ユダヤ教の教えには、三つの柱となる『御使い・モーセ・祭儀制度』があります。
著者は、これらの三本柱と御子を対比させ、ユダヤ教に回帰しようかと迷っていたヘブル書の受取人たちに、御子の方がより優れていることを立証して、信仰に留まるように説得しています。
ヘブル3:1~6では、二つ目の『モーセ』と御子を対比させています。この背景となるのは、旧約聖書の民数記12:5~8です。
民数記12:5~8ー主は雲の柱の中にあって降りて来られ、天幕の入口に立って、アロンとミリヤムを呼ばれた。ふたりが出て行くと、
仰せられた。「わたしのことばを聞け。もし、あなたがたのひとりが預言者であるなら、主であるわたしは、幻の中でその者にわたしを知らせ、夢の中でその者に語る。
しかしわたしのしもべモーセとはそうではない。彼はわたしの全家を通じて忠実な者である。
彼とは、わたしは口と口とで語り、明らかに語って、なぞで話すことはしない。彼はまた、主の姿を仰ぎ見ている。なぜ、あなたがたは、わたしのしもべモーセを恐れずに非難するのか。」
モーセの兄アロンと姉ミリヤム(ヘブル語名。ギリシャ語:マリヤ)が、モーセの権威に挑戦したとき、神が介入され、モーセが忠実であり、顔と顔とを合わせて語られた特別な預言者であることを指摘されました。
著者は、1〜4節で『御子の人間性とわざ』について記しています。
旧約聖書で忠実だったモーセには、その忠実さにおいても『欠陥』が見られました。
しかし、今や『モーセよりも偉大な方』が現れたのです。
その方に『欠陥』はあるのでしょうか?
ヘブル3:1ーそういうわけですから、天の召しにあずかっている聖なる兄弟たち。私たちの告白する信仰の使徒であり、大祭司であるイエスのことを考えなさい。
*天の召しにあずかっている聖なる兄弟たち…ヘブル書の受取人たちが『信者』であることを明確に示すことば。受取人たちは真の信者だったということ。
*召しにあずかっている…天の召命の共同相続人、の意。
受取人たちは、救いへの召しに『あずかって』いました。ヘブル3:14では、彼らは、メシアとの共同の相続人だと記されています。
ヘブル3:14ーもし最初の核心を終わりまでしっかり保ちさえすれば、私たちは、キリストにあずかる者となるのです。
*私たちの告白する信仰の使徒であり、大祭司であるイエスのことを考えなさい…この呼びかけは、受取人たちが『信者』であったため。
*考えなさい…ギリシャ語:『注意深く学び、調べる』の意。
彼らはすでに信仰告白をしていました。
『イエスがメシアである』という信仰告白の次のステップは、そのメシアから『学ぶ』こと。
現在の信者はこれを怠り、祈りや奉仕に忙しくしていることが多いですね。もう一度原点に立ち返る必要があると思います。みことばに基づいた祈りをするためにも…ね。
そのためには、キリスト(みことば)から学ぶ必要があります。
みことばから離れては、何もできないからです。
マタイ11:29ーわたしは心優しく、へりくだっているから、あなたがたもわたしのくびきを負って、わたしから学びなさい。そうすればたましいに安らぎが来ます。
ヘブル書の受取人たちは、彼らが回帰しようとしていたユダヤ教の『レビ的祭儀制度』ではなく、『メシアから目を逸らさずに』すべきでした。
*使徒であり、大祭司である…メシアについての二つの称号。
使徒は預言者のように、人々に対して『神の代理』をしています。この『使徒』とは、『十二使徒』とは異なる意味を持ちます。それは『新しい時代』を来たらせる使者であり、その者を通して契約が締結されるという意味です。モーセとイエスは、そのような意味での『使徒』でした。
ヨハネ1:17ーというのは、律法はモーセによって与えられ、恵みとまことはイエス・キリストによって実現したからである。
モーセを通して『モーセ契約』が締結され、律法のディスペンセーション(時代)が導入されました。
そしてイエスを通して『新しい契約』が締結され、恵みのディスペンセーション(時代)が導入されたのです。
