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サザエのお裾分け

聖書を字義通り&文脈に沿って学び、理解したことの中からのお裾分け。内容は鵜呑みにせず、必ずご自分で聖書を開いて確認してくださいね。聖書理解の助けになれば幸いです。† 栄光在主 †

人はどうしたら救われるのか?

エペソ2:8ーあなたがたは、恵みのゆえに、信仰によって救われたのです。それは、自分自身から出たことではなく、神からの賜物です。

 

聖書が伝える『救いの条件』は常に、神からの賜物であり、『恵みのゆえに、信仰によって』です。その理由は『誰も誇ることがないため』だと、パウロは述べています。

エペソ2:9ー行いによるのではありません。だれも誇ることのないためです。

 

今の『教会時代』に生きる私たちは、ユダヤ人であろうと異邦人であろうと、救われるために信じる内容は同じです。

 

1コリント15:3~5ー私があなたがたに最もたいせつなこととして伝えたのは、私も受けたことであって、次のことです。キリストは、聖書の示すとおりに、私たちの罪のために死なれたこと、 また、葬られたこと、また、聖書の示すとおりに、三日目によみがえられたこと、 また、ケパに現れ、それから十二弟子に現れたことです。

 

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では、旧約時代の人々は、何を信じて救われたのでしょうか?

彼らは『メシアの十字架を仰ぎ見て救われた』のではありません。

なぜなら、メシアの死やその理由、どういう死に方(十字架)をするかという預言がなされる以前の人々は、この定義に当てはまらないからです。

 

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創世記2:16~17ー神である主は人に命じて仰せられた。「あなたは、園のどの木からでも思いのまま食べてよい。

しかし、善悪の知識の木からは取って食べてはならない。それを取って食べるとき、あなたは必ず死ぬ。」

 

*善悪の知識の木からは取って食べてはならない…これが最初に出された神の命令であり、その理由を神はちゃんと教えられていました。『それを取って食べるとき、あなたは必ず死ぬ』と。エデンの園では『神の言われたことばは必ずそのとおりになる』という信仰の結果の行いとしてこの命令だけを守れば、永遠に神と生きることができたわけです。

 

最初の人 アダムが造られ『生きものとなった』時、彼には御霊の内住があり、無垢な者としてエデンの園に置かれました。神が造られた世界を喜び、神との対話を楽しみ、神に従う生き方ができる者として造られたのですが、それは意志のないロボットのようなものではなく、自由意志によって自ら神に従うことを選び取ることを神は望まれたのです。

 

人間社会でも、好きだから、愛しているからといっても、相手の意思を無視して結婚することはできないように、神も私たち人間側の意思によって、神を神とし、神に従う生き方を求められます。そのことを確認するために、食べてはいけない『善悪の知識の木』を『いのちの木』の隣りに置かれ、蛇が誘惑することを許可されました。cf ヨブ記1章

 

osusowake.hatenablog.com

 

アダムとエバは、神のことば(命令)を退け、蛇のことば(誘惑ー自分の耳に心地よいことば)を選んだことにより、神からの祝福を失いました。

彼らは蛇の誘惑に負け『信仰のテスト』に失敗し、神の言われたとおり内住の御霊は去り『霊的に死んだ者』となり、エデンの園を追われました。もう『いのちの木』には人間側がどんなに努力しても届かなくなりました。

 

アダムとエバに子孫が与えられたのは、エデンの園を追放された後であり、霊的に死んだ状態となった彼らが、私たち人類の祖となりました。

 

ローマ3:10~12ーそれは、次のように書いてあるとおりです。

義人はいない。ひとりもいない。 

悟りのある人はいない。神を求める人はいない。

すべての人が迷い出て、  

みな、ともに無益な者となった。  

善を行う人はいない。ひとりもいない。

 

エデンの園を追放されてから『ノアの洪水』までの間は、物事の善悪を自分の良心に従って決める『良心の時代』となりました。神の望む神との和解の方法は、エデンの園を追放されるアダムとエバに神が着せてくださった『皮の衣』に表わされています。

それは『罪の贖いには、血の犠牲が必要』だということです。 

 

良心に従って罪の誘惑に勝つことのできない人間は、動物のいけにえを捧げることにより、その血によって罪が覆われ、神との関係回復ができたのですが、洪水前には罪の支配に打ち勝つことができないほどに堕落してしまいました。

 

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神が罪を一掃された洪水後、ノアの家族から人類は再スタートを切ることになりました。良心によっては罪に打ち勝つことができない人間に、神は『七つの戒律』を与えられました。それが『ノアの七戒』と言われるものです。

洪水から『救われた者』としての生き方の指針でした。

 

そして、神は創世記3:15で言及された『女の子孫』の約束を守るために、ノアの三人の子どものうちから『セム』を選び、セムの家系から『アブラハム』を選ばれました。

神の選びの器となったアブラハムが『義』とされたのは、一人息子のイサクを捧げようとしたからではありません。それ以前に神が言われたことばを信じたために『義』とされ、神のことばを信じた結果、行動が伴ったのです。

