私たちクリスチャンが宣べ伝えるのは『キリストの福音』なので、普段から新約聖書には親しんでいると思います。でも、旧約聖書はなかなか難しいので、所々自分を励ますみことばの拾い読みをしたり、歴史書は読むけど預言書は読んだことがない、という方も多いのではないでしょうか?
聖書は、次のように記しています。
イスラエルには、おきてとさばきを告げられる。
主は、どんな国にも、
このようには、なさらなかった。
さばきについて彼らは知っていない。
ハレルヤ。
ヤコブの子孫が『ユダヤ人』であり、『おきて(律法)とさばき(預言書)』からなる旧約聖書は、神がユダヤ人に託されたものですから、私たち異邦人信者には理解が難しいのです。
つまり、ヘブル的視点に立ってユダヤ人たちの解釈を知らなければ、異邦人による私的解釈が横行してしまう危険性があるわけです。
ローマ6:16~18ーあなたがたはこのことを知らないのですか。あなたがたが自分の身をささげて奴隷として服従すれば、その服従する相手の奴隷であって、あるいは罪の奴隷となって死に至り、あるいは従順の奴隷となって義に至るのです。
神に感謝すべきことには、あなたがたは、もとは罪の奴隷でしたが、伝えられた教えの規準に心から服従し、
罪から解放されて、義の奴隷となったのです。
このロマ書のみことばの『型』となっているのが、出エジプトの出来事です。
イスラエルの民はわずか70人の『ヤコブの一族』として、飢饉の時にエジプトに移住しました。しかし、もう一つの理由は、カナン人との雑婚でした。
ですから、神はカナン人から離すために、飢饉を理由にエジプトに移住させ、『羊飼い』というエジプト人が嫌う職業を理由に、ご自分の民をゴシェンの地に住まわせ、エジプト人からも分離させました。
しかし、ヨセフの功績を知らない王が立った時、彼らはエジプト人の奴隷となり、煉瓦作りをするようになりました。ヘブル人の人口が増えると、驚異を感じたエジプトの王は過酷な労働を課し、「ヘブル人に男の子が産まれたら殺せ。」とまで命じました。
こうして、エジプトが世界で最初の『反ユダヤ主義』を政策に取り入れた国となりました。イスラエルがエジプトで奴隷生活をしていたように、私たちもキリストの福音を信じるまでは、この世にあって『罪の奴隷』として生きていました。
モーセが当時のイスラエルの人々を、エジプトでの奴隷生活から導き出したように、
モーセのような預言者であるキリスト・イエスが、私たち信じる者を罪の奴隷生活から導き出してくださったのです。
神を礼拝する民をつくるために、イスラエルをエジプトから連れ出された神。
エジプトを出るまでの十の災いは、エジプトの偶像の神々と真の神との戦い。
一つ一つ真の神が勝利されるのをエジプトが見ることによって、ヘブル人の神が真の神であることをエジプト人(異邦人)が知るようになるため。
出エジプト記3:18ー彼らはあなたの声に聞き従おう。あなたはイスラエルの長老たちといっしょにエジプトの王のところに行き、彼に『ヘブル人の神、主が私たちとお会いになりました。どうか今、私たちに荒野へ三日の道のりの旅をさせ、私たちの神、主にいけにえをささげさせてください。』と言え。
出エジプト記7:5ーわたしが手をエジプトの上に伸ばし、イスラエル人を彼らの真中から連れ出すとき、エジプトはわたしが主であることを知るようになる。
cf:出エジプト記8:10, 22, 9:14, 10:2,
神はイスラエルとエジプト(異邦人)とを区別されました。
出エジプト記8:22ーわたしはその日、わたしの民がとどまっているゴシェンの地を特別に扱い、そこには、あぶの群れがいないようにする。それは主であるわたしが、その地の真中にいることを、あなたがた知るためである。
出エジプト記9:4ーしかし主は、イスラエルの家畜とエジプトの家畜とを区別する。それでイスラエル人の家畜は一頭も死なない。
出エジプト記9:26ーただ、イスラエル人が住むゴシェンの地には、雹は降らなかった。
出エジプト記10:23ー三日間、だれも互いに見ることも、自分の場所から立つこともできなかった。しかしイスラエル人の住む所には光があった。
出エジプト記40:17ー第二年目の第一の月、その月の第一日は幕屋は建てられた。
幕屋建設に関して『主がモーセに命じられたとおり』と何度も繰り返されている。