*使徒…遣わされた者、の意。
神はモーセを遣わされました。
出エジプト記3:11~12ーモーセは神に申し上げた。「私はいったい何者なのでしょう。パロのもとに行ってイスラエル人をエジプトから連れ出さなければならないとは。」
神は仰せられた。「わたしはあなたとともにいる。これがあなたのためのしるしである。わたしがあなたを遣わすのだ。あなたが民をエジプトから導き出すとき、あなたがたは、この山で、神に仕えなければならない。」
メシアもまた、神に遣わされました。
ヨハネ3:34ー神がお遣わしになった方は、神のことばを話される。神が御霊を無限に与えられるからである。
ヨハネ5:36~37ーしかし、わたしにはヨハネの証言よりもすぐれた証言があります。父がわたしに成し遂げさせようとしてお与えになったわざ、すなわちわたしが行っているわざそのものが、わたしについて、父がわたしを遣わしたことを証言しているのです。
またわたしを遣わした父ご自身がわたしについて証言しておられます。あなたがたは、まだ一度もその御声を聞いたこともなく、御姿を見たこともありません。
ヨハネ17:3ーその永遠のいのちとは、彼らが唯一のまことの神であるあなたと、あなたの遣わされたイエス・キリストとを知ることです。
*使徒であり…イエスと『モーセ』を重ねています。(使徒の内容については、ヘブル書3:1~4:13で発展します。)
*大祭司である…イエスを『アロン』と重ねています。
『大祭司』は、神に対する人間の代表であり、その意味においてイエスは『アロン』のようです。(大祭司の内容については、ヘブル書4:14~7:28で発展します。)
*私たちの告白する…受取人/読者たちは、彼らの『イエスはメシアである』という信仰を公に告白していました。
ヘブル4:14ーさて、私たちのためには、もろもろの天を通られた偉大な大祭司である神の子イエスがおられるのですから、私たちの信仰の告白を堅く保とうではありませんか。
ヘブル10:23ー約束された方は真実な方ですから、私たちは動揺しないで、しっかりと希望を告白しようではありませんか。
しかし、そのような彼らは、信仰告白をしていながら、イエスが彼らの『信仰の使徒であり、大祭司である』ことを検証するように勧められたのです。
ヘブル3:2ーモーセが神の家全体のために忠実であったのと同様に、イエスはご自分を立てた方に対して忠実なのです。
著者は、民数記の記述に基づいて、モーセが人類史上最も『忠実であった』ことを指摘しています。
民数記12:7ーしかしわたしのしもべモーセとはそうではない。彼はわたしの全家を通じて忠実な者である。
*全家…イスラエルの『全家』。モーセは、その中で最も忠実でした。しかしそのモーセも時々失敗しました。
イエスには、モーセがしたような『失敗』はなく、モーセに優って父なる神に忠実でした。
ヘブル3:3ー家よりも、家を建てる者が大きな栄誉を持つのと同様に、イエスはモーセよりも大きな栄光を受けるのにふさわしいとされました。
ヘブル3:4aー家はそれぞれ、だれかが建てるのですが、
モーセはイスラエルの家にいましたが、その『家』はメシアによって建てられました。
ヘブル3:4bーすべてのものを造られた方は、神です。
*すべてのものを造られた方は、神です…メシアは、すべてのものを造られました。
コロサイ1:16ーなぜなら、万物は御子にあって造られたからです。天にあるもの、地にあるもの、見えるもの、また見えないもの、王座も主権も支配も権威も、すべて御子によって造られたのです。万物は、御子によって造られ、御子のために造られたのです。
5〜6節では、御子の地位について記されています。
ヘブル3:5ーモーセは、しもべとして神の家全体のために忠実でした。それは、後に語られる事をあかしするためでした。
*しもべ…ギリシャ語:『癒す』の意。
モーセは、イスラエルの道徳的・霊的需要を満たすために仕えていたことを強調しています。しかし、その働きは『後に語られる事をあかしするため』の準備でした。
