初臨のイエスは『神の小羊』として十字架でご自分の血をもって、人類の罪を購ってくださいました。確かにその肉体は死に墓に葬られましたが、三日目に死者の中からよみがえられました。
昇天後〜現在、天で何をされているのかということについて、著者は地上のレビ系祭司の場合と、天のメルキゼデクの位の祭司であるイエスとを対比させています。
ヘブル10:11ーまた、すべて祭司は毎日立って礼拝の務めをなし、同じいけにえをくり返しささげますが、それらは決して罪を除き去ることができません。
ここでは『贖罪の日/ヨム・キプール』の儀式ではなく、毎日のいけにえと儀式に焦点を合わせています。
*すべての祭司…すべてのレビ系祭司たちに当てはまります。彼らの務めは決して終わることなく、『毎日立って』務めをなしています。
*毎日立って…レビ系祭司の務めが、未完成の状態であることを強調しています。
『毎日』…日々のいうけにえがあり、同じいけにえをくり返し、それをどんなにささげても罪が取り除かれることはありませんでした。
*くり返し…11節での強調点。
ヘブル10:12ーしかし、キリストは、罪のために一つの永遠のいけにえをささげて後、神の右の座に着き、
*しかし、キリストは…イエスの祭司職は、地上の『すべての祭司』とは対照的に『ただお一人』です。
*一つの永遠のいけにえをささげて…レビ系祭司たちのささげ物がくり返されるのに対し、一度だけの永遠のささげ物に強調点があります。
御子によるたった一度の『神の小羊』という一つのいけにえがささげられた時、罪の問題は永遠に解決されました。
旧約聖書のいけにえのささげ物によっては罪を取り除くことはできませんでしたが、イエスのいけにえの『神の小羊』の血は罪を取り除いたのです。
これは、御子の務めが永遠に有効であることを示しています。
*神の右の座に着き…御子は務めを終えられたので、『座る』ことができるのです。
決して終わることのない務めを負っているレビ系祭司たちが、常に『立っていた』ここと対照的に描かれています。
ヘブル10:13ーそれからは、その敵がご自分の足台となるのを待っておられるのです。
*敵がご自分の足台となるのを待っておられる…詩篇110:1の遂行。
詩篇110:1ー主は、私の主に仰せられる。
「わたしがあなたの敵をあなたの足台とするまでは、
わたしの右の座に着いていよ。」
イエスが『座って』、その敵が足台になるのを待つことができる理由は、御子が務めを終わらせたからです。御子は同じいけにえをくり返しささげる必要がないからです。
『裁き主』として再び来られるまで、御子は天にとどまっておられます。
『裁き主』として再臨される時、敵を滅ぼされます。
11~13節で著者は、御子とレビ系祭司との間で七つの対比をしています。
レビ系祭司 御子
①大勢いる。 ①お一人だけ。
②立っている。 ②座っている。
③毎日いけにえをささげる。 ③たった一日だけのいけにえをささげた。
④何度もいけにえをささげた。 ④たった一度だけのいけにえをささげた。
⑤多くのいけにえをささげなくては ⑤一度だけのいけにえをささげなくては
ならなかった。 ならなかった。
⑥一時的な罪の償いをした。 ⑥永遠の償いを成し遂げられた。
⑦罪を覆うだけのいけにえだった。 ⑦罪を取り除くいけにえだった。
ヘブル10:14ーキリストは聖なるものとされる人々を、一つのささげ物によって、永遠に全うされたのです。
結論…御子の一つのささげ物は『永遠に全うされた』ということ。
現在、神の視点から見て、聖なる者とされた人々は、永遠に全うされたということです。
*永遠に…キリストは務めをすべて終え、何も残っていないことを示しています。
*永遠に全うされた…この節は『立場と行い』とを対比させており、信者はキリストのうちにあるため『位置的きよめ』として、神の目には永遠にきよめられた者とされ、全うされています。
信者自身が完全なのではなく、信者がただキリストのうちにあることにより『完全な者』とされるのです。
とはいえ、実際には信者はまだ罪を犯します。
そのため、実際的なきよめと呼ばれる務めがあります。それが『内住の聖霊』の働きであり、信者を神の子どもとしてますますふさわしく、徐々に整えてくださいます。
信者が恵みの中で成長するに従い、『位置的きよめ』に見合った行動をするようになっていきます。
『救いが全うされている』もう一つの理由は、御子の務めが既に信者を永遠に、完全に全うしたということです。
神の御前に信者が立つ時、すでに罪の償いがなされているので、『完全な者』としてたつことができるというのは真実です。
御子の『神の小羊』としての血は、一度限りで永遠にささげられ信者たちを全うしたため、キリストの血はより優れた血なのです。
その『より優れた血』で贖われているからこそ、私たちキリスト・イエスを信じる者は、救いを失うことは絶対にありません。救いの確信を持って、大胆に信仰生活を送ることができるのです!