cf:出エジプト記38:22, 39:1, 5, 21, 31, 43
この時のイスラエルの民は、神の命令に従順だったということ。
出エジプト記40:33~35ーまた、幕屋と祭壇の回りに庭を設け、庭の門に垂れ幕を掛けた。こうして、モーセはその仕事を終えた。
そのとき、雲は会見の天幕をおおい、主の栄光が幕屋に満ちた。
モーセは会見の天幕にはいることができなかった。雲がその上にとどまり、主の栄光が幕屋に満ちていたからである。
モーセが幕屋建設という仕事を終えると、主の栄光が幕屋に満ちました。
これにより、神を礼拝するための準備が整ったということ。
*雲、火、煙…象徴的に『シャカイナ・グローリー』をあらわすことば。
出エジプト記40:36~37ーイスラエル人は、旅路にある間、いつも雲が幕屋から上ったときに旅立った。
雲が上らないと、上る日まで、旅立たなかった。
*奴隷から解放され、エジプト人の主人の代わりに、神がイスラエルの主となられ民を導かれた。
この関係が大事なのですよね。
出エジプト二年目以降、幕屋の至聖所にある『契約の箱』の贖罪蓋の上に、神の栄光/シャカイナ・グローリーはご臨在されました。
契約の箱が置かれた至聖所と聖所は、人の手幅程もある厚い垂れ幕で仕切られ、聖所側に金の香壇が置かれていました。
右手には、供えのパンの机があり、
左手には、金の燭台(メノラー)がありました。
レビ記16:12~13ー主の前の祭壇から、火皿いっぱいの炭火と、両手いっぱいの粉にしたかおりの高い香とを取り、垂れ幕の内側に持って入る。
その香を主の前の火にくべ、香から出る雲があかしの箱の上の『贖いのふた』をおおうようにする。彼が死ぬことのないためである。
律法で命じられたとおりに幕屋を造り、命じられたとおりに祭儀を行うことが、神に従った礼拝です。同じように、救いも神が決められた方法ー御子イエスの十字架の贖いの死と復活を信じる信仰ーによるただひとつの『道』しかありません。
この方法以外のことを説く者は『ほかの福音』を宣べ伝える者であり、真の救いにはいたらない信仰を勧めていることになります。
幕屋には窓はないため、祭司は朝に夕に聖所の務めとして、燭台に油を足し、芯を整えて明かりを確保しなくてはなりませんでした。
12個の供えのパンは、安息日毎に新しいものに交換されました。
同じように、至聖所にも窓がないのにもかかわらず、至聖所に燭台はありませんでした。至聖所の光は、神の栄光/シャカイナ・グローリーの光であり、大祭司はその光のもとで務めを果たしました。
香の煙は、その時、聖なる神のシャカイナ・グローリーと大祭司との間のベールとなり、大祭司を守る役割となりました。
つまり、シャカイナ・グローリーと大祭司を分離するものが香の煙であり、
至聖所に入る大祭司と聖所の務めをする祭司を分離したのが、第二の垂れ幕。
幕屋の敷居の第一の垂れ幕は、聖職者と非聖職者とを分離し、
神殿の中庭は、レビ人とレビ人以外とを分離しました。
(イエスの時代の神殿は、異邦人の庭が、ユダヤ人と異邦人を分離していた。)
後に、ソロモンが神殿を建てた時、シャカイナ・グローリーも神殿に移られました。
1列王記8:10~11ー祭司たちが聖所から出て来たとき、雲が主の宮に満ちた。
祭司たちは、その雲にさえぎられ、そこに立って仕えることができなかった。主の栄光が主の宮に満ちたからである。
このように神によってエジプトの奴隷生活から救い出され、神に導かれて約束の地に入り、神の栄光/シャカイナ・グローリーがご臨在する主の宮を持ちながら、イスラエルの民は神よりも目に見える人間の王(初代王サウルは、神が定めた王族ユダからではなく、ベニヤミン族出身)を求めたり、近隣諸国の偶像の神々を慕うようになりました。そして、律法に従って、七年に一度の土地の安息も守らなくなったのです。
人間はどうしても目に見える存在に頼りたくなるものですが、神はこう言っています。ヘブル11:1ー信仰は望んでいる事がらを保証し、目に見えないものを確信させるものです。
BC605年、597年、586年と三度にわたるバビロン捕囚の度に、神殿の宝物蔵から器具は奪われ第三回バビロン捕囚の時にエルサレムの町と共に崩壊しました。
アブの月の九日の出来事でした。
シャカイナ・グローリーはどうなったのでしょうか…?
