創世記4章後半〜5章は、初めて読む人にとっては人名が並び、似たようなことの繰り返しで、とても退屈な内容に感じます。でも『クリスチャン』となった者は、もうそのような読み方から卒業して、深く意味を掴みながら読み進みたいものですよね。
そのための助けとなる一つが、登場人物の名前の意味を知ることです。
ここでも名前の意味を確認しながら読み進めると、なるほど〜と思えることが多々あるのです。
創世記4:18ーエノクにはイラデが生まれた。イラデにはメフヤエルが生まれ、メフヤエルにはメトシャエルが生まれ、メトシャエルにはレメクが生まれた。
*エノク…ヘブル語:ハノク。ささげる、の意。
カインは息子に『エノク』と名付けました。血が伴わない『捧げ物』を捧げた『罪』が、どこか心に引っかかっていたのでしょうね。
*イラデ… 町の人、の意。
カインは『さすらい人』となったはずが、町を建て定住し、再び神に逆らいました。その子孫の名前が『イラデ』です。
*メフヤエル…神は私を生かしてくださる、の意。
ここで、カインの子孫にも神に立ち返る者がいたことがわかります。
*メトシャエル…神の人、の意。
父メフヤエルから信仰を継承したのでしょう。カインの子孫にも『信仰者』がいた、というのは興味深いです。
*レメク…征服者、の意。アダムから数えるとちょうど『七代目』にあたります。
しかし、その子レメクには信仰を継承させることはできませんでした。
創世記4:19ーレメクはふたりの妻をめとった。ひとりの名はアダ、他のひとりの名はツィラであった。
*二人の妻…一夫多妻の始まり。
創世記2:24ーそれゆえ、男はその父母と離れ、妻と結び合い、二人は一体となるである。
聖書的結婚は『同性婚』でもなく、『一夫多妻』『多夫一妻』でもありません。『男女の一夫一妻』制です。
*渋谷区、世田谷区、よく考えてほしいなぁ…。
*アダ…装飾、飾る、の意。
*ツィラ…キラキラ輝く、の意。
『アダ』と『ツィラ』という、女性の名前が家系図に載るのは極めて異例です。
ヘブル語では、この二人の名前は『性的快楽』を示唆しています。ここにも『レメク』の罪が垣間見えてきます。
創世記4:20ーアダはヤバルを産んだ。ヤバルは天幕に住む者、家畜を飼う者の先祖となった。
*ヤバル…作り出す、の意。
*家畜を飼う者の先祖…『遊牧民の先祖』となり、ここで初めて神様がカインに『さすらい人となる』と言われたことが成就した感じですね。
ちなみに、カインに殺された弟のアベルも『羊飼い』でしたが、アベルの場合は『定住の羊飼い』、ヤバルは『遊牧の羊飼い』でベドウィン的生活を意味します。
創世記4:21ーその弟の名はユバルであった。彼は立琴と笛を巧みに奏するすべての者の先祖となった。
*ユバル…作り出す人、の意。兄『ヤバル』と語源は同じ。
*立琴と増えを巧みに奏でるすべての者の先祖…それまで『音楽』というものがなかった時代から、『作り出し』たのがユバル。
創世記4:22ーツィラもまた、トバル・カインを産んだ。彼は青銅と鉄のあらゆる用具の鍛冶屋であった。トバル・カインの妹は、ナアマであった。
*トバル・カイン…製作力を得た人、の意。
*青銅と鉄のあるゆる用具の鍛冶屋…『さすらい人』となることを止め、『エノク』という名の町を建てたカインの子孫たちは、このようにして『文化』が発達していったのです。
*ナアマ…見目麗しい、の意。
創世記4:23ーさて、レメクはその妻たちに言った。「アダとツィラよ。私の声を聞け。レメクの妻たちよ。私の言うことに耳を傾けよ。私の受けた傷のためには、ひとりの人を、私の受けた打ち傷のためには、ひとりの若者を殺した。
*23〜24節は、聖書の中で最初に出てくる『歌』になっています。しかし、その『歌』は神を褒め称えるものではありません。
『征服者』という意味を持つレメクは、妻たちに「私の声を聞け。」と命令しています。男尊女卑的上下関係が垣間見えます。神の命令を語り継ぐための『歌』ではなく、自分の力を誇り、暴力による報復を伝える『人間の命令』を告げるものとなっています。
創世記4:24ーカインに七倍の復讐があれば、レメクには七十七倍。」
*七倍の復讐…神が定めた復讐。
*七十七倍…レメクが自分で定めた復讐。
これによりレメクは神に依り頼むのではなく、自分の力に依り頼んでいることがわかります。
人類代表者だったアダムが罪を犯し、エデンの園の東(外)で人間の性の営みによって誕生したカインの子孫、アダムからちょうど『七代目(七は完全数)』のエノクが、このように『罪』の性質を表しているのは興味深いことだと思います。
神を知らないと、人はどこまでも『自己中心』に陥るということがよくわかります。
七十七倍の復讐を宣言したレメクとは対照的に、私たちの主キリスト・イエスは『赦し』を教えてくださいました。
マタイ18:22ーイエスは言われた。「七度まで、などとはわたしは言いません。七度を七十倍するまでと言います。
ローマ12:19ー愛する人たち。自分で復讐してはいけません。神の怒りに任せなさい。それは*こう書いてあるからです。「復讐はわたしのすることである。わたしが報いをする、と主は言われる。」
*_…申命記32:35ー復讐と報いとは、わたしのもの、
それは、彼らの足がよろめくときのため。
彼らのわざわいの日は近く、
来るべきことが、すみやかに来るからだ。」
キリストが空中再臨(クリスチャンの携挙)されたら、信者は『報い』を決める『キリストの裁きの座』に立ちます。
そして、患難時代の終わりに地上再臨されたキリストによって、患難時代を生き延びた異邦人たちは『羊と山羊の裁きの座』で裁かれます。
さらに、アダム以降すべての時代の不信者たちは、『白い大いなる御座の裁き』において裁かれ、復活のからだで『火と硫黄との池』に投げ込まれ、永遠に苦しむことになります。これが、神様のなさる『復讐』なのです。
このことを知っている私たちは、自分の家族や友人、知人たちが『火の池』に行くことのないようにと願い、祈りながら伝道するのです。キリストの十字架は、この『火の池』から私たちを救い出してくださった『救い主』だと証しするのです。
信仰がなくても『人類すべては天に行く』という教えは、サタンの惑わしです。
エペソ2:8ーあなたがたは、恵のゆえに、信仰によって救われたのです。それは、自分自身からでたことではなく、神からの賜物です。
ローマ3:28ー人が義と認められるのは、律法の行いによるのではなく、信仰によるというのが、私たちの考えです。
キリストを信じる『信仰』がなければ、天の御国に行くことはないということを覚えて、伝道していけますように。