18:33 そこで、ピラトはもう一度官邸に入って、イエスを呼んで言った。「あなたは、ユダヤ人の王ですか。」
*「私たちには、だれを死刑にすることは許されてはいません」ー31節ーにより、ローマの総督ピラトは、イエスを尋問することになりました。
このときのユダヤ人たち(民の長老会、祭司長や律法学者たち、役人たちールカ22:66)の目的は、イエスを死刑にすることでした。
ヨハネ5:18ーこのためユダヤ人たちは、ますますイエスを殺そうとするようになった。イエスが安息日を破っておられただけでなく、ご自身を神と等しくして、神を自分の父と呼んでおられたからである。
ピラトはこの時、イエスがユダヤ人の王かどうかを確認しています。
*「ユダヤ人の王ですか」…「あなたがユダヤ人の王ですか?本当に?」という言い回し。
それはピラトが持つ『王のイメージ』と、現実に目の前にいるイエスとが大きくかけ離れていたことがわかります。
18:34 イエスは答えられた。「あなたは、自分でそのことを言っているのですか。それともほかの人が、あなたにわたしのことを話したのですか。」
イエスはピラトの質問には直接答えずに、逆にピラトに質問しています。
それはピラトに人を見た目で判断したり、人から聞いた先入観で判断したりせず、イエスを見て『真の王』かどうか、自分で判断することの大切さを教えているのでしょう。
私たちもこの点はよくよく注意が必要ですね。
聖書はみことばに関することでさえ、鵜呑みをしないことの大切さを教えています。
使徒17:11bー非常に熱心にみことばを聞き、はたしてそのとおりかどうかと毎日聖書を調べた。
イエスはどのような場におかれても、相手(ここではピラト自身)がイエスを信じて救われることを気にかけておられました。
18:35 ピラトは答えた。「私はユダヤ人ではないでしょう。あなたの同国人と祭司長たちが、あなたを私に引き渡したのです。あなたは何をしたのですか。」
ピラトの答えから、ピラトが気にしていることは、ユダヤ人の暴動が起きないことでしょう。もし起きてしまうと、その責任を本国からピラト自身が問われることになるからです。
ピラトは自分がイエスと関係するはめになったことを、迷惑に感じていることは確かですね。
伝道していると、時々、イエスと個人的な関係を持つことに対して、恐れや不安を感じたりする人がいますが、それは何故だと思いますか?
18:36 イエスは答えられた。「わたしの国はこの世のものではありません。もしこの世のものであったなら、わたしのしもべたちが、わたしをユダヤ人に渡さないように、戦ったことでしょう。しかし、事実、わたしの国はこの世のものではありません。」
ここでイエスはやっと33節のピラトの質問に答えています。35節のピラトの気持ちに対し、何か助けになっているでしょうか?
*わたしの国はこの世のものではありません…とは、キリストの御国は神権政府となるので、この世の罪ある人間による政府ではないということ。
18:37 そこでピラトはイエスに言った。「それでは、あなたは王なのですか。」イエスは答えられた。「わたしが王であることは、あなたが言うとおりです。わたしは、真理のあかしをするために生まれ、このことのために世に来たのです。真理に属する者はみな、わたしの声に聞き従います。」
*わたしが王である…とは、イエスが神の御子でありながら、御国(千年王国)の王となるために遣わされ、ユダ族のダビデの子孫として受肉しててきたという意味。
臨時のユダヤ人たちが『神の選びの民=イスラエル民族』として、メシアを信じることによって実現するはずでした。
もしイエスが言うとおりの『王』であるならば、私たちもまたその『王』の命令に従順になり、真理に従う者であるべきです。やがて、イエスは御国(=千年王国)の王として天から戻って来られます。私たちは、その王なるイエスにお会いする準備を整えておくべきでしょう。
*あなたが言うとおりです…直訳では「あなたがずっと言い続けている」となり、『ピラト自身が自分の口でさっきからずっと言っているとおりです』という意味になります。
人生において、何を選び取ることが重要だと思いますか?
