サザエのお裾分け

聖書を字義通り&文脈に沿って学び、理解したことの中からのお裾分け。内容は鵜呑みにせず、必ずご自分で聖書を開いて確認してくださいね。聖書理解の助けになれば幸いです。† 栄光在主 †

放蕩息子 〜ルカ15:11~25〜

ルカ15章には、神様の愛が凝縮されています。イエスの周りには取税人や罪人たちが、集まってきていました。パリサイ人や律法学者たちは、罪人たちを軽蔑していました。

 

ユダヤ教の宗派は大きく分けて三つ

1)エッセネ派パリサイ派より小さく、もっと排他的。修道院の共同体の中で生活していました。

 

2)サドカイ派ー大部分が祭司階級や上層階級出身で、当時の反超自然主義者。神殿勤務。モーセの律法に熱心で、その実際的諸解釈をも権威あるものと認めていました。しかし、その厳守は外面的で自己義認に陥る傾向にありました。神学的には死者の復活を否定する点が、パリサイ派との大きな違いですーcf マタイ22:23~32。 

 

AD70年、ローマ軍によって神殿が崩壊されてからは、勤務場所がなくなったので自然消滅しました。キリスト教に対する迫害は、最初このサドカイ派から始まりました。

 

3)パリサイ派ー伝承を重んじ、モーセの律法に厳格だが儀式律法を強調。外面の細かいところに注意深く、人前での自己義認。霊的無知、聖書の曲解。少数派だが、強力なものを持っていました。

 

現在のユダヤ教は、パリサイ派です。次の迫害はパリサイ派から始まり、パウロは回心する前のサウロ時代、熱心にキリスト教徒たちを迫害していました。cf 使徒8:1~3。

 

 

 

ルカ15:11~12罪の発端12節ー弟が父に『お父さん。私に財産の分け前をください』と言った。当時の習慣では、父親が亡くなるまで財産分与はしませんでした。弟の相続分は1/3、兄は2/3ーcf 申命記21:17

 

「それで父は、身代を“ふたりに”分けてやった。」とあります。財産分与を要求していない兄にまで分けてあげたのです。

 

ルカ15:13~16転落期。もらった分は小遣いにして、親元にいればいいものを…と思いますが、自由に使うには親の目の届かない所に行きたい、と思うのが子どものようです。弟息子は何日もたたぬうちに、荷物をまとめて遠い国に旅立ちました。

 

何故、弟は財産をもらうとすぐ遠い国へと旅立ったのでしょう?親元にいれば衣食住は無料なわけですから、分けてもらった財産はすべて小遣いとして自分のものになったと思いませんか?

 

親元にいると、お金の使い方に関していろいろと監視の目がありますよね?! きっと干渉されるのが嫌だったのでしょうね。

 

『そこで放蕩して湯水のように財産を使ってしまった』とありますが、「湯水のように使う」とは、どういうことでしょうか?毎日毎晩、遊び暮らし、友人におごったりもしたでしょう。

ルカ15:30ー遊女におぼれて、とあります。

 

箴言29:3ー知恵を愛する人は、その父を喜ばせ、遊女と交わる者は、財産を滅ぼす。

 

ルカ15:14ー財産があるうちに少しは蓄えておけばよいものを、すべて使い果たした後で、彼が住んでいた国に飢饉が起こりました。「所詮、人生とはそういうもんです」…って言う人がいるかもしれませんね。彼は食べるにも困り始めました。

 

ルカ15:15ー豪遊していた彼も遂に他人を頼ることになりました。私たちも何かあると、神よりもまず他人を頼ってしまうことがしばしばです。結果はどうだったでしょう?彼はユダヤ人です。遠い国ですからそこは異邦人の国。当然頼った相手は異邦人です。

 

異邦人のその人は、彼を畑にやって、豚の世話をさせました。彼にとっては屈辱的な仕事です。なぜなら、ユダヤ人にとって豚は汚れた動物だからですーcfレビ記11:7。

 

ルカ15:16ー豚の世話という仕事には就いたものの、国は飢饉に見舞われているので、彼は常に空腹でした。汚れている豚の餌であるいなご豆でお腹を満たしたいと思うほどでした。しかし誰一人彼に食べ物をくれる人はいませんでした。

 

彼にまだ父の財産が残っていた時、おごってあげた友人はどうしたのでしょう?やはり「金の切れ目は、縁の切れ目」? こうして、彼はどん底まで転落していきました。

 

