聖書が示す神は『三位一体』の神であり、その神が『七日目』になさっていたみわざの完成を告げられました。
聖書では『三』とか『七』という数字には、節目としての意味もあります。
たとえば、イエスの公生涯『三日目』に弟子たちを召命し始められました。そしてこの『カナの婚礼でのしるし』は、『公生涯七日目』の出来事です。
ヨハネ2:1ーそれから三日目…ピリポとナタナエルが弟子に加わってから。公生涯七日目。
公生涯第六日目の記録が無いことから、おそらく第六日目が『安息日』にあたっていたと思われます。
カナの婚礼…イエスの母マリヤ招かれた関係で、イエスもイエスの弟子たちも招かれました。
ヨハネ2:2ーこの段階で少なくとも5人の弟子(ヨハネ、アンデレ、ペテロ、ピリポ、ナタナエル)が一緒だったはずです。
ヨハネ2:3ー母マリヤはなぜ『ぶどう酒が無い。』という窮状を、招待客のひとりであるイエスに訴えたのでしょう?
婚礼に多くの人々を招いておきながら、祝宴途中でぶどう酒が底をつくというのは、新郎新婦、その家族にとって大変な恥でした。
『困ったときの神頼み』は日本人にはお得意分野ですが、このときのマリヤは息子イエスをどのような方として捉えていたのでしょう?
ルカ1:37ー神にとって不可能なことは一つもありません。
ルカ2:19ーしかしマリヤは、これらのことをすべて心に納めて、思いを巡らしていた。
ルカ2:51ーそれからイエスは、いっしょに下って行かれ、ナザレに帰って、両親に仕えられた。母はこれらのことをみな、心に留めておいた。
マリヤは問題をとにかくイエスのもとへと持って行きました。
私たちはどうでしょう?自分で何とかしなくちゃ、とりあえず親友に相談…親に相談…と駆け回り、万事休すになって初めて『祈る』ということはありませんか?
ヨハネ2:4ー窮状に対する助けを求めて来た母マリヤに対するイエスの返答は、日本語で読むとすごく冷たく感じるかもしれませんね。
女の方…ギリシャ語:ギュナイ。当時の一般的な呼びかけであり、尊敬や好意をあらわす表現として用いられた言葉です。
ですが、ここではどのような『関係』であることを分からせようとされているのでしょう?
イエスが言われた『わたしの時』というのは、『神の子/メシア』としてのしるしを表すタイミングです。それは、生みの母が決めるべき事柄ではなく、天の父が決められる『時』でした。
ヨハネ5:30ーわたしは、自分からは何事も行なうことができません。ただ聞くとおりにさばくのです。そして、わたしのさばきは正しいのです。わたし自身の望むことを求めず、わたしを遣わした方のみこころを求めるからです。
ヨハネ6:38ーわたしが天から下って来たのは、自分のみこころを行なうためではなく、わたしを遣わした方のみこころを行なうためです。
私たちは何事も自分が求める『時』と『方法』で事を行なおうとしがちですが、イエスはすべて『神様の時と方法』に従われました。
私たちも神様にお委ねして、神様の時と方法を待つことが必要ですね。
ヨハネ2:5ーマリヤはイエスのことばを心に留め、手伝いの者たちに一言だけ声を掛けました。「あの方が言われることを、何でもしてあげてください。」と…。
ヨハネ2:6ーきよめのしきたり…ユダヤ教の『きよめのしきたり』に従って、水を入れた水瓶を家の入口の所に置いてありました。
それは外で触れた汚れをきよめるため、①家に入る前の足を洗う、②手を洗うためのものでした。
マルコ7:3~5ーーパリサイ人をはじめユダヤ人はみな、昔の人たちの言い伝えを堅く守って、手をよく洗わないでは食事をせず、
また、市場から帰ったときには、からだをきよめてからでないと食事をしない。まだこのほかにも、杯、水差し、銅器を洗うことなど、堅く守るように伝えられた、しきたりがたくさんある。ー
*つまり『モーセの律法』ではなく、バビロン捕囚以降に指導者たちによって作られた『口伝律法』です。
六つ…聖書の完全数『七』に一つ足りない、『律法主義の不完全さ』を表わす数。
なぜなら、人間が決めた不完全な『きよめのしきたり』は、からだの外側の部分しかきよめることができないからです。
ヨハネ2:7ーイエスは手伝いの者たちに、水がめに水を満たすようにと命じられました。
事前に、母マリヤから「言われた事は何でもするように。」と聞いていたので、彼らはイエスに言われたとおりに水がめの縁まで水を満たしました。
ヨハネ2:8ー彼らが従順に従ったとき、イエスは命じられました。「さあ、今くみなさい。そして宴会の世話役のところに持って行きなさい。」と。
ここまでは、水がめの縁まで水を満たし、またそこからくんだ手伝いの者たちは同じ人たちです。ですから、彼らは今自分たちが縁まで満たした『水』だと思っていたことになります。
ヨハネ2:9ー宴会の世話役のところに持って行くと、それはぶどう酒になっていました。彼はそのぶどう酒がどこから来たのか、知らなかったとあります。
しかし手伝いの者たちは知っていた、と。
イエスの命令に従った者だけが分かる『奇蹟』なのです。
イエスを信じ、従うことなく『奇蹟』だけを求めるのは、不信仰であり、神に喜ばれるものではありません。
ヨハネ2:10ー何も知らない世話役は、素直にこの『良いぶどう酒』を喜び、花婿を誉めています。
ヨハネ2:11ー『水をぶどう酒に変える』という奇蹟には、目的がありました。新郎新婦、またその家族に恥をかかせないという『人間主体』ではなく、『イエスご自身の神の御子としての栄光を現わすため』でした。その結果として『弟子たちはイエスを信じた。』とあります。
私たちが『しるし』や『奇蹟』を求める時、自分のため、自分の栄光を求める自己中心になってはいないでしょうか?
イエスがユダヤ教の口伝律法による『きよめの水』をご自身が十字架上で流される血を象徴する『ぶどう酒』に変えられたということは、からだの外側のきよめだけという不完全な人間の『しきたり』ではなく、からだの内側からの罪をきよめてくださるキリストの完全な罪の贖いを表します。
メシアとしての最初のしるしが『カナの婚礼』だったということは、やがてそのメシアを信じる者たちの集まりである『教会』を、キリストの花嫁として迎える花婿との天での『婚礼』を連想させますね。
十字架の意味を正しく理解し、自分のためだったと信じることができますように。