『パウロ』と聞くと『信仰の大先輩』というイメージですが、キリストの『十二弟子』または『十二使徒』の一人として知られる『ペテロ』は、人間味があり親しみを感じる人物です。パウロのような信仰の歩みは無理でも、ペテロなら何とか目標にできそうな気さえしてきます。
そんなペテロですが、福音書でも福音書以外(使徒1:13)でも使徒たちのリストの筆頭に名前が挙げられているのです。そう…実は、ペテロは『使徒たちのリーダー』だったのです。
まず『ペテロ』という名前ですが、彼には他に『シモン』と『ケパ』という二つの名前でも知られています。
・シモン…ヘブル語名:『聞く』『傍聴』の意。『聞く』の語根 “シャマ” の派生語。
レアによって生まれたヤコブの十二人の息子の一人『シメオン』の変化形。
創世記29:33ー彼女はまたみごもって、男の子を産み、「主は私がきらわれているのを聞かれて、この子をも私に授けてくださった。」と言って、その子をシメオンと名づけた。
・ペテロ…ギリシャ語名:『ペトロス』。『石』『小石』の意。
マタイ4:18ーイエスがガリラヤ湖のほとりを歩いておられたとき、ふたりの兄弟、ペテロと呼ばれるシモンとその兄弟アンデレをご覧になった。彼らは湖で網を打っていた。漁師だったからである。
・ケパ…アラム語名:『岩』の意。
ヨハネ1:42ー彼はシモンをイエスのもとに連れて来た。イエスはシモンに目を留めて言われた。「あなたはヨハネの子シモンです。あなたをケパ(訳すとペテロ)と呼ぶことにします。」
1コリント1:12ーあなたがたはめいめいに、「私はパウロにつく。」「私はアポロに。」「私はケパに。」「私はキリストにつく。」と言っているということです。
*クリスチャンは、人にではなく『キリストにつく者』です!
1コリント15:3~5ー私があなたがたに最もたいせつなこととして伝えたのは、私も受けたことであって、次のことです。キリストは、聖書の示すとおりに、私たちの罪のために死なれたこと、
また、葬られたこと、また、聖書に従って三日目によみがえられたこと、
また、ケパに現われ、それから十二弟子に現われたことです。
*復活の主は、十二弟子の中で一番最初にペテロに現われました。
ペテロの兄弟は、十二使徒の一人『アンデレ』。二人ともイエスの弟子になる前は、バプテスマのヨハネの弟子でした。
バプテスマのヨハネの弟子からキリストの弟子へ - サザエのお裾分け
ペテロというと『カペナウムの人』というイメージが強いですが、出身は『ベツサイダ』なのです。
ヨハネ1:43~44ーその翌日、イエスはガリラヤに行こうとされた。そして、ピリポを見つけて「わたしに従って来なさい。」と言われた。
ピリポはベツサイダの人で、アンデレやペテロと同じ町の出身であった。
バプテスマのヨハネの弟子から『イエスの弟子』になってからカペナウムに引っ越しています。
マルコ1:21ーそれから、一行はカペナウムにはいった。そしてすぐに、イエスは安息日に会堂にはいって教えられた。
マルコ1:29ーイエスは会堂を出るとすぐに、ヤコブとヨハネを連れて、シモンとアンデレの家にはいられた。
カペナウムでのペテロの本職は『漁師』だった。
ルカ5:4~5ー話が終わると、シモンに、「深みに漕ぎ出して、網をおろして魚をとりなさい。」と言われた。
するとシモンが答えて言った。「先生。私たちは夜通し働きましたが、何一つとれませんでした。でもおことばどおり、網をおろしてみましょう。」
*本職の漁師(漁は夜中〜朝方まだ暗いうちにするもの)というプライドより、イエスの『おことばどおり』に網をおろした結果、大漁だった。
ルカ5:10~11ーシモンの仲間であったゼベダイの子ヤコブやヨハネも同じであった。イエスはシモンにこう言われた。「こわがらなくてもよい。これから後、あなたは人間をとるようになるのです。」
彼らは、船を陸につけると、何もかも捨てて、イエスに従った。」
*映画 “Son of God” では、この時イエスはペテロに “Let’s change the world.” と声をかけていますが、福音書にはそのようなイエスのことばはありません。
聖書に無いことをあたかもそれらしく語るのは、サタンのわざですので要注意!