ヘブル3:6ーしかし、キリストは御子として神の家を忠実に治められるのです。もし私たちが、確信と、希望による誇りとを、終わりまでしっかりと持ち続けるならば、私たちが神の家なのです。
モーセはイスラエルの家の中でのしもべでしたが、イエスは『メシア』として信者たちが今置かれている家を治めています。
*神の家…この解釈には、二つの可能性があります。
⑴ 教会
エペソ2:19ーこういうわけで、あなたがたは、もはや他国人でも寄留者でもなく、今は聖徒たちと同じ国民であり、神の家族なのです。
⑵ 神のイスラエルの家
ガラテヤ6:16ーどうか、この基準に従って進む人々、すなわち神のイスラエルの上に、平安とあわれみがありますように。
*すなわち…ギリシャ語:kai =英語:And(そして)。新改訳聖書の誤訳箇所の一つ。『置換神学』の影響によるとても重大な誤訳です。異邦人信者である『クリスチャン=霊的イスラエル』ではありません。
⑴ か ⑵ のどちらを取るかについては、ヘブル書全体の文脈から考慮する必要があります。その場合、より可能性が高い解釈は、⑵ の『神のイスラエルの家』となります。
いずれにしても、メシアは『神の家』を治める主です。
モーセは『しもべ』でしたが、メシアは『御子』として『神の家』を所有し、相続します。イエスは神の家の主の御子ですが、モーセはこの家の主に対するしもべにすぎません。
*もし私たちが、確信と、希望による誇りとを、終わりまでしっかりと持ち続けるならば…締めくくり。真の信者を表すしるしがこれです!
💡ただし、この箇所は信者の霊的救いの条件を説明するものではありません。もしそうならば、救いは『信仰』ではなく、『わざ』によることになってしまいます。
ここでのポイントは、その人に本当の信仰は、信仰に留まり続けることによって証明されるということです。
信仰に留まり続けない場合は、『その人は救われていない』ということではありませんが、信仰があるかどうかを証明するものが欠落していることになります。
クリスチャンになった後、
律法のある部分を個人的に引用し、守ることは個人の自由です。
1コリント10:23ーすべてのことは、してもよいのです。しかし、すべてのことが有益とはかぎりません。すべてのことは、してもよいのです。しかし、すべてのことが徳を高めるとはかぎりません。
ただし、
①他者に強制してはいけません。
②律法を守ることによって救われるのではありません。
私たちは、神の恵みによって、キリストを信じる信仰によって救われました。
ですから、救ってくださった方を喜ばせるように、みことばに忠実な信仰の歩みをしていくことが大切です。
この箇所は、民数記13~14章の『カデシュ・バルネアの罪』が背景となっています。
神のみことばによる約束よりも、人の目で見、人が感じたこと、人のことばを信じることの危険性に、私たちも気をつけなくてはなりません。
何のことかよくわからないという方は、こちらを先にお読みください。
『カデシュ・バルネアでの出来事』は、イスラエルの荒野の歴史のターニングポイントとなる重要な出来事でした。
以前にもイスラエルの民は、神に反逆し、つぶやきましたが、この出来事は詩篇95:9で『試み』と呼ばれる特別な反抗となりました。
詩篇95:9ーあのとき、あなたがたの先祖たちは
すでにわたしのわざを見ておりながら、
わたしを試み、わたしをためした。
そのため出エジプトの世代は、『約束の地』に入ることを許されなくなりました。
彼らはヨシュアとカレブと出エジプト時二十歳未満だった者を除く、すべての民が死に絶えるまで、40年間荒野の放浪を続けなければならなくなりました。
40年の間に荒野で生まれた民は、エジプトで『奴隷』として生まれたのではなく、『新しい世代』として『自由人』として生まれ、約束の地に入りました。