ルカ15:17~19転換点。17節どん底まで落ちぶれて初めて彼は、父の家を思い出しました。そしてそこがどれほど恵まれた場所だったかを思い出しました。父の家にいる雇い人はパンが有り余っているのに、息子である自分は飢え死にしそうだと。

 

18〜19節ー彼は父の家に帰る決心をして、ここで謝罪の練習をしています。その内容を見ると、彼は反省ではなく悔い改めをしていることが分かります。神にも父にも罪を告白し、19節ー子である資格を放棄し、「雇い人のひとりにして欲しい」とまで言っています。

 

父の家を出て、父の財産を頼り、異邦人を頼り、遂に食べる物も頼る者も完全に失った時が、彼にとっての悔い改めの時でした。神以外、頼るべきものを何一つ残っていなかったのです。

 

ルカ15:20~24帰還20節ーいよいよ彼は立ち上がって、父の家へと帰ります。道中何度も謝罪の練習をしたことでしょう。その彼がまだ家からは遠かったのに、父親は彼を見つけたのです!なぜでしょう?

 

父親は、末息子が(今日帰って来るか、明日帰って来るか…)と、仕事の合間を見ては、家へと繋がる一本道を高い所から目をこらして見ていたのかもしれません。

 

だから「親」という字は「木の上に立って見る」と書くのです。

赤ちゃんの時は、たくさん手を伸ばして世話をすることが必要です。子供時代は、その手を成長に合わせて少しずつ引っ込めて、自立させるための訓練期です。

 

成人したら手は離すけれど、常に全体が見えるように 少し高い所から目だけは離さず、見守っていく…そして、本当に困っている時だけ助ける。これが親の姿であり、愛情です。

 

(いた!あの子だ!あの子が帰って来た!)と、まだ遠い所にいたのに走って迎えに行きました。遠い国から飲まず食わずで帰ってきた息子。豚の世話をしていた息子。痩せて、汗と埃まみれで、ヨレヨレで、体臭もひどかったことでしょう。

 

それでも父親は、彼をかわいそうに思い、走り寄って、彼を抱きしめ、何度も何度も口づけしました。私たちがまだ神を信じる前、どれほど罪に汚れていようとも、父なる神の前に帰って行くとき神は両手を広げ「よく帰って来た!」と抱きしめ迎え入れてくれます。

 

「汚いから先に自分で身を清めてから帰って来なさい」とは言われません。そのままの状態で帰って来たことを喜んで迎えてくれるのです。その愛を知らない人は「こんな罪深い私を赦してくれるはずがない」「もう少しマシになってから」と帰ろうとしません。

 

ルカ15:21ーこの息子はどうだったでしょう?彼は練習した謝罪のことばを言い始めました。「おとうさん。私は天に対して罪を犯し、またあなたの前に罪を犯しました。もう私はあなたの子と呼ばれる資格はありません。」と言おうとしました。

 

ルカ15:18~19の謝罪のことばと比べてみてください。彼が言い終わらないうちに、父親はしもべたちに指示を出しました。

 

ルカ15:22ー一番良い着物…「義の衣」ーローマ13:14-“主イエス・キリストを着なさい。肉の欲のため心を用いてはいけません。” 家族の一員として息子を迎え入れることを意味します。指輪…権威を持つシンボル。くつ…自由人の贅沢品。

 

父は「雇い人のひとりにしてください」という息子の思いを察し、そのことばを言う前に、しもべに出した指示によって、どのように彼を迎え入れたのかを示されたのです。放蕩三昧だった息子に対して、怒ってはいないのです。

 

迷子になった子供が見つかると、安堵と同時に心配が怒りに変わって、叱ってしまうことってありますよね!? 「どこ行ってたの?ちゃんと◯◯にいなさいって言ったでしょ!!」と。←詳しいでしょ?この思いは経験済みですからね^^;;

 

迷子だった子供自身は、すご〜く不安だったはずです。泣かずに頑張っていることもあるでしょう。こういう時こそ、親の愛情を言葉で表現する良い機会です。

 

「心配したのよ。イエスさまにずっと祈りながら探してたの。見つかってよかった。無事でよかった。イエスさまが祈りに答えてくれたから、一緒に『イエスさま、ありがとう』ってお祈りしようね。」と。

 

ルカ15:23ー代わりに肥えた子牛がほふられました。これはレビ記による和解のいけにえに当たるのでしょう。ーcfレビ記3:1。

 