18:38 ピラトはイエスに言った。「真理とは何ですか。」彼はこう言ってから、またユダヤ人たちのところに出て行って、彼らに言った。「私は、あの人には罪を認めません。
ピラトはイエスの呼びかけに対して「真理とは何ですか」と聞いていますが、ピラトはイエスを前にしても『真理』がわからなかったのでしょうか?
彼にとっては、自分の社会的立場の方が真理よりも重要だったので、『真理』がわからなくなっていたのでしょう。
みことばの真理を知るまでは、自分で『クリスチャンとは、こうあるべき』とか、教会からのいろいろな規則や奉仕等に疲れてしまい、クリスチャン生活をやめたいと思うことがあるかもしれません。
しかし、みことばを学び、何が真理かを知ることによって、本当の意味で自由になります。
ヨハネ8:32ーそして、あなたがたは真理を知り、真理はあなたがたを自由にします。
ピラトはイエスのことばをつっぱねてはいるものの、イエスに罪を認めませんでした。
*あの人には罪を認めません…なぜイエスのことばをつっぱねながら、そのようなことが言えるのでしょうか?
聖書のことば(イエスのみことば)をつっぱねてしまうのは、どこか『自分』には関係ないと思っているからでしょう。
18:39 しかし、過越の祭りに、私があなたがたのためにひとりの者を釈放するのがならわしになっています。それで、あなたがたのために、ユダヤ人の王を釈放することにしましょうか。」
ピラトは無罪のイエスを何とか釈放しようと努めました。
人間的な視点や事なかれ主義等の理由から、良心的な判断をすることは可能です。
18:40 すると彼らはみな、また大声をあげて、「この人ではない。バラバだ」と言った。このバラバは強盗であった。
ユダヤ人たちは強盗殺人の罪を犯したバラバの釈放を求め、ピラトが罪を認めないとまで言ったイエスを十字架につけるように要求しました。
ルカ23:19ーバラバとは、都に起こった暴動と人殺しのかどで、牢にはいっていた者である。
なぜ、無実のイエスよりも強盗犯のバラバの釈放を願ったのでしょう?
なぜ、それほどイエスを殺したかったのでしょうか?
当時のイスラエルでは、モーセの律法に律法学者やパリサイ人たちによる様々なしきたりや解釈などがつけ加えられ、『口伝律法』でがんじがらめになっていました。
イエスはそのような『口伝律法』の誤りを指摘し、律法本来の意味を説き、人々を口伝律法から解放していきました。次第に多くの人々がイエスに従うようになっていき、律法学者やパリサイ人など口伝律法を律法を重んじる人や、ローマと結託していた祭司長たちの堕落を指摘され、指導者たちはイエスをねたむようになったのです。
指導者のプライドが傷つけられたと感じたのかもしれません。
19:1 そこで、ピラトはイエスを捕らえて、むち打ちにした。
最初の策に失敗したピラトは暴動になるのを恐れ、無実のイエスを捕らえ、むち打ちにしました。
1~5節で、イエスはどのようにされていますか?一つ一つあげてみましょう。
①むち打ちにした。
19:2 また、兵士たちは、いばらで冠を編んで、イエスの頭にかぶらせ、紫色の着物を着せた。
②いばらで冠を編んで、イエスの頭にかぶらせ、
③紫色の着物を着せた。
19:3 彼らは、イエスに近寄っては、「ユダヤ人の王さま。ばんざい」と言い、またイエスの顔を平手で打った。
④イエスの顔を平手で打った。
19:4 ピラトは、もう一度外に出て来て、彼らに言った。「よく聞きなさい。あなたがたのところにあの人を連れ出して来ます。あの人に何の罪も見られないということを、あなたがたに知らせるためです。」
このようなやり方をすることによって、ピラトはイエスに罪がないことを証明しようとしましたが、ユダヤ人たちを満足させたり、説得することはできませんでした。
19:5 それでイエスは、いばらの冠と紫色の着物を着けて、出て来られた。するとピラトは彼らに「さあ、この人です」と言った。
ピラトがユダヤ人たちの前に引き出したイエスの姿は、どのようだったと思いますか?ピラトのもとに連れて来られる前に、大祭司カヤパの中庭でイエスがされたことも考えてみると、別人と思えるほど顔は腫れ上がり、血まみれだったかもしれません。
マタイ26:67ーそうして、彼らはイエスの顔につばきをかけ、こぶしでなぐりつけ、また、他の者たちは、イエスを平手で打って、
ルカ22:63ーさて、イエスの監視人どもは、イエスをからかい、むちでたたいた。
19:6 祭司長たちや役人たちはイエスを見ると、激しく叫んで、「十字架につけろ。十字架につけろ」と言った。ピラトは彼らに言った。「あなたがたがこの人を引き取り、十字架につけなさい。私はこの人には罪を認めません。」
イエスの姿を見た祭司長や役人たちは、同情したでしょうか?