出エジプトの世代は『回帰不能点』に達し、彼らの不信仰による選びは、神の裁きを不可避なものとしたのです。その『裁き』とは、『約束の地の外で肉体的に死ぬ』というものでした。
民数記13~14章は、ヘブル書の受取人/読者たちに同じ『危機』が迫っていると適用されます。彼らのまた、肉体的死に直結する重要な決断を迫られていたのです。
聖書は一度『回帰不能点』に達すると、裁きが確定し、不可避になることを教えています。
この裁きは、霊的救いを失うというものではなく、肉体的裁きを招くものです。
1コリント5:5ーこのような者をサタンに引き渡したのです。それは彼の肉が滅ぼされるためですが、それによって彼の霊が主の日に救われるためです。
民数記14:20では、神は彼らを「赦す」と言われています。ですから、この裁きは、個人の救いに影響するものではなく、罪による肉体的な刈り取りを要求されるものです。
民数記14:20ー主は仰せられた。「わたしはあなたのことばどおりに赦そう。
律法の仲介者となったモーセも、メリバでの一つの罪によって約束の地の外で死ななければなりませんでした。この罪は、モーセ個人の救いに影響を及ぼしたのではなく、自らの罪の肉体的刈り取りを迫られたものでした。
ヘブル書の著者は、この箇所で『安息』ということばを頻繁に用いています。
【三つの異なる意味】
①天地創造の安息…出エジプト世代に関連する預言的意味を持つ。
詩篇95:7~11ー主は、私たちの神。
私たちは、その牧場の民、その御手の羊である。
きょう、もし御声を聞くなら、
メリバでのときのように、
荒野のマサでの日のように、
あなたがたの心をかたくなにしてはならない。
あのとき、あなたがたの先祖たちは
すでにわたしのわざを見ておりながら、
わたしを試み、わたしをためした。
わたしは四十年の間、
その世代の者たちを忌みきらい、そして言った。
「彼らは、心の迷っている民だ。
彼らは、わたしの道を知ってはいない」と。
それゆえ、わたしは怒って誓った。
「確かに彼らは、わたしの安息に、入れない」と。
*わざの完了…神は六日間でみわざを終え、七日目に休まれました。
適用:過去に対する救いによる安息。
メシアのみわざに信頼することで得られる安息。
救いを求めて律法に回帰しようとするものではありません。
信者は死ぬと、地上生涯における働きを終え、この安息に入ります。
②カナンの地での安息…歴史的意味
申命記12:10ーあなたがたは、ヨルダンを渡り、あなたがたの神、主があなたがたに受け継がせようとしておられる地に住み、主があなたがたの回りの敵をことごとく取り除いてあなたがたを休ませ、あなたがたが安らかにすむようになるなら、
ヨシュア記21:44ー主は、彼らの先祖たちに誓ったように、周囲の者から守って、彼らに安住を許された。すべての敵の中で、ひとりも彼らの前に立ちはだかる者はいなかった。主はすべての敵を彼らの手に渡された。
*敵との闘争を終え、土地を所有し、土地の祝福を楽しむこと。
適用:現在の献身により、神のみこころに従って生きることで得られる安息。
知恵、意思、心を従わせて、神の力に目を向けさせることにより、罪に打ち勝つもの。
③安息の休み…預言的意味
創世記2:2~3ー神は第七日目に、なさっていたわざの完成を告げられた。すなわち第七日目になさっていたすべてのわざを休まれた。
神は第七日目を祝福し、この日を聖であるとされた。それは、その日に神がなさっていたすべての創造のわざを休まれたからである。
*霊的安息、または信仰による安息の人生。
狭義…霊的成熟。
広義…堕落によって失われ、メシア的王国(千年王国)で回復される安息。
適用:地上生涯での霊的成熟による安息の獲得と将来のメシア的王国(千年王国)での 安息。
⑴ 旧約聖書からの教訓
ヘブル3:7ーですから、聖霊が言われるとおりです。
「きょう、もし御声を聞くならば、
*ですから… 直前までの内容を受けての適用。
御子はモーセよりも優れているのだから、受取人たちは不従順と背教に陥ってはならない、ということ。
