ー使徒信条ー
我は天地の造り主、全能の父なる神を信ず。
我はそのひとり子、我らの主、イエス・キリストを信ず。
主は聖霊によりてやどり、おとめマリヤより生まれ、ポンテオ・ピラトのもとに苦しみを受け、十字架につけられ、死にて葬られ、よみにくだり、三日目に死人のうちよりよみがえり、天にのぼり、全能の父なる神の右に座したまえり。
かしこよりきたりて生ける者と死にたる者とをさばきたまわん。
我は聖霊を信ず。聖なる公同の教会、聖徒の交わり、罪の赦し、からだのよみがえり、永遠のいのちを信ず。アーメン
多くの教会で、毎週の礼拝の中で唱えている『使徒信条』ですが、願わくは、一語一句噛みしめながら唱えたいですよね。 私たちは御子イエスを信じていますが、果たしてどれほど深く将来の『花婿』のことを知っているでしょうか? どれほど詳しく人に紹介することができるでしょうか?
創世記1:1ー初めに、神が天と地を創造した。
*神…ヘブル語:エロヒーム。バナナ🍌やぶどう🍇の『房』のように、三つ以上をあらわす複数形のことば。『三位一体』を示唆。
ヨハネ4:24ー神は霊ですから、神を礼拝する者は、霊とまことによって礼拝しなければなりません。
*神は霊…約二千年前、神の御子が『受肉』する前は、『霊的存在』として天におられました。
その神が、人類の救いのために、罪の身代わりとして死ぬべきからだとして受肉されたのが『御子イエス』です。私たちが知るべき名として与えられている神の御名は、人として来られた御子の名『イエス』です。人としての御名だからこそ、私たちは友として親しく呼び捨てにしても、また嫌って御名を汚していた人でさえも、信じ受け入れた時に赦されるのです。
使徒4:10, 12ー皆さんも、またイスラエルのすべての人々も、よく知ってください。この人が直って、あなたがたの前に立っているのは、あなたがたが十字架につけ、神が死者の中からよみがえらせたナザレ人イエス・キリストの御名によるのです。
この方以外には、だれによっても救いはありません。世界中でこの御名のほかには、私たちが救われるべき名としては、どのような名も、人間に与えられていないからです。
マタイ12:32aーまた、人の子に逆らうことばを口にする者でも、許されます。
ルカ12:10aーたとい、人の子をそしることばを使う者があっても、許されます。
復活後の御子は、不死の栄光のからだで昇天され、現在も天におられます。
イエスの受肉は、聖霊により『神の御子』として、またおとめマリヤにより『人の子』として、100%神であり、100%人間として来られました。
マタイ1:18ーイエス・キリストの誕生は次のようであった。その母マリヤはヨセフの妻と決まっていたが、ふたりがまだいっしょにならないうちに、聖霊によって身重になったことがわかった。
*ふたりがまだいっしょにならないうちに…ヨセフのいいなずけであったマリヤが、まだヨセフと夫婦関係を持つ前に、の意。
マタイ1:23ー「見よ、処女がみごもっている。そして男の子を産む。その名はインマヌエルと呼ばれる。」(訳すと、神は私たちとともにおられる、という意味である。)
*その名はインマヌエルと呼ばれる…とありますが、福音書や書簡のどこを見ても、イエスが『インマヌエル』と呼ばれている箇所はありません。
これはいったいどういうことでしょうか?
答えは、イザヤ書にあります。
イザヤ7:3ーそこで主はイザヤに仰せられた。「あなたとあなたの子シェアル・ヤシュブとは出かけて行って、布さらしの野への大路のそばにある上の池の水道の端でアハズに会い、
*シェアル・ヤシュブ…預言者イザヤの長男の名前で、『レムナントは立ち返る』の意。 『レムナント』とは、イスラエルの残りの者のことであって、異邦人信者(クリスチャン)を指すことばではありません。
では、『イスラエルの残りの者』は、誰に立ち返るのでしょうか?
イザヤ10:21ー残りの者、ヤコブの残りの者は、 力ある神に立ち返る。
*ヤコブの残りの者…イスラエルの残りの者『レムナント』のこと。
*力ある神に立ち返る…とは、誰のことでしょう?
