サザエのお裾分け

聖書を字義通り&文脈に沿って学び、理解したことの中からのお裾分け。内容は鵜呑みにせず、必ずご自分で聖書を開いて確認してくださいね。聖書理解の助けになれば幸いです。† 栄光在主 †

山上の変貌 〜ルカ9:28~36〜

ルカ9:27ーしかし、わたしは真実をあなたがたに告げます。ここに立っている人々の中には、神の国を見るまでは、決して死を味わわない者たちがいます。」

 

先日、求道者からこの節の意味がわからないと質問を受けました。

突然質問されると一瞬身構えてしまいますが、落ち着いてその前後の文脈を読み、そこから答えることが大切ですね。

 

*ここに立っている人々ルカ9:18から『十二弟子たち』であることがわかります。

ルカ9:18ーさて、イエスがひとりで祈っておられたとき、弟子たちがいっしょにいた。イエスは彼らに尋ねて言われた。「群衆はわたしのことをだれだと言っていますか。」

 

神の国ユダヤ人たちは『メシア的王国』と言い、私たち異邦人には千年王国という言い方で知られています。

キリストが統治される御国のことで、マタイは『天の御国』という表現を用いています。

 

*決して死を味わわない…『味わう』というのは『体験する』という意味。

千年王国を “見る” までは死なない』ということ。

千年王国に “入る” まで』ということではありません。

 

では、『ここに立っている人々』の中の誰が、『神の国を “見る” までは死なない』と言われたのかを確認していきたいと思います。

 

 

ルカ9:28ーこれらの教えがあってから八日ほどして、イエスは、ペテロとヨハネヤコブとを連れて、祈るために、山に登られた。

 

*ペテロ、ヤコブヨハネ…十二弟子の中でも、この三人は『一番弟子』でした。重要な出来事には、必ず立ち会っています。その中でも『ペテロ』は、常に名前がトップに挙げられていることから、弟子たちの長であったと思われます。

 

*山…原語では定冠詞が付いているので、十二使徒を選んだ山だと思われます。

ルカ6:12~19ーこのころ、イエスは祈るために山に行き、神に祈りながら夜を明かされた。

夜明けになって、弟子たちを呼び寄せ、その中から十二人を選び、彼らにという名をつけられた。

すなわち、ペテロという名をいう名をいただいたシモンとその兄弟アンデレ、ヤコブヨハネ、ピリポとバルトロマイ

マタイとトマス、アルパヨの子やこぶと熱心党員と呼ばれるシモン、

ヤコブの子ユダとイエスを裏切ったイスカリオテ・ユダである。

 

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ルカ9:29ー祈っておられると、御顔の様子が変わり、御衣は白く光り輝いた。

キリストの初臨は、神の御子が『肉体』を持って来られました。しかし、それは『神としてのご性質』を置いて来られたのではなく、その肉体の中に秘めておられたのですが、この場面ではそれ(シャカイナ・グローリー=神の栄光の輝き)が外に溢れ出たのです。

 

つまり、ここでは『神』としての性質を強調しています。

神の国千年王国/メシア的王国』では、キリストのご臨在のもとの王国です。

『山上の変貌』は、その『神の国』の予表なのです。

 

 

ルカ9:30ーしかも、ふたりの人がイエスと話し合っているではないか。それはモーセとエリヤであって、

 

*ふたりの人モーセとエリヤ。

聖書では、過去に存在した人が再登場する場合、必ず固有名詞が用いられます。

 

30節には、三人の固有名詞が出ています。

*イエス人として、この時点で『生きて』います。

つまり、患難時代を肉体が生きたまま通過して、千年王国に入れられる人々の代表です。

 

モーセこの時点で、モーセの肉体は『死んで』いました。

つまり、肉体の死後、復活のからだで千年王国に入れられる人々の代表です。

 

*エリヤエリヤは、肉体が『生きたまま天に挙げられ』ました。

つまり、携挙によって栄光のからだに変えられて、千年王国に入れられる人々の代表です。

Ⅱ列王記2:11ーこうして、彼らがなお進みながら話していると、なんと、一台の火の戦車と火の馬とが現れ、このふたりの間を分け隔て、エリヤは、たつまきに乗って天へ上って行った。

 

 

ルカ9:31ー栄光のうちに現れて、イエスエルサレムで遂げようとしておられるご最期についていっしょに話していたのである。

 

律法と預言者が意味する『旧約』とイエスの最後とどのような関係があるのでしょう?

キリストの誕生も十字架の死も旧約聖書の預言書に記されています。

モーセは、キリストに導く養育係となった『律法』の代表者であり、

エリヤは、『預言者』の代表者です。

 

そのふたりが、キリストの十字架の死について話していたということです。

 

 

ルカ9:32ーペテロと仲間たちは、眠くてたまらなかったが、はっきり目がさめると、イエスの栄光と、イエスといっしょに立っているふたりの人を見た。

 

睡魔に襲われてもうろうとしていたペテロたち三人は、この光景を目の当たりにした時、眠気が吹き飛びました。

 

*イエスの栄光…シャカイナ・グローリー。神としてのイエスのご臨在。

 

*ペテロたち三人…この時点で、『生きて』いる人々。

 

*ふたりの人…この時点で『死んで』いる人々の代表としてのモーセと、『携挙』に与る人々の代表としてのエリヤ。

 

 

ルカ9:33ーそれから、ふたりがイエスと別れようとしたとき、ペテロがイエスに言った。「先生。ここにいることは、すばらしいことです。私たちが三つの幕屋を造ります。あなたのために一つ、モーセのために一つ、エリヤのために一つ。」ペテロは何を言うべきかを知らなかったのである。

 

*ここにいることは…ここに『居続けることは』の意。

 

*幕屋…聖なる天幕。

 

ペテロが持っていた『メシア=救い主』についての考えは、どのようなものだったと思いますか?