シャカイナ・グローリーは、捕囚前に天に帰られていた!
①至聖所から神殿の敷居へ…エゼキエル9:3, 10:4
②敷居から東の門へ…エゼキエル10:18~19
③東の門から町の東の(オリーブ)山へ…エゼキエル11:23
伝承によれば、オリーブ山に3年半留まったと言われている。キリストの公生涯と同じ期間。
④オリーブ山から天へ…エゼキエル11:24
主イエスもオリーブ山(ベタニヤ)から昇天されました。
BC586年のエルサレム崩壊から『異邦人の時』が始まったのです。
『異邦人の時』は、患難時代の終わりのキリストの地上再臨まで続きます。
70年間の捕囚を経て、バビロンを倒したメド・ペルシャ連合帝国のペルシャの王クロス(旧約時代の異邦人で唯一、油そそぎを受けた者)により、帰還命令が出されました。
帰還後、すぐに第二神殿は建てられましたが、天に帰られたシャカイナ・グローリーは戻っては来ませんでした。
時の王、エドム人(アブラハムーイサクーエサウの子孫)でイスラエルの王となったヘロデ大王が、飴と鞭の政策で神殿を大改修工事を行ないましたが、それでもシャカイナ・グローリーは戻らなかったのです。
この第二神殿に戻るべきシャカイナ・グローリーは、聖霊により処女から誕生したみどりごの内に宿って地に戻られました。神の御子イエスの内に…。
それが外側に溢れ出たのが、マタイ17:2の『山上の変貌』の時です。
キリストの初臨時のユダヤ人たちが、イエスをメシアと民族的に信じ受け入れていたのなら、復活後のイエスが神殿に入り、御座に着座すればよかったのです。
しかし、当時のユダヤ人たちは、イエスのメシアとしてのわざを「悪霊のかしら、ベルゼブルの力による」とし、イエスを民族的に拒絶してしまいました。
イエスは40日の間、復活されたことを示された後、オリーブ山から昇天されました。
昇天の1週間後、ペテロの演説を聞いたユダヤ人たちが、自分たちがつい二ヶ月弱前に『ベルゼブル』だとして、十字架につけたイエスこそがメシアだと悔い改めた『ユダヤ人たちに』聖霊が降りたのです。使徒2章
マタイ16:16~18で『御国の鍵』を託されたペテロは、
使徒8章で異邦人との混血であるサマリヤ人信者に御国の扉を開け、聖霊がくだり、
使徒10章でコルネリオに御国の扉を開けて、異邦人にも聖霊が降りました。
1コリント6:19~20ーあなたがたのからだは、あなたがたのうちに住まれる、神から受けた聖霊の宮であり、あなたがたは、もはや自分自身のものではないことを、知らないのですか。
あなたがたは、代価を払って買い取られたのです。ですから自分のからだをもって、神の栄光を現しなさい。
使徒10章以降、どこの国の人であっても、キリストの福音を信じる者は、一人一人が御霊が内住される『宮』となったのです。
ヘロデが大改修工事をした第二神殿が、AD70年にローマ軍により崩壊されるまでの40年間は、当時のユダヤ人たちにとって『試みの期間』となりました。
モーセの律法に従い『建物としての神殿』にしがみついたままなのか…
イエスがメシアだと信じて、自分自身が『聖霊の宮』となるのか…その決断の期間となりました。
AD70年アブの月の九日(ソロモンの神殿崩壊と同月同日)の時点で、ユダヤ教にとどまった者たちはみな、神殿とともに滅びることとなりました。
メシアニックジューはこの時、ルカ21:20~21に従いペラの山に逃げて助かりました。
ルカ21:20~21ーしかし、エルサレムが軍隊に囲まれるのを見たら、そのときには、その滅亡が近づいたことを悟りなさい。
そのとき、ユダヤにいる人々は山へ逃げなさい。都の中にいる人々は、そこから立ちのきなさい。いなかにいる者たちは、都にはいってはいけません。
その意味でも、イエスはこの世の試練からも信じる者たちを救い出してくださったのですね。イエスの昇天後40年間は、メシアを信じないユダヤ人に対する神の裁きの執行猶予期間だったということです。
現代を生きる私たちは、この肉体が生きている間が『執行猶予期間』になります。
肉体の死後には、たましいの救いがないからです。
シャカイナ・グローリーを宿すメシアを受け入れない地に、イエスが成就し、無効にされた律法に従って、繰り返し動物のいけにえをささげる建物としての『神殿』は、もはや必要ではありません。だから神は神殿崩壊を許されたのです。