いいえ。すでに痛々しい姿になっていたイエスを見た彼らは、さらに「十字架につけろ。十字架につけろ。」と激しく叫んでいました。
ピラトは彼らにイエスに罪を認めないと言いながら、なぜ自分たちでイエスを引き取って、十字架ように命じたのでしょう?
矛盾しているように感じますが、ピラトはあくまでも異邦人です。ローマ法に違反する罪は認めなかったので、責任をユダヤ人たちに押し付けたかったのでしょう。
19:7 ユダヤ人たちは彼に答えた。「私たちには律法があります。この人は自分を神の子としたのですから、律法によれば、死に当たります。」
ピラトがこの件から手を 引こうとしたとき、祭司長や役人たちは今度は『モーセの律法』に訴えてイエスを殺そうとしました。
ヨハネ18:31ーそこで、ピラトは彼らに言った。「あなたがたがこの人を引き取り、自分たちの律法に従ってさばきなさい。」ユダヤ人たちは彼に言った。「私たちには、だれをも死刑にすることも許されてはいません。」
19:8 ピラトは、このことばを聞くと、ますます恐れた。
祭司長や役人たちがイエスは「自分を神の子とした」と訴えたことに対し、ピラトはますます恐れを感じました。
19:9 そして、また官邸に入って、イエスに言った。「あなたはどこの人ですか。」しかし、イエスは彼に何の答えもされなかった。
「あなたはどこの人ですか。」とは、どのような意味でしょう?
ローマ人にとって『神の子』とは、人間世界に降ってきた神々の化身であり、迷信的な神概念に基づくものでした。
素直にイエスを『神の子』として求めていないピラトの質問の対し、イエスは一言も答えられませんでした。
19:10 そこで、ピラトはイエスに言った。「あなたは私に話さないのですか。私にはあなたを釈放する権威があり、また十字架につける権威があることを、知らないのですか。」
この沈黙にピラトは自分に与えられている『権威』は、イエスを釈放することも、十字架につけることもできると述べています。だから、自分の質問に答えるようにという圧力をかけています。
19:11 イエスは答えられた。「もしそれが上から与えられているのでなかったら、あなたにはわたしに対して何の権威もありません。ですから、わたしをあなたに渡した者に、もっと大きい罪があるのです。」
イエスは、ピラトの権威は上から与えられたものだと伝えています。
パウロもまた、各国の政府の権威に対して同じことを言っています。
ローマ13:1ー人はみな、上に立つ権威に従うべきです。神によらない権威はなく、存在している権威はすべて、神によって立てられたものです。
イエスはピラトの『権威』がどのようなものであると指摘しておられますか?
上から与えられたものでなかったら、イエスに対して何の権威もないのだから、あなたにその権威を与えたものを認めるようにという招きもあるのではないでしょうか…。
イエスはどのような『権威』をピラトに対して持っておられる方でしょう?