パウロは生涯独身を貫きましたが、ペテロは既婚者でした♡姑がいました。
聖書は結婚することを禁じてはいないのです。
1コリント9:5ー私たちには、ほかの使徒、主の兄弟たち、ケパなとど違って、信者である妻を連れて歩く権利がないのでしょうか。
マタイ8:14~15ーそれから、イエスは、ペテロの家に来られて、ペテロのしゅうとめが熱病で床に着いているのをご覧になった。
イエスが手にさわられると、熱がひき、彼女は起きてイエスをもてなした。
マタイ、マルコ、ルカの『共観福音書』では、十二使徒のリストの筆頭に『ペテロ』の名前があります。
マタイ10:2~4ーさて、十二使徒の名は次のとおりである。まず、ペテロと呼ばれるシモンとその兄弟アンデレ、ゼベダイの子ヤコブとその兄弟ヨハネ、 ピリポとバルトロマイ、トマスと取税人マタイ、アルパヨの子ヤコブとタダイ、 熱心党員シモンとイエスを裏切ったイスカリオテ・ユダである。
マルコ3:16~19ーこうして、イエスは十二弟子を任命された。そして、シモンにはペテロという名をつけ、 ゼベダイの子ヤコブとヤコブの兄弟ヨハネ、このふたりにはボアネルゲ、すなわち、雷の子という名をつけられた。 次に、アンデレ、ピリポ、バルトロマイ、マタイ、トマス、アルパヨの子ヤコブ、タダイ、熱心党員シモン、 イスカリオテ・ユダ。このユダが、イエスを裏切ったのである。
ルカ6:13~16ー夜明けになって、弟子たちを呼び寄せ、その中から十二人を選び、彼らに使徒という名をつけられた。 すなわち、ペテロという名をいただいたシモンとその兄弟アンデレ、ヤコブとヨハネ、ピリポとバルトロマイ、 マタイとトマス、アルパヨの子ヤコブと熱心党員と呼ばれるシモン、 ヤコブの子ユダとイエスを裏切ったイスカリオテ・ユダである。
ヨハネの福音書によれば、ペテロとアンデレはイエスの最初の弟子五人の中の二人だったことがわかります。
ヨハネ1:40~42ーヨハネから聞いて、イエスについて行ったふたりのうちひとりは、シモン・ペテロの兄弟アンデレであった。 彼はまず自分の兄弟シモンを見つけて、「私たちはメシヤ(訳して言えば、キリスト)に会った」と言った。 彼はシモンをイエスのもとに連れて来た。イエスはシモンに目を留めて言われた。「あなたはヨハネの子シモンです。あなたをケパ(訳すとペテロ)と呼ぶことにします。」
私たちの救い主の名である『イエス・キリスト』は、
・イエス…奇跡やしるしなどの『わざ』に焦点が置かれた『救い』を意味する『人』として来られた神の名。
・キリスト…『メシア』その働きにおいて『メシア預言』を全うされた『贖い主』を意味するギリシャ語。
このことをズバリ言い当てた信仰告白をしたのもペテロでした。
マタイ16:16ーシモン・ペテロは答えて言った。「あなたは、生ける神の子キリストです。」
*その結果、イエスはペテロに『御国のかぎ』を与えられました。
*後に、ペテロは『御国のかぎ』を託されたが故に
①使徒2:5~42ーユダヤ人に
②使徒8:14~25ーサマリヤ人(ユダヤ人と異邦人とのハーフ)に
③使徒10:1~11:18ー異邦人にも『教会の扉』を開けました。
イエスが十字架の死を預言し始めた時、真っ先に拒否したのもペテロでした。
マタイ16:21~23ーその時から、イエス・キリストは、ご自分がエルサレムに行って、長老、祭司長、律法学者たちから多くの苦しみを受け、殺され、そして三日目によみがえらなければならないことを弟子たちに示し始められた。 するとペテロは、イエスを引き寄せて、いさめ始めた。「主よ。神の御恵みがありますように。そんなことが、あなたに起こるはずはありません。」 しかし、イエスは振り向いて、ペテロに言われた。「下がれ。サタン。あなたはわたしの邪魔をするものだ。あなたは神のことを思わないで、人のことを思っている。」
ペテロは、イエスがヘルモン山で『変貌』された時の目撃者三人のうちの一人でした。
マタイ17:1~8ーそれから六日たって、イエスは、ペテロとヤコブとその兄弟ヨハネだけを連れて、高い山に導いて行かれた。 そして彼らの目の前で、御姿が変わり、御顔は太陽のように輝き、御衣は光のように白くなった。 しかも、モーセとエリヤが現れてイエスと話し合っているではないか。 すると、ペテロが口出ししてイエスに言った。「先生。私たちがここにいることは、すばらしいことです。もし、およろしければ、私が、ここに三つの幕屋を造ります。あなたのために一つ、モーセのために一つ、エリヤのために一つ。」 彼がまだ話している間に、見よ、光り輝く雲がその人々を包み、そして、雲の中から、「これは、わたしの愛する子、わたしはこれを喜ぶ。彼の言うことを聞きなさい」と言う声がした。 弟子たちは、この声を聞くと、ひれ伏して非常にこわがった。 すると、イエスが来られて、彼らに手を触れ、「起きなさい。こわがることはない」と言われた。 そこで、彼らが目を上げて見ると、だれもいなくて、ただイエスおひとりだけであった。
*ルカ9:33bーペテロは何を言うべきかを知らなかったのである。
イエスは、ペテロの分まで『神殿税(宮の納入金)』を払ってくださいました。