イザヤ9:6ーひとりのみどりごが、私たちのために生まれる。 ひとりの男の子が、私たちに与えられる。 主権はその肩にあり、 その名は「不思議な助言者、力ある神、 永遠の父、平和の君」と呼ばれる。
*「力ある神」と呼ばれる方は、ひとりのみどりごとして受肉され、おとめマリヤから生まれてこられた『イエス』のことです。その名は他に、「不思議な助言者、永遠の父、平和の君」とも呼ばれる、とあります。
つまり、『インマヌエル』には、イザヤ9:6bの四つの意味があるということです。
母マリヤは聖霊によってイエスをみごもったので、確かに『処女(おとめ)』でした。
マリヤが受胎告知を受けた時、既にヨセフとは『いいなずけ』であったために、ヨセフがマリヤとその子を受け入れることにより、マリヤは姦淫罪で石打ちの刑ー申命記22:23~24ーにならずに済みました。 聖書の記述としてはほんの少しですが、身に覚えのないマリヤの妊娠を知った時のヨセフの苦悶が記されています。
マタイ1:18~21ーイエス・キリストの誕生は次のようであった。その母マリヤはヨセフの妻と決まっていたが、ふたりがまだいっしょにならないうちに、聖霊によって身重になったことがわかった。 夫のヨセフは正しい人であって、彼女をさらし者にはしたくなかったので、内密に去らせようと決めた。 彼がこのことを思い巡らしていたとき、主の使いが夢に現れて言った。「ダビデの子ヨセフ。恐れないであなたの妻マリヤを迎えなさい。その胎に宿っているものは聖霊によるのです。 マリヤは男の子を産みます。その名をイエスとつけなさい。この方こそ、ご自分の民をその罪から救ってくださる方です。」
『正しい人』であったヨセフが、マリヤとその子を受け入れたので、人々からイエスは『ヨセフの子』と思われていました。
マタイ1:24~25ーヨセフは眠りからさめ、主の使いに命じられたとおりにして、その妻を迎え入れ、 そして、子どもが生まれるまで彼女を知ることがなく、その子どもの名をイエスとつけた。
*子どもが生まれるまで…という期間限定であり、生涯にわたってマリヤと夫婦関係を持たなかったという意味ではありません。
ルカ3:23ー教えを始められたとき、イエスはおよそ三十歳で、人々からヨセフの子と思われていた。このヨセフは、ヘリの子、順次さかのぼって、
しかし、イエスが生まれた後、ヨセフとマリヤは普通の夫婦となり、二人の間には少なくとも6人の子ども(4人の男の子と二人以上の女の子)たちが生まれたことを聖書は記しています。
マタイ13:55~56ーこの人は大工の息子ではありませんか。彼の母親はマリヤで、彼の兄弟は、ヤコブ、ヨセフ、シモン、ユダではありませんか。
妹たちもみな私たちといっしょにいるではありませんか。とすると、いったいこの人は、これらのものをどこから得たのでしょう。」
カトリック教会や東方教会では、*イエスの母マリアは『無原罪』ー1854年に教皇ピウス9世の回勅により教義決定ーや『聖母の被昇天』ー1950年に教皇ピウス12世により教義決定ー、『永貞童女』という教えがありますが、これらのことを裏付ける聖句はないため、プロテスタントの教会ではイエスの母マリヤも普通の人(原罪有り)であり、処女でみごもったのはイエスだけで、弟妹たちはヨセフとの間に生まれたと考えられています。* Wikipedia参照
教会の伝統に重きを置くのか、聖書のみことばに重きを置くのか…信仰が試される点でもありますね。
イエスは、人の助けがなければ生きていけない『みどりご』としてお生まれになりました。それは、私たち人間とまったく『同じ』になられたことを意味し、その成長過程において謙遜であられました。
ルカ2:51~52ーそれからイエスは、いっしょに下って行かれ、ナザレに帰って、両親に仕えられた。母はこれらのことをみな、心に留めておいた。
イエスはますます知恵が進み、背たけも大きくなり、神と人とに愛された。
神の御子イエスの受肉と十字架の目的は、
①信者たちを栄光の状態に導くこと
ヘブル2:10ー神が多くの子たちを栄光に導くのに、彼らの救いの創始者を、多くの苦しみを通して全うされたということは、万物の存在の目的であり、また原因でもある方として、ふさわしいことであったのです。
②死の力を持つ者を滅ぼすこと
ヘブル2:14ーそこで、子たちはみな地と肉とをもっているので、主もまた同じように、これらのものをお持ちになりました。これは、その死によって、悪魔という、死の力を持つ者を滅ぼし、
③信者を解放すること
ヘブル2:15ー一生涯死の恐怖につながれて奴隷となっていた人々を解放してくださるためでした。
④人を助けるため
ヘブル2:16ー主は御使いたちを助けるのではなく、確かに、アブラハムの子孫を助けてくださるのです。
③の『死の恐怖につながれて奴隷となっている信者を解放するため』には、彼らを『買い戻す』必要がありました。ルツ記にも記されている『買い戻しの権利』には、幾つかの条件があり、それらの条件を満たしていなければ『買い戻す』ことはできません。
その条件とは、
⑴ 買い戻される人と親族でなければならない。他人は買い戻すことができない。ーレビ記25:25, 申命記25:5~6
マタイ1章やルカ3章の系図を見れば、イエスが『イスラエル人(ユダヤ人)』であり、『ユダ族』の出であり、『ダビデの家系』であることがわかりますから、当然、イスラエル(ユダヤ人)に対して『親族』という最初の『買い戻し』の条件を満たしています。
では、私たち『異邦人』に対してはどうでしょうか?