神の御子としての『上からの権威』を持っておられるお方ですね。
ピラトはこの裁判で、三度も祭司長や役人たちとイエスとの間を行き来しました。
もし本当にイエスに言ったように『釈放する権威』と『十字架につける権威』があり、イエスに罪を認めないのであれば、釈放すればよかったのです。それをしなかったのは、神を恐れるのではなく、ローマ政府やユダヤ人たち、人の顔色を気にしていたからこそこんなに行き来したのでしょう。
19:12 こういうわけで、ピラトはイエスを釈放しようと努力した。しかし、ユダヤ人たちは激しく叫んで言った。「もしこの人を釈放するなら、あなたはカイザルの味方ではありません。自分を王だとする者はすべて、カイザルにそむくのです。」
ピラトがイエスを釈放しようとした理由は、彼らがねたみからイエスを引き渡したことを知っていたからです。
マルコ15:10ーピラトは、祭司長たちが、ねたみからイエスを引き渡したことに、気づいていたからである。
*「もしこの人を釈放するなら、あなたは回ざるの味方ではありません。自分を王だとする者はする者はすべて、カイザルにそむくのです。」…ピラトはなんとかイエスを釈放しようと努力したにもかかわらず、ユダヤ人のことばで最終的な判決を下すことにしました。
このことばを聞いた時、ピラトの心にはどんな思いがよぎったでしょう?
目に見えない『上からの権威』よりも、自分に権威を授けた目に見えるローマ政府を恐れたのです。
19:13 そこでピラトは、これらのことばを聞いたとき、イエスを外に引き出し、敷石(ヘブル語ではガバタ)と呼ばれる場所で、裁判の席に着いた。
結局 ピラトはユダヤ人たちの声に負け、イエスを裁き、十字架刑を言い渡すための裁判の席に着きました。
19:14 その日は過越の備え日で、時は第六時ごろであった。ピラトはユダヤ人たちに言った。「さあ、あなたがたの王です。」
*過越の備え日…ニサンの月の14日の過越の祭りと続く15~21日までの七日間の種なしパンの祭りの期間である八日間を『過越の祭り』もしくは『種なしパンの祭り』と呼びます。種なしパンの祭りは一週間祝うため、必ずどこかで『安息日』が入ります。
つまり、『過越の備え日』とは、この種なしパンの祭りの期間中の安息日の備えをする日という意味であり、祭りの期間中の木曜日の日没〜金曜日の日没までのことです。
マルコ15:42ーすっかり夕方になった。その日は備えの日、すなわち安息日の前日であったので、
ルカ23:54ーこの日は準備の日で、もう安息日が始まろうとしていた。
ヨハネ19:31ーその日は備えの日であったため、ユダヤ人たちは安息日に(その安息日は大いなる日であったので)、死体を十字架の上に残しておかないように、すねを折ってそれを取りのける処置をピラトに願った。
申命記21:22~23ーもし、人が死刑に当たる罪を犯して殺され、あなたがこれを木につるすときは、
その死体を次の日まで、木に残しておいてはならない。その日のうちに必ず埋葬しなければならない。
木につるされた者は、神にのろわれた者だからである。あなたの神、主が相続地としてあなたに与えようとしておられる地を汚してはならない。
ヨシュア記8:29ーヨシュアはアイの王を、夕方まで木にかけてさらし、日の入るころ、命じて、その死体を木から降ろし、
町の門の入口に投げ、その上に大きな、石くれの山を積み上げた。今日もそのままである。
ヨハネ13:2~19:42までは、過越の祭りの期間であり、ニサンの月の十五日『種なしパンの祭り』の初日の出来事です。
民数記28:16~17ー第一の月の十四日は、過越のいけにえを主にささげなさい。
この月の十五日は祭りである。七日間、種を入れないパンを食べなければならない。
ヨハネ18:28で『彼ら(=祭司たち)』が “過越の食事が食べられなくなることがないように” というのは、神殿で大祭司と祭司長たちだけが食べる過越の食事(ヘブル語:ハギガー)のことであり、祭りの初日の午前9時にほふられる子羊を食べるものです。
マルコ15:25によれば、イエスが十字架につけられたのは、まさに神殿で子羊がほふられるのと同じ時間だったことがわかります。
この祭司長たちが、イエスを十字架につけることを主張したのです。ヨハネ11:47~57
