著者は、ヘブル10:1~4で動物のいけにえの血ができなかったこと、5~10節でイエスの流された『神の小羊』としての血がしたこと(できたこと)を対比しています。
神様の御前に受け入れられるただ一つのいけにえは、完全な従順と信仰を持って来られる方によってのみです。
1サムエル15:22ーするとサムエルは言った。
「主は主の御声に聞き従うことほどに、
全焼のいけにえや、その他のいけにえを
喜ばれるだろうか。
見よ。聞き従うことは、いけにえにまさり、
耳を傾けることは、雄羊の脂肪にまさる。
動物は完全な従順と信仰をもってその血をささげることはなかったので、『神の小羊』としてのメシアが来る必要があったのです。
5~7節で著者は、一度限りですべての罪を贖ういけにえこそが、神が求めるいけにえであることを強調しています。
ヘブル10:5ーですから、キリストは、この世界に来て、こう言われるのです。
「あなたは、いけにえやささげ物を望まないで、
わたしのために、からだを造ってくださいました。
*ですから…天への道を開くために、『この世』にメシアが来なければならなかった理由。
ヘブル10:6ーあなたは全焼のいけにえと
罪のためのいけにえとで
満足されませんでした。
ヘブル10:7ーそこでわたしは言いました。
『さあ、わたしは来ました。
聖書のある巻に、
わたしについてしるされているとおり、
神よ、あなたのみこころを行うために。』」
著者は、従順だけが完全をもたらすということを示すために、ここで詩篇40:6~8を引用しています。
詩篇40:6~8ーあなたは、いけにえや穀物のささげ物を お喜びにはなりませんでした。 あなたは私の耳を開いてくださいました。 あなたは、 全焼のいけにえも、罪のためのいけにえも、 お求めになりませんでした。
そのとき私は申しました。 「今、私はここに来ております。 巻き物の書に私のことが書いてあります。
わが神。私はみこころを行うことを喜びとします。 あなたのおしえは私の心のうちにあります。」
イエスは従順だったので、完全をもたらすことができました。しかし、動物のいけにえは信仰による従順からなのではなく、人によって引いて来られたので『天への道』に至らせることはできませんでした。信仰の無いいけにえだったのです。
しかし神が御子のために人間の肉体を用意されたので、御子は人間のために自ら十字架で死ぬという事実によって『天への道』が示されました。
ヨハネ10:18ーだれも、わたしからいのちを取った者はいません。わたしが自分からいのちを捨てるのです。わたしには、それを捨てる権威があり、それをもう一度得る権威があります。わたしはこの命令をわたしの父から受けたのです。
動物による『道』は神に喜ばれるものではないと旧約聖書にも記されています。
イザヤ1:11ー「あなたがたの多くのいけにえは、
わたしに何になろう」と、主は 仰せられる。
「わたしは、雄羊の全焼のいけにえや、
肥えた家畜の脂肪に飽きた。
雄牛、子羊、雄やぎの血も喜ばない。
エレミヤ6:20ーいったい、何のため、シェバから乳香や、
遠い国からかおりの良い菖蒲が
わたしのところに来るのか。
あなたがたの全焼のいけにえは受け入れられず、
あなたがたのいけにえはわたしのいけにえはわたしを喜ばせない。」
ホセア6:6ーわたしは誠実を喜ぶが、
いけにえは喜ばない。
全焼のいけにえより、
むしろ神を知ることを喜ぶ。
アモス5:21~22ーわたしはあなたがたの祭りを憎み、退ける。
あなたがたのきよめの集会のときのかおりも、
わたしはかぎたくない。たとい、あなたがたが全焼のいけにえや、
穀物のささげ物をわたしにささげても、
わたしはこれらを喜ばない。
あなたがたの肥えた家畜の和解のいけにえにも、
目もくれない。
人間の肉体を持った御子が『神の子羊』として、ご自身をいけにえとしてささげることは、神の御心だったのです。
8-9節では、旧約聖書のいけにえと『神の小羊』である御子とを対比させています。
ヘブル10:8ーすなわち、初めには、「あなたは、いけにえとささげ物、全焼のいけにえと罪のためのいけにえ(すなわち、律法に従ってささげられる、いろいろの物)を望まず、またそれらで満足されませんでした」と言い、
*いけにえとささげ物、全焼のいけにえと罪のためのいけにえ(すなわち、律法に従ってささげられる、いろいろの物)を望まず…動物がいけにえとして自らの死に従順だったのではないため、神を喜ばせなかったのです。
あったのは、モーセの律法に基づく『ささげ物』としての要素だけでした。
イエスのいえにえはヨハネ10:18にあるとおり、自ら志願したいけにえであり、従順の結果でした。しかし、旧約聖書の律法によって定められたいけにえは、従順とはかけ離れたものでした。
ヘブル10:9ーまた、「さあ、わたしはあなたのみこころを行うために来ました」と言われたのです。後者が立てられるために、前者が廃止されるのです。
*「さあ、わたしはあなたのみこころを行うために来ました」…これが、神の御子のいけにえの場合でした。
詩篇40:7~8ーそのとき私は申しました。
「今、私はここにおります。
巻き物の書に私のことが書いてあります。
わが神。私はみこころを行うことを喜びとします。
あなたのおしえは私の心のうちにあります。」
御子は自らの意志と従順さをもって、罪のためのいけにえとなるために来たと述べています。
その結果、『モーセ契約』に取って代わり、新しい契約を規定したのです。
神のみこころに対するイエスの従順は、律法が与えることのできなかった『完全』を与えるという目的を達成したのです。
*後者が立てられるために、前者が廃止されるのです…御子がこのようないけにえを提供するために、必要なことでした。
御子の十字架の死によって『モーセ契約』のいけにえは取り去られ、次のものである『新しい契約』に基づくただ一度限りの『神の小羊』のいけにえが持ち込まれたのです。
御子は、ご自身が流した血によって、『新しい契約』を正式にスタートさせました。
旧い制度の代わりに、新しい制度を確立させたのです。
ここでは再び、律法が廃止されたとはっきり述べられています。
ヘブル10:10ーこのみこころに従って、イエス・キリストのからだが、ただ一度だけささげられたことにより、私たちは聖なるものとされているのです。
信者は現在、御子の従順の成果に与っています。
十字架で死ぬというメシアの意志により、信者は『一度限りのいけにえによりきよめられた』のです。これは『位置的きよめ』です。
*位置的きよめ…イエスの血により、神の目に信者は、永遠にキリストの中/メシアの中/御子の中にいることにより『位置的きよめ』とみなされるということ。
キリストの中にいることにより信者は、神の目には永遠にきよい者として写っているのです。御子の血は、信者を救い、きよめます。それは、イエス・キリストのからだが、ただ一度だけささげられたからです。