和解のいけにえ】神と人との和解・平和・喜びを表す。動物は牛、羊、やぎの雄雌どちらでもよく(山鳩・家鳩を除く)、その脂肪の部分が焼かれて主にささげられ、残りは祭司と奉献者によって食されました。cf創世記31:54、出エジプト記18:12

 

今 私たちが和解のいけにえを捧げない理由は、キリストの十字架においてなされた贖罪によって、生まれ変わった者の交わりの回復において完成されたからです。

 

ルカ15:24ー死んでいたのが生き返り…父なる神から離れ、霊的に死んでいたのが、神に立ち返ったことを意味。いなくなっていたのがみつかった…一匹の羊(4~7節)と一枚の銀貨(8~10節)とリンク。ここでは食事による親しい交わりで喜びを表現

 

ここまでが父なる神から遠く離れていた弟息子との回復、そして25節から兄息子の話になります。

 

ルカ15:25ー兄息子は父の家で生活をともにし、とても従順に畑仕事を手伝っていました。パリサイ人も律法学者も神の民の中で、熱心に律法に仕えていました。

 

ルカ15:26ー兄は一日の仕事を終え、疲れて帰って来たところ、家の中から何やらにぎやかな音楽や踊りの音が聞こえています。しもべのひとりに「何事か?」と尋ねると

 

ルカ15:27ー弟が無事に帰って来たので、父が喜んで祝っていると知らされました。普通なら「えっ!?本当か!」と急いで中に入って行き、弟の無事な姿をその目で確かめ、父親同様喜びをともにするのが家族だと思います。

 

ルカ15:28ーところが、この兄は怒って、家の中に入ろうともしませんでした。へそを曲げてしまったのです。そんな兄息子のところに父親が出て来て、いろいろとなだめたとあります。「何やってんだ!」と怒らずに、いろいろとなだめられる父なる神の愛。

 

ルカ15:29ー兄息子の言い分は「長年の間、私はお父さんに仕え、戒めを破ったことは一度もありません」ーこれが、兄息子の生活でした。熱心に律法に仕えることにより、自らの義を立証しようとするパリサイ人、律法学者の姿です。

 

父の元で“良い子”でいた自分には「友だちと楽しめと言って、子山羊一匹くださったことはありません。30節ーそれなのに、遊女におぼれてあなたの身代を食いつぶして帰ってきた“このあなたの息子”のためには、肥えた子牛をほらせなさったのですか」

 

箴言29:3ー知恵を愛する人は、その父を喜ばせ、遊女と交わる者は、財産を滅ぼす。

 

良い子でいた自分にはご褒美はないのに、悪い子だった弟は、帰ってきたというだけでご褒美をあげるなんて…ずるい!不公平だ!というのが、兄息子の言い分です。

 

兄は弟のことを「このあなたの息子」と呼んでいます。ここにアダムの罪をみますーあなたが私のそばに置かれたこの女が、あの木から取って私にくれたので私は食べたのですー創世記3:12。この言葉の裏には弟として、妻として認めない思いがあります

 

ルカ15:31ーそんな兄息子に対して、父は悟らせるように、父の家にいる当然の権利とめぐみ、自由を語っています。悲しいかな…律法を、みことばを曲解してしまうと、どんなに熱心であっても主のもとにいるこれらの祝福を喜ぶことができなくなるのです。

 

みことばはまっすぐ、素直に読み、受け入れるに足るものですーヤコブ1:21

 

ルカ15:32ーそして父は、弟息子に24節で言ったのと同じことばでもって兄息子に語ります。「死んでいたのが生き返ったのだ。いなくなっていたのが見つかったのだ」と「楽しんで喜ぶのは当然だ」と。

 

ひとりの罪人が悔い改めて、神に立ち返ると、天では御使いたちに喜びがわき起こり、地では神の家族に喜びがわき起こるのです!ハレルヤ!神は愛なり。アーメン

 

 

 

追伸:同じ両親から生まれた子でも、ひとりひとり性格も能力も興味もみな違います。十把一絡げの対応ではなく、ひとりひとりの心に寄り添って、子育てが出来るといいですね。

どんな時でも、子供を最後まで信じ続けてあげられるのは、親しかいません。そのためにも子供との信頼関係は大切です。

躾は学校がするのではなく、親、家庭の責任です。父なる神に似た者として造らているのですから、愛をもってしっかりと躾けていきましょう。主のお導きがありますように。ー祈ー

f:id:bluemome:20130312211647j:plain