著者は1~4節で、律法には『出来ないことがあった』ため、律法によるささげ物はおそらく『不十分に作られていた』と述べています。
ヘブル10:1ー律法には、後に来るすばらしいものの影はあっても、その実物はないのですから、律法は、年ごとに絶えずささげられる同じいけにえによって神に近づいて来る人々を、完全にすることができないのです。
著者は、律法に関して二つの事実を伝えています。
①律法は『影』である…ヘブル9:1~28で述べたことの説明。
*影…ギリシャ語には二つの単語がありますが、ここでは『濃く、はっきりとした影』ではなく、『薄い色の影』という意味の単語が使われています。
それは律法の性質であり、おおまかな概略だけであり、天に実在するものの単なるあらわれでした。
*後に来るすばらしいもの…メシアである『イエスのわざ』の完成のこと。
律法は、その『薄い色の影』であって、実物ではなかったのです。
②律法には、その実物はありません…律法は、神が一度限りで罪に対してなさろうとしていることの『レプリカ』にはなり得ませんでした。なぜなら、律法は罪の問題を永久に取り扱うことができなかったからです。
律法では、年毎にささげられる同じ動物のいけにえによって『罪の完全なきよめ』を成し遂げることができませんでした。そのため、毎年毎年繰り返しささげられました。
律法が達成することができなかったのは、ヘブル書の内容でもある『霊的成熟』を意味する、信者を『完全な者』にするということです。
*神に近づいて来る人々…旧約聖書の義人たち。
彼らは、罪悪感から完全に、永遠に解放されるという良心の状態を楽しむことはありませんでした。
ヘブル10:2ーもしそれができたのであったら、礼拝する人々は、一度きよめられた者として、もはや罪を意識しなかったはずであり、したがって、ささげ物をすることは、やんだはずです。
*ささげ物をすることは、やんだはずです…律法による動物のいけにえのささげ物が十分であったならば、ささげ物をやめたはずです。
それが繰り返されるという事実こそが、律法の不足を示しているのです。
著者は、動物のいけにえがまだ、この時点で継続されていたことを示す時制を使っています。このことは、この書簡がAD70年の裁きよりも前に書かれたことを示しています。
律法の下で生きている礼拝者たちは、『完全にきよめられた』というところには到達していませんでした。 もし礼拝者たちがきよめられたならば、彼らは『罪を意識しなかった』はずですが、そうはなりませんでした。
しかし、今日のキリスト者たちは、罪悪感に苛まれる必要はありません。
肉の弱さゆえ信者はまだ罪悪感を持つかもしれませんが、御子により罪悪感はすでに取り去られており、完全にきよめられているのです。
では、動物のいけにえの制度は何をしたのでしょう?
ヘブル10:3ーところがかえって、これらのささげ物によって、罪が年ごとに思い出されるのです。
3節によると、動物のいけにえの制度はただ必要に応じてささげられるだけでした。
これらのささげ物は、人々に罪だけでなく罪悪感をも思い出させたのです。
贖罪の日/ヨム・キプールのささげ物の後でさえ、彼らの罪は『覆われただけ』であり、『取り除かれた』わけではありませんでした。
そのため、罪は思い出されたのです。 彼らは、贖罪の日/ヨム・キプールの全ての儀式が、1年後に繰り返されることを知っていました。
しかし、新しい契約の下では、ヘブル書8:12が指摘したように、神はもう彼らの罪を思い出すことはありません。
ヘブル8:12ーなぜなら、わたしは彼らの不義にあわれみをかけ、 もはや、彼らの罪を思い出さないからである。」
イザヤ43:25ーわたし、このわたしは、わたし自身のために あなたのそむきの罪をぬぐい去り、 もうあなたの罪を思い出さない。
イザヤ44:22ーわたしは、あなたのそむきの罪を雲のように、 あなたの罪をかすみのようにぬぐい去った。 わたしに帰れ。 わたしは、あなたを贖ったからだ。」
ヘブル10:4ー雄牛とやぎの血は、罪を除くことができません。
4節は、律法が満たすことができなかった理由が述べられています。
旧約聖書の律法によるささげ物では、決して罪を取り除くことはできませんでした。
そのため、イエスが十字架で死んだ時、新約聖書の聖徒たちだけでなく、旧約聖書の義人たちの罪のためにも死んだのです。
動物の血は、罪を取り除くには不十分でした。
過去においても、現在においても不可能なのです。
旧約の義人たちの罪はただ、覆われただけでした。
それは、神が旧約の義人たちを赦すために、神の視界から罪が覆われるという意味でした。罪を覆われた義人たちは、神との関係を回復したのです。