エスの十字架の贖いの重要性を理解していたのでしょうか?

 

『十字架の贖いと復活』に重きを置かないイエスに対する信仰をどう思いますか?

 

話を終えたモーセとエリヤがそこから立ち去ろうとしたときの、ペテロの反応は『何を言うべきか知らなかったのに、言ってしまった』というものでした。

これは、私たちの日常生活においても時々遭遇することでもありますよね。

 

特に、神の御前においては、軽はずみに言わないように注意すべきではないでしょうか。

旧約聖書には、軽はずみに言ってしまって大失敗をしたエフタの例がありますから…。

士師記11:30~31, 34~35ーエフタは誓願を立てて言った。

「もしあなたが確かにアモン人を私の手に与えてくださるなら、

私がアモン人のところから無事に帰って来たとき、私の家の戸口から私を迎えに出て来る、その者をのものといたします。私はその者を全焼のいけにえとしてささげます。」

エフタが、ミツパの自分の家に来たとき、なんと、自分の娘が、タンバリンを鳴らし、踊りながら迎えに出て来ているではないか。彼女はひとり子であって、エフタには彼女のほかに、男の子も女の子もなかった。

エフタは彼女を見るや、自分の着物を引き裂いて言った。「ああ、娘よ。あなたはほんとうに、私を打ちのめしてしまった。あなたは私を苦しめる者となった。私はに向かって口を開いたのだから、もう取り消すことはできないのだ。」

 

 

ルカ9:34ー彼がこう言っているうちに、雲がわき起こってその人々をおおった。彼らが雲に包まれると、弟子たちは恐ろしくなった。

 

山上ですから、雲がわき起こることは珍しいことではありませんよね。

ペテロたちは、なぜ『恐ろしくなった』のでしょう?

 

*雲…シャカイナ・グローリー。

 

 

ルカ9:35ーすると雲の中から、「これは、わたしの愛する子、わたしの選んだ者である。彼の言うことを聞きなさい。」という声がした。

 

エスは声の主の『愛する子』です。そして、声の主は『イエスの言うことを聞きなさい。』と言われます。

つまり『声の主』は、天の父なる神です。

 

この『声』が話したのは、『天のことば(御使いの言葉=異言)』で語られたと思いますか?それとも、ペテロたちが普段使っている言葉で語られたと思いますか?

 

『イエスの言うこと』とは、聖書のみことばのことです。

雲の中からのこのことばによって、ペテロの間違った『救い主=メシア』についての考えをどのように正していますか?

 

このときの体験を思わせるように、ヨハネは後に福音書に次のように記しています。

ヨハネ1:1ー初めに、ことばがあった。ことばは神とともにあった。ことばは神であった。

 

ヨハネ1:14ーことばは人となって、私たちの間に住まわれた。私たちはこの方の栄光を見た。父のみもとから来られたひとり子としての栄光である。この方は恵みとまことに満ちておられた。

 

「イエスを信じます。」と口だけの信仰告白に留まっていませんか?

神様は『イエスの言うことを聞きなさい。』と言われている、その命令に従うことをおろそかにしないようにしましょう。

御子イエスの言うことに聞き従う信仰こそが、神が望まれる正しい信仰だからです。

 

ルカ9:36ーこの声がしたとき、そこに見えたのはイエスだけであった。彼らは沈黙を守り、その当時は、自分たちの見たことをいっさい、だれにも話さなかった。

 

この声が聞こえると同時に、そこに見えたのはイエスだけでした。

なぜペテロたちは、沈黙を守ったのでしょうか?

 

エスは本来、神の御子としての栄光に輝くお方です。

しかし、その栄光を捨てて、私たちと同じ『人間』となって来てくださいました。

そして肉の持つ弱さ、辛さ、誘惑、痛み、悩み、苦しみ、死などすべて体験され、すべてに勝利されました。

その上で『わたしに従ってきなさい。』と言われるのです。

今一度、自分の信仰生活を振り返り、日曜だけのクリスチャンになっていないか?

みことばを無視した歩みになっていないか?確認し、悔い改めましょう。

 

ピリピ2:6~11ーキリストは神の御姿である方なのに、神のあり方を捨てられないとは考えないで、

ご自分を無にして、仕える者の姿をとり、人間と同じようになられたのです。

キリストは人としての性質をもって現われ、 自分を卑しくし、死にまで従い、実に十字架の死にまでも従われまたのです。

それゆえ、神は、キリストを高く上げて、すべての名にまさる名をお与えになりました。

それは、イエスの御名によって、天にあるもの、地にあるもの、地の下にあるもののすべてが、ひざをかがめ、

すべての口が、「イエス・キリストは主である」と告白して、父なる神がほめたたえられるためです。

 

 

 

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