「マスオさんのたましいは、いのちをくださった神の元に帰ることになったのだから、お前は手を引くように。お前の自由にはさせない。彼のたましいは私たちの主キリスト・イエスのものとなりました!」と宣言し、主に感謝の祈りを捧げました。

 

【たましいと肉体の分離】

7月20日(月)正午に退院し、看護師、私、ワカメくん、タラちゃんに付き添われ、リクライニング車椅子に乗ったまま介護タクシーで帰宅しました。

訪問医療の医師や看護師に引き継がれ、説明及び契約を交わし、医療スタッフ全員が去った後、私たちは遅い昼食を取っていました。いつもと変わらぬ他愛ない会話をしながら…。

 

もうすぐ食べ終わるという頃、ワカメくんが「あれ、なんか静かじゃない?寝てる?」と気づき、様子を見に行くとマスオさんはとても穏やかな眠ているような顔で呼吸だけが止まっていました。

タラちゃんが心臓マッサージをしている間、カツオくんと先ほど帰ったばかりの訪問医に連絡。

エレベーター一往復の差でカツオくんが先に到着。

訪問医はなかなか言葉を発しません。到着時は僅かながらまだ脈があったとのことで、マスオさんは自宅で、苦しむことなく家族全員に看取られながら、主の待つ天のパラダイスへと旅立ちました。

 

エンゼルケアをしてくださった看護師によると、希望者は多いけれど、自宅で亡くなる患者さんは本当に少ないそうです。

「家族の元に帰宅してホッとし、家族の会話を聞きながら(もう大丈夫)と安心して、ひとり静かに、誰にも迷惑をかけることなく旅立ったと思います。

眉間にシワが無いことからも苦しんでいなかったことは明らかですよ」と。

 

主にある者は、恵みのうちに平安の中で神のもとに帰るんですね。

 

伝道者の書12:7ーちりはもとあった地に帰り、霊はこれを下さった神に帰る。

 

【後日談】

葬儀に向けて準備を進めていると、息子が「これ、親父のFBから」と見せてくれた投稿の日付は、2,019年10月1日、私たちの結婚記念日の投稿でした。

その最後に一行に

「サザエ、ずっと僕の『岩』でいてくれてありがとう!」と。

 

普通なら「ずっと支えてくれてありがとう」と書くのでは…?

なぜ『岩』?

なんでわざわざ『岩』なの?

 

『岩』ってイエス様のことだよね?!

 

ローマ9:33ーそれは、こう書かれているとおりです。

「見よ。わたしは、

シオンに、つまずきの石、妨げの岩を置く。

彼に信頼する者は、

失望させられることがない。

 

1コリント10:4ーみな同じ御霊の飲み物を飲みました。というのは、彼らについて来た御霊の岩から飲んだからです。その岩とはキリストです。

 

もしかしたら、この頃には私の中のイエス様に頼っていたのかもしれません。

そう思うことによって、ひとり残された今 マスオさんのこの一言が私の支えとなっています。