*きょう…3〜4章にかけて強調されている言葉。
ヘブル3:7~11は詩篇95:7~11を引用して、過去に起きた二つの出来事(出エジプト記17:1~7, 民数記20:1~13)に言及しています。 それぞれ荒野の旅の始まりと終わりに起きた出来事です。
ヘブル3:8ー荒野での試みの日に
御怒りを引き起こしたときのように、
心をかたくなにしてはならない。
*御怒り… この出来事は『ターニングポイント』となるものだったため、『御怒り』と呼ばれています。
ヘブル3:9ーあなたがたの父祖たちは、
そこでわたしを試みて証拠を求め、
四十年の間、わたしのわざを見た。
*四十年の間… 放浪についての言及。
『40』は、試みの数。
AD30年のキリストの十字架の贖いから、ヘブル書が書かれる時までにかれこれ『40年』が経とうとしていました。そして、AD70年に神殿とエルサレムの崩壊が起こりました。十字架からエルサレム崩壊までが40年となります。
ヘブル3:10ーだから、わたしはその時代を憤って言った。
彼らは常に心が迷い、
わたしの道を悟らなかった。
*憤って…ギリシャ語:『苛立たせる』『燃え上がる』の意。
神が出エジプトの世代に対して憤ったのは、彼らが常に『心が迷い』『神の道を悟らなかった』から。
ヘブル書の著者は、出エジプトの世代とヘブル書の受取人/読者たちとを対比しています。
*時代…『時代』『世代』には、三つのスパンがあります。
①40年…ここでは『世代交代』のための期間であり、出エジプトを経験した『世代』と当時子どもだったり、荒野で誕生した『世代』とが入れ替わって、約束の地カナンに入るための期間。
②70〜80年…人の一生涯の長さ。
詩篇90:10ー私たちの齢は七十年。
健やかであっても八十年。
しかも、その誇りとするところは
労苦とわざわいです。
それは早く過ぎ去り、私たちも飛び去るのです。
③100年…最長期間。千年王国で、肉体を持って誕生する人々が、不信仰の場合に死ぬ年齢。
創世記15:13ーそこで、あぶらむに仰せがあった。「あなたはこの事をよく知っていなさい。あなたの子孫は、自分たちのものでない国で寄留者となり、彼らは奴隷とされ、四百年の間、苦しめられよう。
創世記15:16aーそして、四代目の者たちが、ここに戻って来る。
*四百年で四代、つまり一代百年ということ。
イザヤ65:20ーそこにはもう、数日しか生きない乳飲み子も、
寿命の満ちない老人もない。
百歳で死ぬ者は若かったとされ、
*百歳にならないで死ぬ者は、
のろわれた者とされる。
*百歳にならないで…『百歳で』の誤訳
ヘブル3:11ーわたしは、怒りをもって誓ったように、
決して彼らをわたしの安息に入らせない。」
カデシュ・バルネアで回帰不能点を超えた出エジプトの世代は、約束の地という『安息』に入れなくなりました。
一般的に賛美歌で『約束の地』は、天の御国として描かれることが多いですが、聖書では『天』ではなく、『敵との戦いを終える安息』として見られています。
*この『裁き』は、永遠の救いとは無関係の教えです。
⑵ 教訓からの適用
ヘブル3:12ー兄弟たち。あなたがたの中では、だれも悪い不信仰の心になって生ける神から離れる者がないように気をつけなさい。
*兄弟たち…ヘブル書の受取人/読者たちが『信者である』ことの再確認
*気をつけなさい…警告
『警告』の内容は、『悪い不信仰の心になる』こと。
これは『生ける神から離れる』ことにより証明されます。
*離れる…ギリシャ語:英語の “Apostasy” (背教する)という言葉の語源
生ける神から背き、以前受けた教えから離れることで、信者は堕落し、他の信者たちも堕落させてしまいます。
ヘブル3:13ー「きょう」と言われている間に、日々互いに励まし合って、だれも罪に惑わされてかたくなにならないようにしなさい。
*日々互いに励まし合って…ギリシャ語:『寄り添って助ける』の意