ペンテコステ以来、キリストの福音の三要素を信じる信者一人一人が『生ける神の宮』となりました。だから御霊の内住のある者は、自分のからだをもって神の栄光(シャカイナ・グローリー)を現すのです。1コリント6:20, 10:31
しかし、近い将来必ず、この御霊の内住する『宮』も天に帰る時が来ます。
それが、携挙です。
携挙後、地上には御霊の内住のあるキリスト者は一人もいなくなります。そのため、再びエルサレムの地に『神殿』が建つことに…。
そう…再び、モーセの律法に従って、繰り返し動物のいけにえをささげる不信仰による第三神殿が建つことになります。そして、イスラエルではその建設準備が、既に2,012年の秋に完了しています。
教会時代である現在は、1コリント15:3~4の『キリストの福音』の三要素を信じる者には、御霊の内住があります。
ヨハネ14:17ーその方は、真理の御霊です。世はその方を受け入れることができません。世はその方を見もせず、知りもしないからです。しかし、あなたがたがはその方を知っています。その方はあなたがたとともに住み、あなたがたのうちにおられるからです。
それだけでなく、御父も御子も信者のうちに住んでくださいます。
ヨハネ14:23ーイエスは彼に答えられた。「だれでもわたしを愛する人は、わたしのことばを守ります。そうすれば、わたしの父はその人を愛し、わたしたちはその人のところに来て、その人とともに住みます。
私たち信者の内に住まわれている神が、ご自身の栄光/シャカイナ・グローリーをあらわすようにと命じておられるのです。
イザヤ43:7ーわたしの名で呼ばれるすべての者は、
わたしの栄光のために、わたしがこれを創造し、
これを形造り、これを造った。
イザヤ43:21ーわたしのために造ったこの民は
わたしの栄誉を宣べ伝えよう。
これらはイザヤ書のみことばですから、元々は神を礼拝する民として選ばれたイスラエル/ユダヤ人たちが担っていたのですが、メシアの初臨で民族として拒み、ペンテコステ以降はメシアを信じる異邦人にも聖霊が降るようになったため、すべての国のキリストの福音の三要素を信じる者が該当するようになりました。
このように見てくると、アブラハム契約がイサク、ヤコブ、そしてエジプトでヤコブの十二人の息子たちに継承され、四百年かけて『ユダヤ民族』となりました。
その民が、モーセに率いられてエジプトを出て一年後、幕屋が完成し、シャカイナ・グローリーが至聖所のご臨在され、『イスラエルの神と神を礼拝する民』の関係が整ったのです。
以来、イスラエルの民の中には『幕屋(のちに神殿となる)』がありました。
彼らの不信仰により捕囚となり一時的に神殿が無い時もありましたが、すぐに第二神殿が建てられたのです。
ペンテコステ(五旬節)で、キリストを信じるユダヤ人にも異邦人にも聖霊が降り、一人一人の信者が『御霊が宿る神の宮』となって40年後に、建物の神殿は崩壊しました。
現在、エルサレムに『神殿』はありませんが、世界中に『神の宮』が点在しています。
こうして神様は、ご自分の民となった人々とともにいてくださっているのです。
そして、『御霊の住まわれる宮』である私たちクリスチャンとメシアニックジューたちは、神の栄光/シャカイナ・グローリーをあらわしていくという務めがあるのです。
信者のからだという『神の宮』は、異邦人の救いが完成すると、キリストの花嫁として天に挙げられます。これが『携挙』です。
すると、地上は御霊の内住のない不信仰な人々によって、再び建物としての『神殿』が建てられます。イザヤが66:3~4で預言しているのは、この『第三神殿』に仕える人々のことであり、ダニエル9:27やマタイ24:15で主が預言しているのは、患難時代中期にこの神殿に反キリストの像が立てられたら「ユダヤにいる人々は山(ボツラ)に逃げるように」という、患難時代のご自分の民イスラエルに対する警告なのです。
第三神殿だけは、神が唯一承認されない『不信仰による神殿』です。
この時、ボツラに逃げ延びた1/3のユダヤ人たちが、イエスがメシアだと回心するのが患難時代の最後の三日間。ユダヤ人たちの民族的回心が起きた時、彼らの祈りに応えてキリストの地上再臨が起こります。
そして、千年王国の神殿が建てられ、そこにキリストが着座されると『メシア的王国』が始まるという、神様の壮大で緻密なご計画を聖書全体で伝えています。
そのことを伝えていくのは、クリスチャンの使命の一つですね。