マタイ1章の系図には、ダビデまでに4人の異邦人女性の名が記されています。
血のつながりの無い養父ヨセフだけでなく、ルカ3章の系図により母マリヤも『ダビデの家系』であることがわかりますから、イエスは異邦人とも血の繋がった遠い親戚であることが証明できます。
つまり、イエスは、イスラエル(ユダヤ人)だけでなく、異邦人に対しても『買い戻しの権利』を有しているということです。
⑵ 『買い戻す意志』が必要ー申命記25:7~10
『買い戻しの権利』を有する親族であっても、本人に代価を払って買い戻してもよいという意志がなければ買い戻しは成立しません。
イエスの場合はどうでしょうか?
私たちはよく「メシアを拒否したユダヤ人たちが、イエスを十字架につけて殺した」と言いますが、主ご自身は何と言われているでしょうか?
ヨハネ10:18ーだれも、わたしからいのちを取った者はいません。わたしが自分からいのちを捨てるのです。わたしには、それを捨てる権威があり、それをもう一度得る権威があります。わたしはこの命令をわたしの父から受けたのです。
*自分からいのちを捨てる…イエスは、自ら十字架にかかり、私たちの罪のためにいのちを捨てると、主は言われています。
⑶ 支払うべき『代価』を持っていることーレビ記25:26~27
マタイ17:27ーしかし、彼らにつまずきを与えないために、湖に行って釣りをして、最初に釣れた魚を取りなさい。その口をあけるとスタテル一枚が見つかるから、それを取って、わたしとあなたとの分として納めなさい。
釣りをして納税するほど貧しかったイエスが、何をもって私たちを『買い戻し』てくださったのでしょう?
何が、私たちの罪の代価となったのでしょうか?
マルコ10:45ー人の子が来たのも、仕えられるためではなく、かえって仕えるためであり、また、多くの人のための、贖いの代価として、自分のいのちを与えるためなのです。
マタイ27:6ー祭司長たちは銀貨を取って、「これを神殿の金庫に入れるのはよくない。血の代価だから」と言った。
1テモテ2:6ーキリストは、すべての人の贖いの代価として、ご自身をお与えになりました。これが時至ってなされたあかしなのです。
そうです!十字架で流された『神の小羊』としてのご自身の『血』を『代価』とされ、いのちを捨ててくださったのです。
ローマ8:1~3ーこういうわけで、今は、キリスト・イエスにある者が罪に定められることは決してありません。
なぜなら、キリスト・イエスにある、いのちの御霊の原理が、罪と死の原理から、あなたを解放したからです。 肉によって無力になったため、律法にはできなくなっていることを、神はしてくださいました。神はご自分の御子を、罪のために、罪深い肉と同じような形でお遣わしになり、肉において罪を処罰されたのです。
モーセの律法による動物の血では贖いきれなかった罪を、『神の小羊』としてのイエスの血は、すべて贖ってくださいました。
律法による動物の血では、罪のしみそのものを消し去るのではく『覆う』だけでした。
『しみ』そのものが残っていたため、イエスの昇天までは、信者のたましいも地のしたの『アブラハムのふところ/パラダイス』に置かれていたのです。
十字架でイエスが流した血により、罪のしみをすべて消し去ってくださったので、昇天以降すべての信者のたましいは、死後すぐに天のパラダイスに行くことが可能となりました。
エペソ4:8ーそこで、こう言われています。
「高い所に上られたとき、
彼は多くの捕虜を引き連れ、
人々に賜物を分け与えられた。」
旧約時代『メシア/油注がれた者』となったのは、王・祭司・預言者でした。
②祭司…イスラエルのレビ族からのみ。
③預言者…イスラエルの十二部族のどの部族からでも可能
初臨のイエスは、『モーセのような預言者』でした。
昇天後の現在、イエスは天で『メルキゼデクの位の大祭司』としてとりなしをしておられます。
地上の神殿には、レビ族のアロンの家系の者たけが大祭司になることが、律法により定められていました。イエスは、地上で『祭司』となられたことは一度もありません。
やがてイエスは『王の王』として地上再臨されます。ユダ族のダビデの子孫として誕生されたイエスですから、地上で『王』となることは律法的にも可能なのです。
また、再臨の主は『裁き主』でもあります。
なぜイエスが『王の王』となるのかというと、『千年王国』には復活したダビデが治める『イスラエル王国』の他に、異邦人の国々にも王たちが立てられており、すべての王国の王たちの上に再臨の主イエスが『王の王』として君臨するからです。
神に似せて、神の栄光をあらわすために造られた人間が、本来の生き方を目指すために、イエスは十字架でご自分の血の代価を払って買い戻してくださいました。
そのことを知らずに虚しく生きている人々が、まだまだ私たちも周りにたくさんいます。彼らが『異なる福音』を聞く前に、『本当の福音』を伝えなくてはなりません。
それにはまず、私たちがしっかりとみことばに立って、主に従っていくことが必要です。
ヘブル10:25ーある人々のように、いっしょに集まることをやめたりしないで、かえって励まし合い、かの日が近づいているのを見て、ますますそうしようではありませんか。
もうすぐ、キリストは花嫁である信者を迎えに来られます。
すべてキリストを信じる者が、霊的に覚醒し、励まし合い、携挙を待ち望む者となれますように。