ヨハネ12:10ー祭司長たちはラザロも殺そうと相談した。
ヨハネ19:6ー祭司長たちや役人たちはイエスを見ると、激しく叫んで、「十字架につけろ。十字架につけろ」と言った。ピラトは彼らに言った。「あなたがたがこの人を引き取り、じゅうじかにつけなさい。私はこの人には罪を認めません。」
ヨハネ19:21ーそこで、ユダヤ人の祭司長たちがピラトに、「ユダヤ人の王、と書かないで、彼はユダヤ人の王と自称した、と書いてください」と言った。
彼らは罪の無い神の御子イエスを告発するという大きな罪を犯しながら、異邦人であるピラトの家に入ることによって汚れることを恐れていたのです。ここに彼らの形式を重んじる矛盾があります。
*時はおよそ第六時であった…当時の時間の数え方には、
①午前6時から数える『ユダヤ式』と
②午前0時、もしくは、正午から数える『ローマ式』の二種類あります。
マタイ、マルコ、ルカの共観福音書は『ユダヤ式』を用い、
ヨハネの福音書は一貫して『ローマ式』を用いていると考えるのが妥当でしょう。
ローマ式の午前0時からなのか、正午からなのかは文脈で判断すべきです。
ここでは午前0時から数えた『朝6時』。
その理由は、共観福音書がイエスが十字架につけられた時刻を記しているからです。
マルコ15:25ー彼らがイエスを十字架につけたのは、午前9時であった。
マタイ27:45ーさて、十二時から、全地が暗くなって、三時まで続いた。
もし、ヨハネの福音書が『ユダヤ式』を採用しているとすると、マルコやマタイの証言からイエスは十字架につけられてから3時間後の正午ごろにピラトの裁判で十字架刑を言い渡されたことになり、つじつまが合わなくなります。となると、この箇所を『正午』と訳出している聖書はすべて『誤訳』ということになります。
ヨハネ福音書19:14
【口語訳】その日は過越の準備の日であって、時は昼の十二時ころであった。ピラトはユダヤ人らに言った、「見よ、これがあなたがたの王だ」。
【新共同訳】それは過越祭の準備の日の、正午ごろであった。ピラトがユダヤ人たちに、「見よ、あなたたちの王だ」というと、
【リビングバイブル】それはちょうど、過越の祭りの前日、正午ごろのことでした。「さあ、おまえたちの王だ。」
※リビングバイブルに至っては、『備えの日』の意味と『時間』の両方で誤訳になっています!
19:15 彼らは激しく叫んだ。「除け。除け。十字架につけろ。」ピラトは彼らに言った。「あなたがたの王を私が十字架につけるのですか。」祭司長たちは答えた。「カイザルのほかには、私たちに王はありません。」
*カイザルのほかには、私たちには王はありません…祭司長たちはイエスを十字架につけて殺したいあまり、神はイスラエルの王であられるという信仰を否定しました。
イザヤ44:6ーイスラエルの王である主、これを贖う方、万軍の主はこう仰せられる。「わたしは初めであり、わたしは終わりである。わたしのほかに神はない。
19:16 そこでピラトは、そのとき、イエスを、十字架につけるため彼らに引き渡した。
ピラトはユダヤ人の声に屈してしまいました。
19:17 彼らはイエスを受け取った。そして、イエスはご自分で十字架を負って、「どくろの地」という場所(ヘブル語でゴルゴタと言われる)に出て行かれた。
*自分で十字架を負って…かつて自分でたきぎを負ってモリヤの山を父アブラハムと共に登ったイサクの姿と重なります。
創世記22:6ーアブラハムは全焼のいえけにえのためのたきぎを取り、それをその子イサクに負わせ、火と刀とを自分の手に取り、ふたりはいっしょに進んで行った。
19:18 彼らはそこでイエスを十字架につけた。イエスといっしょに、ほかのふたりの者をそれぞれ両側に、イエスを真ん中にしてであった。
ピラトは、彼の永遠を決定づける神の御子イエスが目の前に立っておられ、そのイエスへの取り調べの中でそれを感じたにもかかわらず、結局、自分にとっての救いの機会を捨ててしまいました。
イエスはふたりの強盗の真ん中で十字架につけられました。息を引き取る前に、ひとりはイエスとともに『パラダイス』に行く約束をもらい、ひとりはもらえませんでした。その違いは何でしょう?
