創世記1章の神の創造の初めや出エジプト記をよく注意して読むと、神は『区別』されていることがわかります。
創世記1:4ー神は光を見て良しとされた。神は光とやみとを区別された。
創世記1:6~7ー神は仰せられた。「大空が水のまっただ中にあれ。水と水との間に区別があれ。」
神は大空を造り、大空のしたの水と、大空の上の水とを区別された。そのようになった。
創世記1:14ー神は仰せられた。「光る物が天の大空にあって、昼と夜とを区別せよ。しるしのため、季節のため、日のため、年のためにあれ。
創世記1:18ーまた昼と夜とをつかさどり、光とやみとを区別するようにされた。神はそれを見て良しとされた。
【男と女との区別】
創世記1:27ー神は人をご自身のかたちとして創造された。神のかたちとして彼を創造し、男と女とに彼らを創造された。
【イスラエルの神とエジプトの神との区別】
出エジプト記7:5ーわたしが手をエジプトの上に伸ばし、イスラエル人を彼らの真ん中から連れ出すとき、エジプトはわたしが主であることを知るようになる。
【イスラエルの民とエジプト(異邦人)の民】
出エジプト記8:21~23ーもしもあなたがわたしの民を行かせないなら、さあ、わたしは、あぶの群れを、あなたとあなたの家臣とあなたの民の中に、またあなたの家の中に放つ。エジプトの家々も、彼らがいる土地も、あぶの群れで満ちる。
わたしはその日、わたしの民がとどまっているゴシェンの地を特別に扱い、そこには、あぶの群れがいないようにする。それは主であるわたしが、その地の真ん中にいることを、あなたが知るためである。
わたしは、わたしの民とあなたの民とを区別して、救いを置く。あす、このしるしが起こる。』」
イスラエル(ユダヤ人)とエジプト(異邦人)との区別がほかにもたくさん聖書箇所をあげることができます。それほど神は、差別ではなく『区別』をされています。
時代区分も然りです!!
これらの時代区分は、神が結ばれた契約に基づいてなされており、聖書を時系列に従って理解するのにとても役立つものです。
また、どの時代の人々が、神のどの命令に従うべきなのか、何を信じたら『義』とされるのかを理解するのに役立ちます。
時々、「旧約時代の人々は、キリストの十字架を仰ぎ見て(待ち望むことによって)救われ、新約時代の人々は、キリストの十字架をかえりみて救われる。」と言われますが、これは間違った教えです。
なぜなら、旧約時代を代表するアブラハムやモーセは、メシア(キリスト)が十字架で死なれるということは知らなかったからです。
メシアの受難は、預言者イザヤが初めて預言したことなので、神からの啓示がなく、知らないことを『仰ぎ見る』ことも『待ち望む』こともできません。
では、旧約時代のイスラエルの民は、何を信じたら『義』とされ、救われたのでしょうか?
モーセ契約による律法の時代よりも前の『約束の時代』は、『信仰の父』と言われるアブラハムは、創世記15:1~5にある『アブラハム契約』の神の約束を信じたとき、義とされました。
創世記15:6ー彼は主を信じた。主はそれを彼の義と認められた。
『モーセ契約』の律法の中では、エジプトの奴隷生活から救い出された神の選びの民イスラエルが、救われた者としての生き方の指針として『律法』(613の条項)が与えられました。これが『神の選びの民』としての生き方の基準であって、律法を行うことによって救われるのではありません。
エペソ2:8ーあなたがたは、恵みのゆえに、信仰によって救われたのです。それは、自分自身から出たことではなく、神からの賜物です。
これは、御霊によってパウロが記した真理ですが、旧約の時代も新約の時代も同じです。
神は聖なるお方ですから、イスラエルの民が律法に違反し罪を犯した場合、神の民として神との関係が途絶えてしまいました。その時の罪の処理方法がとして、動物のいけにえの血を流すことによって神と和解し、神の関係が回復するということが、同じ律法によって定められています。
律法を行なうことによって救われるのではありません。
神を信じる者(イスラエル人)としての生き方の指針を示すものであって、神を信じないイスラエル人は律法を守り行なうということもありません。
では、律法の時代の異邦人はどうしたら救われたのでしょうか?
イザヤ43:10~12ーあなたがたはわたしの証人、
--主の御告げ--
わたしが選んだわたしのしもべである。
これは、あなたがたが知って、わたしを信じ、
わたしがその者であることを悟るためだ。
わたしより先に造られた神はなく、
わたしより後にもない。
わたし、このわたしが、主であって、
わたしのほかに救い主はいない。
このわたしが、告げ、救い、聞かせたのだ。
あなたがたのうちに、異なる神はなかった。
だから、あなたがたはわたしの証人。
--主の御告げ--わたしは神だ。
*あなたがた…イスラエルの民
イスラエルの民が『まことの神であり、救い主であるお方』の証人として召されています。
イスラエルの民が『神の証人』として、異邦人に『何を信じたら救われるのか?』を告げるように命じられています。
この箇所から、律法の時代の異邦人たちは、以下二つのことを信じる必要があったことがわかります。
①イスラエルの神が、唯一の神であること。
(偶像の神々から離れなければならないこと)
②イスラエルの神だけが、唯一の救い主であること。
(この神だけが救い主だと信じたならば、自分の行ないによるわざによって救いを得ようとする虚しい努力から解放される)
では、律法の時代にイスラエルの神が唯一の神であり、救い主であることを信じた異邦人も、律法に従う必要があったのでしょうか?
イスラエルにいる異邦人は、律法に従う必要がありましたが、イスラエル国外にいる異邦人は律法の対象外でした。
出エジプト記20:10ーしかし七日目は、あなたの神、主の安息である。あなたはどんな仕事もしてはならない。ーーあなたも、あなたの息子、娘、それにあなたの男奴隷や女奴隷、家畜、また、あなたの町囲みの中にいる在留異国人もーー
レビ記16:29ー以下のことはあなたがたに、永遠のおきてとなる。第七の月の十日には、あなたがたは身を戒めなければならない。この国に生まれた者も、あなたがたの中の在留異国人も、どんな仕事もしてはならない。
レビ記18:26ーあなたがたは、わたしのおきてとわたしの定めを守らなければならない。この国に生まれた者も、あなたがたの間の在留異国人も、これらの忌みきらうべきことを、一つでもおこなうことがないためである。
律法の時代、イスラエルの在留異国人以外の異邦人が、上記の①と②を信じた場合、『アダム契約』と『ノア契約』の戒めに従って生きることが求められました。
、
もしも、この時代の異邦人信者が罪を犯したなら、アベルと同じように動物のいけにえをささげ、その血を流すことによって神との和解が成立することになりました。
しかし、この時代は神の選びの民イスラエルを中心に聖書は記されているため、国外の異邦人信者が動物のいけにえをささげたという記述はありません。(国外の異邦人信者はまだいなかった可能性もあり得ます)
現在の『恵みの時代』の人々は、イスラエルの民も異邦人も 1コリント15:3~4の『福音の三要素』を信じることによって救われます。
一度得た『救い』を失うことはありません。
信じた者は『モーセの律法』ではなく、『キリストの律法』に従って生きることが求められています。
であるならば、信者が罪を犯した場合は、動物の血のささげものではなく、罪を告白することによって赦されます。
1ヨハネ1:9ーもし、私たちが自分の罪を言い表すなら、神は真実で正しい方ですから、その罪を赦し、すべての悪から私たちをきよめてくださいます。