マタイ17:24~27ーまた、彼らがカペナウムに来たとき、宮の納入金を集める人たちが、ペテロのところに来て言った。「あなたがたの先生は、宮の納入金を納めないのですか。」 彼は「納めます」と言って、家に入ると、先にイエスのほうからこう言い出された。「シモン。どう思いますか。世の王たちはだれから税や貢を取り立てますか。自分の子どもたちからですか。それともほかの人たちからですか。」 ペテロが「ほかの人たちからです」と言うと、イエスは言われた。「では、子どもたちにはその義務がないのです。 しかし、彼らにつまずきを与えないために、湖に行って釣りをして、最初に釣れた魚を取りなさい。その口をあけるとスタテル一枚が見つかるから、それを取って、わたしとあなたとの分として納めなさい。」
最後の晩餐の時には、これからサタンに振るわれるペテロに対し、イエスは『特別な祈り』をしています。
ルカ22:31~34ーシモン、シモン。見なさい。サタンが、あなたがたを麦のようにふるいにかけることを願って聞き届けられました。 しかし、わたしは、あなたの信仰がなくならないように、あなたのために祈りました。だからあなたは、立ち直ったら、兄弟たちを力づけてやりなさい。」 シモンはイエスに言った。「主よ。ごいっしょになら、牢であろうと、死であろうと、覚悟はできております。」 しかし、イエスは言われた。「ペテロ。あなたに言いますが、きょう鶏が鳴くまでに、あなたは三度、わたしを知らないと言います。」
ゲッセマネの園では、居眠りをしてしまいました。
マタイ26:40~41ーそれから、イエスは弟子たちのところに戻って来て、彼らの眠っているのを見つけ、ペテロに言われた。「あなたがたは、そんなに一時間でも、わたしといっしょに目をさましていることができなかったのか。 誘惑に陥らないように、目をさまして、祈っていなさい。心は燃えていても、肉体は弱いのです。」
ペテロは、イエスの逮捕時、剣を抜いてイエスを守ろうとしました。
ヨハネ18:10~11ーシモン・ペテロは、剣を持っていたが、それを抜き、大祭司のしもべを撃ち、右の耳を切り落とした。そのしもべの名はマルコスであった。 そこで、イエスはペテロに言われた。「剣をさやに収めなさい。父がわたしに下さった杯を、どうして飲まずにいられよう。」
*イエスは自ら十字架に架かってくださったのです。
捕らえられたイエスを心配してついて行ったものの、イエスの預言通り『鶏が鳴く前に三度も主を知らない』と拒みました。
ペテロの信仰 〜ヨハネ13:36~14:4、マルコ14:66~72〜 - サザエのお裾分け
そのペテロの信仰の回復にために、イエスは三度『ヨハネの子シモン。あなたはわたしを愛しますか?と確認しています。
ヨハネ21:15ー彼らが食事を済ませたとき、イエスはシモン・ペテロに言われた。「ヨハネの子シモン。あなたはこの人たち以上にわたしを愛(アガペー/神の愛)しますか。」
ペテロはイエスに言った「はい。主よ。私があなたを愛(フィレオー/人間愛)することは、あなたがご存じです。」イエスは彼に言われた。「わたしの小羊を飼いなさい。」
ヨハネ21:16ーイエスは再び彼に言われた。「ヨハネの子シモン。あなたはわたしを愛(アガペー/神の愛)しますか。」
ペテロはイエスに言った。「はい。主よ。私があなたを愛(フィレオー/人間愛)することは、あなたがご存じです。」イエスは彼に言われた。「わたしの羊を牧しなさい。」
ヨハネ21:17ーイエスは三度ペテロに言われた。「ヨハネの子シモン。あなたはわたしを愛(フィレオー/人間愛)しますか。」
ペテロは、イエスが三度「あなたはわたしを愛(フィレオー/人間愛)しますか。」と言われたので、心を痛めてイエスに言った。「主よ。あなたはいっさいのことをご存じです。あなたは、私があなたを愛(フィレオー/人間愛)することを知っておいでになります。」イエスは彼に言われた。「わたしの羊を飼いなさい。
*日本語訳では区別がありませんが、ギリシャ語では『神の愛=アガペー』『人間愛=フィレオー』の区別があります。イエスは、神がペテロを愛されるのと同じように、ペテロがイエスを愛するかときいておられましたが、ペテロは常に『人間愛、フィレオー』で答えています。三度目には、イエスの方がペテロに歩み寄り『フィレオーしますか。』と聞いておられるのです。
そして、三度『わたしの羊を飼いなさい。』と命じられました。
ペテロは、一人の『使徒』として、羊(信者)たちに対し『牧者』の権威が与えられました。ペンテコステの時には、ペテロの大演説を聞いて三千人が救われ(使徒2~3章)、サンへドリンとも対峙しました(使徒4:1~23,5:17~42)。また二つの書簡、1&Ⅱ ペテロの手紙を書きました。
新約聖書には記されていませんが、教会の伝承によれば、皇帝ネロの時代にローマで『逆さ十字架』にかかったと言われています。
一漁師だったペテロが、主イエスと出会い、弟子として選ばれ、使徒となり、聖霊を受け、主と共に歩む中で霊的に大きく成長していった姿が記されています。
私たちの信仰の歩みも山あり谷ありですが、『主と共に歩む』なら、霊的に成長し続けることができるのです。
どんな時も主と共に…。