 

創世記15:4~6ーすると、のことばが彼に臨み、こう仰せられた。「その者があなたの跡を継いではならない。ただあなた自身から生まれ出てくる者が、あなたの跡を継がなければならない。」

そして、彼を外に連れ出して仰せられた。「さあ、天を見上げなさい。星を数えることができるなら、それを数えなさい。」さらに仰せられた。「あなたの子孫はこのようになる。」

彼はを信じた。主はそれを彼の義と認めた。

 

アブラハムは、神が言われた子孫の約束のことばを信じたからこそ、イサクを捧げることができたのです。

それはアブラハムがメシアの十字架を仰ぎ見て救われたのではなく、一人息子のイサクを捧げることが『神がそのひとりごイエスを人類の罪の贖いのために与えることの型』となっています。聖書にはこのような『型』が、たくさんあります。イスラエルの七つの祭りも『キリストの型』となっています。

 

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「聖書は一貫して『信仰による義』を伝えています」と言うと、「モーセの律法はどうなのだ?」と反論する人がいますが、律法が与えられたのはエジプトでの奴隷生活から救い出されたイスラエルの民に対してです。

つまり、奴隷生活から救われたイスラエルの民が、自由人としていかに生きるべきかを教えるためのものでした。

 

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バプテスマのヨハネまでの旧約時代の人々が、神に信頼して生きるとは、モーセの律法に従って生きるということでした。それが信仰の結果として出て来ることだったのです。

*私たち異邦人は、『モーセ契約』の外、対象外です。

 

奴隷生活から救い出されたイスラエルの民は結果として、律法に従えば祝福され、聞き従わなければのろわれる者となりました。

申命記28:2あなたがたの神、主の御声に聞き従うので、次のすべての祝福があなたに臨み、あなたは祝福される。

 

申命記28:15ーもし、あなたが、あなたの神、主の御声に聞き従わず、私が、きょう、命じる主のすべての命令とおきてとを守り行わないなら、次のすべてののろいがあなたに臨み、あなたはのろわれる。

 

律法の中には、のちに

モーセのような預言者』が現れたら、その者の言うことを聞くようにー申命記18:15, 18ーという命令も含まれていました。その『モーセのような預言者』として来られた方こそ、メシアであるイエス様なのです。

 

だからこそ、メシアが来られた後は

1コリント15:3~5ー私があなたがたに最もたいせつなこととして伝えたのは、私も受けたことであって、次のことです。キリストは、聖書の示すとおりに、私たちの罪のために死なれたこと、 また、葬られたこと、また、聖書の示すとおりに、三日目によみがえられたこと、 また、ケパに現れ、それから十二弟子に現れたことです。

を信じることによって『義』と認められるのです。

 

どの契約の下に生きていた人かにより信ずべき神の啓示(内容)は変わりますが、いつの時代も神のことばを信じる信仰によって『義』と認められ救われるのです。

 

ローマ10:9~10ーなぜなら、もしあなたの口でイエスを主と告白し、あなたの心で神はイエスを死者の中からよみがえらせてくださったと信じるなら、あなたは救われるからです。

人は心に信じて義と認められ、口で告白して救われるのです。

 

「信じたいの信じられない」と言われる方は、自分の『罪』について考え、神の御前にどのように弁明したら『義』と認めて頂けるのかを考えてみてはいかがでしょう?

 

誰かを恨んだことはありませんか?

悪口を言ったことはありませんか?

意地悪をしたり、意地悪い思いを持ったことはありませんか?

子どもの頃、親の財布から小銭を取ったり、多くもらったお釣りをそのまま受け取ったりしたことはありませんか?

人の目を気にして、善人ぶったりしたことはありませんか?

あなたが行った『善行』は、神の栄光のためでしたか?

 

社会的に『罪』とみなされていなくても、聖書が伝える『罪』は、

ローマ13:23b信仰から出ていないことは、みな罪です。

 

神の記憶の書には、あなたの人生におけるすべての言動が記されています。

その物的証拠を前に、弁護人であるイエス・キリストを持たずに、自らの潔白を弁明しなくてはならないのが不信者だからです。

 

マラキ書3:16ーそのとき、

主を恐れる者たちが、互いに語り合った。

主は耳を傾けて、これを聞かれた。

主を恐れ、主の御名を尊ぶ者たちのために、

主の前で、記憶の書がしるされた。

 

黙示録20:12ーまた私は、死んだ人々が、大きい者も、小さい者も御座の前に立っているのを見た。そして、数々の書物が開かれた。また、別の一つの書物が開かれた。また、別の一つの書物も開かれたが、それはいのちの書であった。死んだ人々は、これらの書物に書き記されているところに従って、自分の行ないに応じてさばかれた。

 

キリストの福音を信じる者は『いのちの書』にその名が書き記され、キリストご自身が『弁護人』して立ってくださるのです。