ある人々は「神は愛なので、人類はみな救われます」と万民救済論を説きますが、聖書的に見て、それは真理ではありません。なぜなら、もうひとりの強盗は、パラダイスに行く約束はもらえてはいないからです。
惑わされないように気をつけたいものです。
〜おまけ〜
詩篇55:17ー夕、朝、真昼、私は嘆き、うめく。
すると、主は私の声を聞いてくださる。
1列王記8:48~50ー捕らわれていった敵国で、心を尽くし、精神を尽くして、あなたに立ち返り、あなたが彼らの先祖に与えられた彼らの地、あなたが選ばれたこの町、渡しが御名のために建てたこの宮のほうに向いて、あなたに祈るなら、
あなたの御住まいの所である天で、彼らの祈りと願いを聞き、彼らの言い分を聞き入れ、
あなたに対して罪を犯したあなたの民を赦し、あなたにすむいて犯したすべてのそむきの罪を赦し、彼らを捕らえていった者たちが、あわれみの心を起こし、彼らを憐れむようにしてください。
ダニエル6:10ーダニエルは、その文書の署名がされたことを知って自分の部屋に帰った。ーー彼の屋上の部屋の窓はエルサレムに向かってあいていた。ーー彼は、いつものように、日に三度、ひざまずき、彼の神の前に祈り、感謝していた。
イエス様は十字架上で七つのことばを残されました。そのうちの二つが、神に対する語りかけになっており、『夕、朝、真昼』の時間帯の朝と夕の時間にぴったりと一致します。
【朝】9時ー十字架につけられた直後
①ルカ23:34ーそのとき、イエスはこう言われた。「父よ。彼らをお赦しください。彼らは、何をしているのか自分ではわからないのです。」彼らは、くじを引いて、イエ
スの着物を分けた。
②ルカ23:43ーイエスは、彼に言われた。「まことに、あなたに告げます。あなたはきょう、わたしとともにパラダイスにいます。」
③ヨハネ19:26~27ーイエスは、母と、そばに立っている愛する弟子とを見て、母に「女の方、そこに、あなたの息子がいます」と言われた。
それからその弟子に「そこに、あなたの母がいます」と言われた。その時から、この弟子は彼女を自分の家に引き取った。
【真昼】12時ー御父との霊的断絶、苦しみの絶頂
詩篇22:1ーわが神、わが神。どうして、私をお見捨てになったのですか。遠く離れて私をお救いにならないのですか。私のうめきのことばにも。
詩篇88:1ー主、私の救いの神。私は昼は、叫び、夜は、あなたの御前にいます。
④マタイ27:46ー三時ごろ、イエスは大声で、「エリ、エリ、レマ、サバクタニ。」と叫ばれた。これは、「わが神、わが神。どうしてわたしをお見捨てになられたのですか」という意味である。
⑤ヨハネ19:28ーこの後、イエスは、すべてのことが完了したのを知って、聖書が成就するために、「わたしは渇く」と言われた。
⑥ヨハネ19:30ーイエスは酸いぶどう主を受けられると、「完了した」と言われた。そして、頭をたれて、霊をお渡しになった。
【夕】3時ー息を引き取る直前
⑦ルカ23:46ーイエスは大声で叫んで、言われた。「父よ。わが霊を御手にゆだねます。」こう言って、息を引き取られた。