その目的は、『だれも罪に惑わされて、かたくなにならないようにする』ため。
*罪…ギリシャ語:形容詞(英語のThis)が付いており、『この罪』に陥りそうになっている兄弟を見たならば、その人を助けるべきだという意味。
『この罪』は、迫害から逃れるための最良の方法であると信者をだますものでした。
*かたくなにならないように…かたくなになることへの薬は、信者の共同体を慰め、励ますことでした。
ヘブル3:14ーもし最初の確信を終わりまでしっかり保ちさえすれば、私たちは、キリストにあずかる者となるのです。
著者はここで、教えの背後にある理由と必要性について説明しています。
*もし〜保ちさえすれば…信者は『救いを相続するために、十分に長い期間確信を保たなければならない』という意味ではありません。
ここのギリシャ語は完了形が使われており、受取人/読者たちはすでに『信者ーキリストにあずかる者』であったことを意味しています。
彼らが『キリストにあずかる者である』ことを周囲の人々が認識するには、彼らが『最初の確信を終わりまでしっかりと保ちさえすれば』証明されるのです。
救いを得ているかどうかは、信仰に留まっていることによって証明されるのです。
ヘブル3:15ー「きょう、もし御声を聞くならば、
御怒りを引き起こしたときのように、
心をかたくなにしてはならない。」
と言われているからです。
ここでのポイントは、『背教するな!』ということです。
⑶ 教訓の解釈
ここから著者は、三つの質問を投げかけて解釈していきます。
ヘブル3:16ー聞いていながら、御怒りを引き起こしたのはだれでしたか。モーセに率いられてエジプトを出た人々の全部ではありませんか。
❶御怒りを引き起こしたのはだれでしたか?
A)神がエジプトから救い出した人々。
神に救われた者たちが、神を怒らせたのです。
ヘブル3:17ー神は四十年の間だれを怒っておられたのですか。罪を犯した人々、しかばねを荒野にさらした、あの人たちをではありませんか。
❷神は四十年の間 だれを怒っておられたのですか?
A)神がエジプトから救い出した人々。
彼らは『罪を犯した人々』であり、その刈り取りに苦しむことになった人々です。
彼らの罪は一度だけではありませんでした。
*しかばねを荒野にさらした…エジプトから救い出された人々の罪の結果。
これは、『回帰不能点』を超えたためにもたらされた肉体的裁きであって、霊的裁きではありません。
ヘブル3:18ーまた、わたしの安息に入らせないと神が誓われたのは、ほかでもない、従おうとしなかった人たちのことではありませんか。
❸わたしの安息に入らせないと神が誓われたのはだれですか?
A)エジプトから救い出された人々。
*従おうとしなかった…彼らは『不従順』によって、安息に入れなかった人々です。
ヘブル3:19ーそれゆえ、彼らが安息に入れなかったのは、不信仰のためであったことがわかります。
19節は『結論』です。
*安息…神の『約束の地』での安息。
彼らのの反逆は、約束されていた数々の祝福を失うという結果を招きました。
*イスラエルは、贖われた民としての地位を失ったわけではありません。なぜなら、彼らは再び『奴隷』としてエジプトに戻ったのではないからです。
彼らは未だに『神に贖われた選びの民』でした。
しかし彼らは、約束の地での祝福と平和な生活と安住を失ったのです。
彼らの失敗には、三つの段階がありました。
1)彼らは、『不信仰』に陥った。
2)その『不信仰』が、積極的な『不従順』へと発展した。
3)積極的な『不従順』が、より広い意味での『あらゆる罪』をもたらした。
キリストが十字架で死んでから、およそ40年が経過しようとしていたヘブル書の受取人たちの世代にも、同じ状況が訪れていました。
AD70年の裁きは、この『40年の終わり』に起ころうとしていたのです。
ヘブル書の受取人/読者たちがユダヤ教に回帰するならば、彼らもまた『AD70年の裁き』に巻き込まれて、『肉体的な死』を通過することになるという危険性があったのです。